第12話 監察所の掲示
朝の光が、まだ斜めに街路へ差し込む時間だった。東門へ向かう途中で、僕はいつもと違う気配に、つい足を止めた。
監察所の前に、小さな人だかりができている。
監察所は、世界政府の出先が置かれた、石造りの四角い建物だ。役場のように、誰かが用事で出入りする場所ではない。普段は扉が固く閉ざされ、前を通る人も、なんとなく足を速めていく。そういう、近寄りがたい建物だった。それが今朝にかぎって、壁際の掲示板に何人もが顔を寄せ、口々に何かを言い合っている。この建物の前に人が集まっているのを見るのは、初めてかもしれない。
僕も、つい人の輪に近づいた。肩越しに覗き込むと、貼り出されたばかりの触れ書きが見えた。墨の匂いが、まだ新しい。
「――東の街道を、世界政府の部隊が通る、だってよ」
前にいた恰幅のいい男が、隣の女房に読み聞かせている。捕らえられた罪人を、街道沿いに護送していくのだという。その道中、この街を一度だけ通る。だから今日は、東門のあたりが、少しのあいだ、賑わうだろう、と。
「じゃあ、世界政府の魔導官様が、来なさるのかい」
女房が、思わずといった調子で、声をひそめた。その一言で、人だかりの空気が、ふっと華やいだ。まるで、祭りの前触れでも聞いたみたいに。周りでも、あちこちで声が上がりはじめる。「何年か前に、遠くから一度見たきりだ」「今日はうちの子にも、見せてやらないと」――みんな、どこか誇らしげだった。
魔導官。
ギルドの冒険者とも、いつも門に立つ衛兵とも、まるで違う人たちだ。金や依頼で動くんじゃないし、ひとつの国が抱える兵でもない。世界政府が、秩序を守るために抱えている――そういう、遠い人たち。地方の小さな街に暮らしていると、その姿を間近で見られる機会なんて、そう何度もあるものじゃない。
僕も、なんだか胸の奥が、小さくざわついた。それと同時に、人だかりのすぐ後ろで、固く閉じたままの監察所の扉が、やけに静かに、よそよそしく見えた。
昼前、東の川から戻ってくると、門の内側の通りには、もう人が並びはじめていた。
子どもが親の手を引いて、爪先立ちで背伸びをしている。店を早じまいにした親父が、腕を組んで、通りの先をじっと見ている。軒先の日陰では、年寄りが数人、腰を落ち着けて待っていた。日差しはもう高く、土埃と汗の匂いが、待つ人いきれに混じっている。みんな、どこか浮ついた、いい顔だ。通りの両側は、いつのまにか二重、三重の人垣になっていた。誰かが「来たぞ」と小さく声を上げるたび、みんなが首を伸ばしては、まだかまだかと、ざわめいた。
通りの要所には、この街の衛兵が幾人か立って、人の波が街道へこぼれないよう手で制していた。いつもは門で通行証や荷をあらためている、見慣れた顔ぶれだ。その彼らでさえ、今日はどこか居住まいを正して、通りの奥へ目をやっている。
やがて、通りの向こうから、どよめきが近づいてきた。人垣が、奥から順に、揺れていく。
先頭を、揃いの装備の兵が固めている。この街の衛兵とは、装いも足並みも、まるで違う。革と金具の擦れる音、幾人もの足が地を踏む音が、だんだんとこちらへ近づいてくる。同じ歩幅、同じ足音。よく統率された、隙のない列だった。その真ん中に、荷馬車が一台。鎖で繋がれた男が幾人か、荷台に俯いて座らされていた。埃と疲れにまみれた背中は、揺れる荷台の上で、身じろぎひとつしない。何をして捕まったのか、僕には知りようもない。鎖だけが、車輪の揺れに合わせて乾いた音を立てていた。あれが、護送されていく罪人たちなんだろう。
そして、列のいちばん後ろ。
外套をまとった、数人の姿があった。武器らしい武器は、何ひとつ持っていない。それなのに、周りを固める兵とは、まとっている気配がまるで違った。ただ静かに歩いているだけなのに、その一団が近づくにつれて、通りの空気が、すっと張りつめていく。誰に言われたわけでもないのに、みんなが、自然と少しだけ身を引いた。ざわめいていた人の声も、いつのまにか、小さくなっていた。
――魔導官様だ。
誰かが囁いて、群衆がどよめいた。子どもたちが、目を輝かせて手を振る。年寄りが、拝むみたいに、深く頭を下げる。店の親父が、前掛けで手を拭きながら出てきた。通りじゅうの目が、同じ背中を追っていた。
僕は、通りの隅で、それをただ、見ていた。
声は上げなかった。手も振らなかった。周りの誰もが浮き足立っているなかで、僕の足だけが、地面にぺたりと張りついているみたいだった。ただ、外套の一団が通り過ぎていくのを、静かに目で追っていた。
すごいな、と思う。あんなふうに、国から国へ、端から端まで守って回る人たちがいる。この街道の、ずっと先の先まで。僕がまだ見たこともない街や、名前も知らない土地の、その果てまで。どんな景色が広がっているんだろう。どんな人たちが、どんなふうに暮らしているんだろう。想像するだけで、少しだけ、胸が高鳴った。
あの人たちが背負っているものは、たぶん、手を振ってはしゃいでいるみんなが思うより、ずっと重い。なんとなく、そんな気がした。理由は、うまく言えない。
列が遠ざかり、砂埃が薄れていく。名残惜しそうに、通りの人だかりが、ゆっくりとほどけていった。
「おれ、大きくなったら魔導官になるんだ」
胸を張るその子を、母親らしい女が、困ったように笑って、その子の頭を撫でた。
「ああいう魔導官様にはねえ、誰でもなれるものじゃないんだよ。あちこちの国で見込まれた、ほんのひと握りの人か、でなけりゃ、代々そういうお血筋の貴族様くらいのものさ。みんな、世界政府がお預かりしている、特別な力なんだから」
「おれ、才能あるもん」
「はいはい。じゃあまずは、好き嫌いせずに食べるところからだね」
周りの大人たちが、小さく笑った。
僕は、リュックの肩紐を握り直して、宿への道を歩き出した。閉じたままの監察所を、僕はもう振り返らなかった。――ここは、長く立ち止まる場所じゃない。
あの外套の背中は、この街道の先へ、砂埃と一緒に消えていった。
僕の行き先も、たぶん、同じ方向だ。まだ顔も知らない街や、噂でしか聞かない土地が、その先には、いくらでもある。今日の稼ぎは、椀一杯の汁と、宿代に少し足すだけで消えてしまう。それでも、いつか必ず、あの街道の先まで、この足で歩いていく。
そう思うと、なんでもない昼下がりの空が、やけに広く見えた。




