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僕の世界  作者: 0u0
第一章
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第9話 群れの一匹

 その日、僕は上流を避けた。


 鳥はまだ戻っていなかった。崩落から数日経って、川の濁《にご》りは引いたけれど、上流の斜面の静けさだけは、あの日のまま残っている。だから下流の、街道に近いあたりで、その日は済ませるつもりだった。


 クルサ(止血草)の袋がふたつ埋まった、昼過ぎ。


 風が、下流から上流へ、向きを変えた。


 その風に、匂《にお》いが乗っていた。獣の匂い。饐《す》えた脂と、濡《ぬ》れた毛の匂い。ゴブリンのそれとは違う。もっと大きくて、もっと、静かな気配《けはい》だった。


 僕は手を止めた。


 草むらの向こう、枯れかけた葦《あし》の茂《しげ》みが、風もないのに、低く揺れている。ゆっくりと、こちらへ寄ってくる。足音はほとんどしない。獲物に気づかれない歩き方を、知っている足だ。


 葦が割れて、それは出てきた。


 狼《おおかみ》だ。ただし、僕の知っている狼の、倍はある。肩の高さが、腰より上。濡れたような灰色の毛皮の下で、肩の筋肉が、歩くたびに滑らかに動いた。長い口吻《こうふん》の奥から、低い唸(うな)りが漏れている。白目まで黒く塗り潰《つぶ》したような目が、まっすぐ僕を見ていた。品定《しなさだ》めをする目だった。


 ――ヴォルグ。


 名前だけは、知っていた。群れで狩る、大型の狼。本来なら、こんなふうに一匹で出るものじゃない。数匹で獲物を囲んで、追い立てて、逃げ場を塞《ふさ》いでから仕留める。そういう狩り方をする魔物だと、聞いていた。


 聞いていた。頭では。


 でも、体のほうは、こいつを知らなかった。


 ゴブリンとは違う。獣とも違う。速さも、間合《まあ》いも、どこで牙を剥《む》くのかも、体に馴染《なじ》んだ答えがない。知識と、身体のあいだに、埋まっていない空白があった。その空白が、背筋を冷たくした。


 逃げる、のは無理だ。


 背を向けた瞬間に追いつかれる。それだけは、体が知っている。捕食者に背中を見せてはいけない。じりじりと、僕は腰の長剣に手をかけた。ゆっくり、刺激しないように。ヴォルグの唸りが、一段低くなる。


 先に動いたのは、向こうだった。


 地を蹴(け)る。速い。想像より、速い。低く沈んだ体が、まっすぐ喉元《のどもと》めがけて跳んでくる。僕は考えなかった。考える時間はなかった。体が勝手に半歩、横へ流れて、抜いた剣を下から擦(こす)り上げる。牙が、僕のいた場所の空気を噛(か)んだ。剣先が、前脚の付け根を浅く裂(さ)く。


 血の匂いが、跳ねた。


 ヴォルグが着地して、すぐ反転する。手負いになって、動きが荒くなった――と思ったのは、間違いだった。荒くなったんじゃない。本気になったんだ。低い姿勢のまま、今度は左へ回り込む。回り込みながら、間合いを計っている。一匹でも、狩りの型が、体に染みついている。これが、数匹できたら。


 背筋の空白が、答えを出した。囲まれたら、終わりだ。


 だから、この一匹のうちに、終わらせる。


 二度目の跳躍。今度は喉じゃない、足を狙ってきた。倒して、動きを止めてから食う気だ。僕は踏み込みを、迎えにいった。退かずに、前へ。相手の懐の、牙の届かない内側へ。すれ違いざま、剣を横に薙(な)ぐ。手応えが、腕の骨まで伝わった。


 ヴォルグが、横倒《よこだお》しに崩れた。


 それでも、まだ動こうとする。前脚で地面を掻(か)いて、起き上がろうとする。黒い目が、まだ僕を睨(にら)んでいる。最後まで、狩る側の目だった。僕は剣を握り直して、もう一度、今度は確かめるように、振り下ろした。


 静かになった。


 川の音が、戻ってきた。


 僕は、しばらく動けなかった。剣を提げたまま、荒い息だけが、自分のものとは思えない大きさで、耳の中で鳴っていた。膝が、遅れて震え出す。倒したあとで、体が、やっと恐怖を思い出したみたいだった。


