第8話 早すぎる撤退
二度目の川沿いには、先客がいた。
土手のこちら側に二人、向こうの瀬の近くに一人。腰の布袋と手つきからして、同業の採取者だ。考えてみれば当たり前だった。ギルドにも薬屋にも、雨あがりのクルサが上物のまま並んだのだ。出所なんて、聞かなくても知れる。
僕は先客から離れた下流側で、いつも通りに始めた。
膝をつく。根元を確かめる。刈る。束ねる。単純な仕事の繰り返しは嫌いじゃない。手が動いている間、耳と鼻は暇になって、勝手に周りを拾い集める。川の音。風が運ぶ土の匂い。対岸の茂みの、小鳥の節。
その土の匂いが、朝からずっと、重かった。
それに、手応えも変だった。刈ろうと茎を引いた株が、根ごと、ずる、と抜けた。一株なら、そういうこともある。でも今日は、三株に一株がそうだ。昨日まで、この土手の根は、どれもしっかり土を掴んでいたのに。
雨あがりの匂いとは違う。あれはもっと軽くて、青い。今日のは、水を含んで底が抜ける寸前の土の、鈍い匂いだ。それに、川の色。昨日より濁りが濃くて、上流から時々、細い根の切れ端が流れてくる。
昼前、風が止んだ一瞬に、みし、と低い音がした。
木の根が鳴る音。どこか、はっきりとは分からない。ただ、気づけば対岸の小鳥が、さっきから鳴いていなかった。虫の音も、薄い。
僕は刈りかけの株から手を離して、立ち上がった。
束は、まだ四つ。いつもの半分にもならない。それでも、リュックを背負って、革帯を締めた。理由を言葉にしようとすると、うまく並ばない。土の匂いと、根の音と、静かすぎる茂み。並べても、証拠には足りない。足りないけれど、耳と鼻が、もう帰れと言っている。
「おい、もう終いか?」
土手を登る途中で、先客の一人に笑われた。日焼けした若い男で、布袋はまだ薄い。
「まだ昼前だぞ。ここ、当たりだろうに」
「はい。今日は、これで」
それだけ返して、僕は頭を下げた。男は肩をすくめて、川べりへ戻っていった。もったいない、という背中だった。説明はしない。土の匂いが重い、なんて言われても、困るだけだろうから。
土手を登りきって、一度だけ振り返った。三人とも、もう手元の草しか見ていない。川は変わらず白く走っていて、僕の胸の中のざわつきだけが、置き場をなくしていた。気のせいなら、それでいい。半日ぶんの稼ぎを捨てるだけの話だ。
街道までは戻らず、土手の上の、地面の固い道を選んで歩いた。
しばらく行って、水袋の水を飲もうと足を止めた、その時だった。
地面の底から、太い音がした。
振り返ると、上流の岸が、動いていた。
木を二本乗せたまま、土手のひと区画が、ゆっくり傾いで――それから一気に、川へ崩れ落ちた。土煙が横に走って、水柱が立つ。茂みから鳥がいっせいに弾け飛んで、遅れて、腹の底に響く音が届いた。川が一瞬、崩れ土で細くなって、堰かれた水が濁って盛り上がる。さっきまで人がいたあたりから、怒号が上がった。土の、生々しい匂いが、ここまで流れてきた。
僕は道を戻った。走らず、早足で。
崩れたのは、瀬の近くにいた一人の、すぐ脇だった。男は間一髪で逃れたらしい。ただ、逃げる時に崩れ土の石で足をやられたのか、土手の下で膝を抱えて、脛から血を流していた。仲間の二人が駆け寄って、もう手拭いで膝の上を縛り始めている。傷口じゃなく、まず心臓側。手当ての順番は、合っていた。あれなら、大丈夫だ。
もし出来ることがあっても、しない方がいい場面だった。
ただ、通りすがりに、今日刈ったばかりのクルサをひと束、彼らから見える岩の上に置いた。切り口の赤い汁が、いちばん濃い束だ。目が合ったのは、さっき僕を笑った若い男だった。何か言いかけて、言葉にならないらしい顔で、口だけが動いた。僕は小さく頭を下げて、道へ戻った。
背中の向こうで、声が切れ切れに聞こえた。
「――骨まではいってねえ、大丈夫だ」
「深けりゃ聖療師様の世話だぞ。一万レムなんて、誰が――」
「いいから縛れ。クルサがある」
それきり、川の音に呑まれた。
帰りの道は、行きより静かだった。
崩れた岸のことを、僕は歩きながら考えないようにして、考えていた。あの場所は、昨日まで僕が膝をついていた並びだ。土の匂いは、重かった。根は鳴っていた。鳥は黙っていた。全部、そこにあった。拾うか、拾わないか。それだけの違いが、たぶん、いちばん大きい。
東の街門で、いつもの衛兵が僕の軽い荷を見た。
「今日は早いな」
「はい。川が、少し荒れそうだったので」
「ふん。無理しない質か。……いいことだ」
衛兵は、それ以上は聞かなかった。崩れのことは、言わなかった。じきに、あの三人のうちの誰かが戻って、届け出る。それは、そこにいた者の役目だ。僕は頭を下げて、門をくぐった。
夕方の街の音が、川の音と入れ替わりに戻ってきた。
夕方の食堂は、崩れの話で持ちきりだった。
「岸ごと、木が二本いったらしい」
「怪我人は?」
「脛をやったのが一人。命は拾ったと。仲間の手当てが早かったんだそうだ。あと、誰か知らんが、クルサを一束置いてったとかでな」
「物好きもいたもんだ」
噂は僕の隣を、僕に気づかないまま通り過ぎていく。命は拾った。よかった、と僕は椀の中に向かって、小さく思った。物好き、で済むなら、それがいちばんいい。
部屋に戻って、寝台に腰を下ろす。窓の外は、もう暮れかけていた。半日ぶんの束は軽くて、革袋は今日、ほとんど増えない。それでも、と思う。
両手を開くと、指の付け根に、まだ土の匂いが残っている気がした。両手は、ちゃんとここにある。
明日は、川を休もう。上流の鳥が鳴き出すまでは、あの岸に用はない。




