第10話 生活魔法の灯り
一日ぶんの疲れを背負って街へ戻る頃には、日はもう西の空の低いところにあった。
東の草地でずっとかがんでいたせいで、腰も膝も重い。それでも、道の先にハルヴェンの街並みが見えて、家々の窓にひとつ、またひとつと灯りがともりはじめると、自然と足が速くなった。あのどれかの灯りの下で、今夜も温かい汁にありつける。そう思うだけで、腹が小さく鳴った。
「……腹、減ったなあ」
誰にともなくこぼして、僕はひとりで少し笑った。
街道には、僕と同じように一日を終えた人影が、いくつか街へ向かっていた。荷を負った行商人。鍬を担いだ、畑帰りらしい男。みんな、日が暮れきる前に、灯りのある場所へ帰ろうとしている。その背中を追うように、僕も足を運んだ。
東の門をくぐると、いつもの年かさの衛兵が、槍にもたれたまま僕に目をやった。
「戻ったか」
それだけの、短い言葉だ。
「はい、なんとか」
僕が笑って頭を下げると、衛兵は小さく顎を引いて、また通りのほうへ目を戻した。
まずはギルドへ。今日摘んだ草を、換えてもらわないといけない。
受付でメルナさんに布袋を差し出すと、彼女はいつものように、指の腹で一本ずつ切り口を確かめた。
「根の泥は落としてから持っておいで。目方に泥は買わないよ」
口ではそう言いながら、傷んだ葉だけをよけて、ちゃんと数えてくれる。百レムが数枚、板の上を滑ってきた。
「ありがとうございます」
頭を下げて受け取る。数えてみれば、今日の稼ぎは、安宿の一泊六千レムには遠く及ばない。小銭を革袋へ落とすと、底で軽い音がした。明日も、東へ行く。
依頼板のあたりで、身なりのいい男たちが四人、東の沢の話をしていた。群れの痕跡を、調べに入るのだという。よく手入れされた槍と弓と盾。頼もしい人たちだ。あの沢の上のことは、あの人たちに任せておけばいい。
僕は板を眺めるふりだけして、表へ出た。
通りは、灯りと、夕餉の匂いでいっぱいだった。屋台通りに入ると、湯気と、汁の匂いが、腹の底をまっすぐに掴んでくる。
汁を売る屋台の前に立つと、女将が鍋の下にそっと手をかざした。掌のあたりがぼうっと灯って、弱っていた火が、また息を吹き返す。鍋が、静かに煮立ちはじめた。
「……ひとつ、ください」
「はいよ。熱いから気をつけな」
女将は椀いっぱいに汁をよそって、木の匙を添えて寄越した。豆と、名も知らない青菜と、脂の浮いた、素朴な汁だ。冷えた指を椀の腹で温めながら、ひとくちすする。塩気と、出汁の温かさが、身体の奥まで染みていくのが分かった。
「……あったかい」
思わずこぼすと、女将は玉杓子を動かす手も止めず、ふん、と鼻を鳴らした。椀は、指に重かった。
「ごちそうさまでした。ありがとう」
空の椀を返すと、女将は「あいよ」とだけ返した。
汁で腹の底が落ち着くと、今度は串を焼く匂いに、つい足が止まった。今日くらいは、いいだろう。
「おじさん、一本ください」
親父はこちらを見もせず、いちばんよく焼けたのを木の皮に載せて寄越した。「熱いぞ」。素っ気ない声。それでも、親父が選んで寄越したのは、いちばん脂の乗ったところだった。
五百レムを一枚置いて、歩きながら、ひとくち齧る。塩と、脂と、焦げた縁の香ばしさ。一日じゅう縮こまっていた背中が、その一口で、また少しほどけた。
軒下の乾き物屋では、女が洗い物に手をかざして、うまく乾かないのか、小さく舌打ちしてもう一度かざしていた。二度めでようやく乾いて、抱えて戻っていく。その隣では、店じまいの主人が、土間の埃を風のひとなでで戸口の外へ送り出していた。
みんな、当たり前のように、指先ひとつで暮らしを回している。派手ではないけれど、その小さな灯りのひとつひとつが、暮れていく通りを、やわらかく温めていた。
いい街だな、と思う。串に残った最後のひと切れを、ゆっくり噛んだ。こういう、なんでもない夕方が、僕は好きだった。
宿へ帰る道は、教会の支部の前を通る。
石造りの、この通りでいちばん背の高い建物だ。大きな両開きの扉の奥から、屋台とも家々とも違う、白く静かな光がこぼれていた。夜気が下りても、その光の中に、いくつかの人影が、声も立てずに並んでいる。
僕は列には並ばない。今日はどこも痛くない。それでも通り過ぎるとき、つい足が少しだけ、ゆっくりになった。
宿の戸を押すと、中は煮炊きの匂いと、人のいる温みで満ちていた。土間のランプの下で、女将のエルマさんが帳面から顔を上げる。相変わらず、笑いはしない。
「遅いね」
それだけ言って、僕の足元から、提げた布袋、くたびれた顔までを一度に見て取る。
「東はもう暗いだろう。日の落ちる前に切り上げな。……野垂れ死にした客の宿代は、取りっぱぐれるんだからね」
突き放すような声だった。でも、その底に沈んでいるものが何なのか、僕にはもうわかる。
「はい。心配してくれて、ありがとうございます」
エルマさんは鼻を鳴らして、また帳面へ目を落とした。
「礼はいいから、次はもっと早くお帰り」
温かい灯りの下は、やっぱり落ち着く。
それでも二階へ上がる途中、ふと、さっきの白い光と、動かない列とを思い出した。あの人たちは、まだ並んでいるだろうか。
窓の外では、街の灯りが、ひとつ、またひとつと、静かに消えていくところだった。




