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僕の世界  作者: 0u0
第一章
15/27

第11話 教会前の列

 ヴォルグ(狼型の魔物)の牙を切り取ったとき、滑らせててのひらに負った傷は、数日たっても、まだ薄く赤い線を引いたままだった。


 朝、井戸で顔を洗うと、り傷のふちが水にしみて、小さく痛んだ。深くはない。放っておいても、そのうちふさがる程度のものだ。ただ、僕の稼ぎは、この手で草をつまみ、根を掘り、獲物をさばくことで成り立っている。こじらせて何日も棒に振るのは、いちばん困る。自前の薬草はもう心細いし、こじれる前に、ちゃんとした軟膏なんこうをひとつ買っておこう。


 ルタさんの店に寄ってから、東の川沿いへ出よう。そう決めて、僕は宿を出た。


 薬屋へ行く道は、教会の支部の前を通る。


 石造りの、この通りでいちばん背の高い建物。夜に遠くから見たあの白い光は、昼の陽の下では、もう見えなかった。かわりに見えたのは、石段の下から両開きの扉の前まで、途切れずに並ぶ人の列だった。


 布にくるまれた赤ん坊を、あやし続ける母親。腕を布で吊り、青い顔をした若い男。せきをするたびに背を丸め、隣の女に支えられているせた老人。順番を待つ人たちは、みな一様に静かだった。誰も、声高に順番を争ったりはしない。ただ、扉の奥の白い光を、じっと見上げている。


 赤ん坊が一度ぐずって、母親がすぐに背をさすった。咳が一つ、列の後ろで潰された。


 軽い切り傷や、ちょっとした熱くらいなら、薬屋か、町の治療師で足りる。ここにこうして並んでいるのは、それだけでは、もう、どうにもならなくなった人たちなのだろう。


 僕は、列には加わらない。てのひらの擦り傷くらいで聖堂の世話になろうとは思わないし――なろうとしたところで、そんな持ち合わせは、はじめから僕にはない。


 ただ、通り過ぎるとき、母親の腕の中の赤ん坊と、目が合った気がした。


 その一瞬だけ、通りの音が聞こえなくなった。昨日の夜も、この列は、こうしてここにあったのだろうか。


 列の先頭で、扉が細く開き、次のひとりが、静かに中へ招かれた。残りの人たちは、黙って、また一歩、前へ詰める。その一歩が、ひどく重たそうに見えた。


 ルタさんの薬屋は、通りの奥まった一角にあった。


 戸をくぐると、乾いた薬草のにおいが、いちどきに鼻を満たす。天井からるされた無数の草の束が、暗がりの中で、静かに揺れていた。奥の卓で、ルタさんは木のさじを使い、すり鉢の中の何かを、根気よく練っていた。


 僕の顔を見ると、老婆は手を止めもせずに言った。


「なんだい。クルサ(止血草)なら、今日はまだ早いよ」

「今日は、買うほうです。手の傷に効く軟膏なんこうを、少し」


 ルタさんは僕の掌をちらりと見て、「そんなもの、クルサをつぶして擦り込んでおけば済むだろうに」と鼻を鳴らした。それでも、棚の奥から小さなつぼを取り、軟膏をひと匙、乾いた木の葉に手際よく包んでくれる。


みかけたら、これを塗りな。三百レムだ」


 僕が革袋から小銭を数えていると、店の戸が、乱暴に開いた。


 入ってきたのは、痩せた女だった。背中に、ぐったりとした男の子を負っている。まだ五つか六つだろうか。子どもの息は浅く速く、閉じたまぶたの下のほほは、火のように赤かった。女は、僕のことも卓のことも目に入らない様子で、まっすぐルタさんのところへ来ると、すがるように言った。この子の熱が、もう三日も下がらない。近くの治療師にもらった薬も、効かなかった。どうか、どうか、と。


 背中の子が、熱に浮かされて、小さくうめいた。母親は、その細い身体を揺すり上げ、あやすように背をさすった。その手が、かすかに震えていた。


 ルタさんは、練りかけの匙を置いた。


 子どもの瞼をそっと開き、のどの奥をのぞき、細い手首に指を当てて、しばらく、何も言わなかった。いつもの、はかりの上で小指ひとつ分をきっちり値切ねぎるような、あの油断ならない気配けはいは、そこにはなかった。ただ、静かに、深く、診ていた。


 やがて老婆は、低い声で言った。


「あたしの薬でも、熱は、いくらか下げられる。……だがね。この子は、もう、あたしらの手に負えるところにいない。深いところが、悪くなってる。こういうのは――聖堂の、聖療師せいりょうし様の領分だ」


 女の顔から、血の気が引いた。


「……聖堂は」その声は、かすれていた。「聖堂の、寄付は、おいくら、ほど」


 ルタさんは、答えなかった。


 答えるかわりに、そっと目を伏せた。その沈黙が、どんな金額よりも、はっきりと答えていた。深い傷や重い病を診てもらうのに、聖堂がどれだけのものを求めるか。それは、この痩せた身なりの女が、とても払えるようなものではないのだと。


 女は、握りしめた手の中の、わずかな硬貨に目を落とした。それから、その手を、ゆっくりと閉じた。


 背中の子をきつく抱え直したまま、女は、その場に、立ち尽くしていた。


 僕は、木の葉に包まれた軟膏を、そっと握りしめた。


 僕の掌の傷なら、三百レムと、そこらに生えた草で、じきに塞がる。けれど、あの子の身体の奥で燃えている熱は、たぶん、今の僕の手には、届かない場所にある。同じ、人の身体を治すことなのに。


 何か言えたら、と思った。何かできたら、と。けれど、僕にできることは、何ひとつなかった。あの子のために差し出せるものなど、今の僕は、何も持っていない。それが、無性に、悔しかった。


 女がようやく顔を上げ、ルタさんに何度も頭を下げ、それでも子を背負い直して店を出ていくのを、僕は、ただ、見送ることしかできなかった。


 その日の採取を終えて宿に戻ると、僕は井戸端いどばたで、掌の傷を洗った。


 ルタさんの軟膏を薄く塗り、上から布を巻く。ついでに、帰り道に摘んできたクルサを潰して、傷のふちに擦り込んだ。きつくしみたが、悪い痛みではなかった。これで、二、三日もすれば、きれいに塞がるだろう。


 僕のは、これで十分だ。三百レムと、そこらの草で、ちゃんと治る傷。それが、どれだけありがたいことなのか、今日、はじめて、身にしみて分かった気がした。


 部屋の小さな窓から、教会の白い光が、今夜も遠くに灯っていた。あの光の下で、あの子の熱は、少しでも下がっただろうか。あの母親は、いま、どこにいるのだろう。


 わからない。何ひとつ、わからないまま、僕は、布を巻いた手を、そっと握ってみた。


 僕の傷は、三百レムと、そこらの草で塞がる。

 あの子の熱は、白い光の向こうにある。

 その距離が、どうしても、同じ世界のものには思えなかった。

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