 足元の、灰色の塊《かたまり》を見下ろす。


 ついさっきまで、あんなに滑らかに動いていた肩が、もう動かない。手慣れているはずだった。獣は、数えきれないほど狩ってきた。それでも、こうして自分が命を絶ったものを前にすると、胸の底が、しんと冷える。慣れることと、何も感じないことは、たぶん、違う。


 ひと呼吸、手を止めて、それから、僕は顔を上げた。


 上流を見た。


 鳥のいない、静かな斜面。もし、あそこに群れがいるなら。いま僕が倒したのが、はぐれた一匹じゃなくて、先に匂いを嗅(か)ぎつけた斥候《せっこう》だったなら。


 ――退こう。


 迷いは、なかった。牙と爪の、討伐の証明になる部位だけを、手早く切り取る。布に包んで、リュックの外に括(くく)りつけた。肉や毛皮まで持ち帰る余裕はない。長居は、危険だ。上流の静けさが、さっきより、ずっと重く感じられた。


 街道に出て、東の門へ急ぐあいだ、僕は何度も後ろを振り返った。追ってくる気配は、なかった。それでも、足は速いままだった。


 門をくぐるとき、いつもの衛兵が、汗だくの僕を見て眉《まゆ》を寄せた。


「どうした、血相変えて」

「川の上のほう、鳥が鳴いてなくて……なんか、嫌な感じで。怖くて、逃げてきました。あそこ、しばらく危ないかもしれません」

「……ふん。無理はするな。ギルドにも言っとけ」


 その言葉に甘えて、僕はまっすぐギルドへ向かった。誰かが上流を警戒してくれるなら、それがいちばんいい。


 カウンターには、メルナさんがいた。


 僕が布の包みを台に置くと、彼女はいつもの調子で口を開きかけ――牙が覗《のぞ》いた瞬間、その手が止まった。


「……ヴォルグの牙だね。どこで拾った」

「拾った、というか。川の下流で、一匹いて。襲われて、無我夢中で……弱ってたのが、運よく」

「一匹。あんたが」


 メルナさんは牙をつまみ上げて、光にかざした。それから、僕の顔を見た。泥と、鉤裂《かぎざ》きと、まだ引かない汗。値踏みするような、長い間があった。


「……上流に、群れがいるかもしれません。鳥が、戻ってないので」


 声が、まだ少し震えていた。メルナさんは眉ひとつ動かさず、伝票に何かを書きつけて、奥へ回した。


「上には伝えとくよ。……ただ、勘違いするんじゃないよ。ヴォルグ討伐の依頼なんて、出ちゃいない。これは討伐の報酬じゃなくて、牙の買い取りだ」


 彼女は、牙を台に戻した。


「はぐれ一匹、それも弱ってたとなりゃ、買える値はこれが上限さ。文句があるなら、目撃者か、群れの痕跡でも持っておいで。群れが確かめられりゃ、危険度も、値も変わる」


 差し出された額は、危険度のわりに、ずいぶん安かった。目撃者なんて、いない。いるわけがない。


 ――それは、ちょっとだけ、悔しかった。


 弱ってたのが、運よく、なんて言ったけれど、あれは、一歩間違えば僕が転がっていた。命がけだったのだ。その牙が、まぐれの一匹ぶんに値切《ねぎ》られた。


 革袋を掌(てのひら)で一度量ってから、腰へ戻す。行きと変わらない軽さだった。


 でも、生きて帰れた。牙も、ちゃんと金に換わった。文句を言えた義理じゃない。ただ、硬貨の頼りない音を思うと、腹の底が、少しだけ、ざらついた。


「……まあ、いいか」


 口に出してから、僕は一度だけ、大きく息を吐いた。それで、その悔しさも、夕暮れの街の音に紛れて、小さくなった。


 部屋に戻って、寝台《しんだい》に腰を下ろす。長剣を、鞘《さや》ごと膝《ひざ》に置いた。刃を布で拭《ぬぐ》うと、乾きかけた血が、暗く布に移る。何度も拭いてきた手つきで、僕は刃を清めた。手は、ちゃんと動く。


 窓の外は、もう暗い。

 ――こんな思いをしてまで、と、ふと思った。命がけで魔物と斬り合って、それでも値切られて、革袋はちっとも膨らまない。

 それでも、まだ見ぬ土地は、この稼ぎの先にしかない。


 明日《あした》は、川を休もう。上流の鳥が戻るまでは。牙を切り取った時の手応えが、まだ、指の奥に残っている気がした。

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