第7話 秤の指
薬屋の戸口は、朝から開いていた。
昨日と同じ、乾いた草と埃と、煮詰めた蜜のような匂い。一歩入ると、その匂いが層になって濃くなった。天井まで届く棚に、口を紐で縛った紙包みがぎっしり並んで、梁からは干し草の束が何十と下がっている。奥の台で、薬研がごり、ごり、と鳴っていた。昨日の、あの刻む音の正体だ。台の脇には刻んだ根が山になっていて、その隣に、塗り薬らしい小さな壺が蓋を開けたまま並んでいる。量り売り用の木の匙が、使い込まれて飴色になっていた。
その手が止まって、棚の陰から、小さな顔が覗いた。
痩せた、年寄りの女の人だった。白髪をきっちり後ろでまとめて、腰は少し曲がっているのに、目だけが棚の紙包みみたいにきちんと整っている。
「おや。昨日、表で張り紙を見てた子だね」
見られていたのか。声は、湯冷ましみたいに柔らかかった。
「クルサの買取を、お願いしたくて」
「お出し」
台の上で布袋を開けると、老婆は束をひとつ取って、慣れた指で葉を裏返した。茎を折り、切り口を目の高さに上げて、にじむ汁の色を確かめる。残りの五束も、ひとつずつ手に取っては、指先で葉を弾いて戻す。一束に、三呼吸もかけない。手つきだけで分かる。この人は、草で食ってきた人だ。
「いい汁だ。雨あがりに、日陰のを選んだね」
褒められて、少し嬉しくなった。背筋が、勝手に伸びる。その口で、老婆は続けた。
「ただねぇ、あいにく今日は出回りが多くて。束、六百ってとこかね」
「雨あがりの濃いものなら、ギルドで八百五十つきます」
染みついた手癖が、考えより先に口から出た。
出すつもりは、なかった。
薬研の余韻まで消えて、店の中が静かになった。通りの荷車の音が、急に近くなる。
「……ずいぶん、知ってるね」
老婆が言った。
しまった、と思った時には、もう遅かった。
「……あ、いや。前に、受付で聞いたような気がして」
少し考えて、僕は困ったように笑った。
「たぶん、そんな感じのことを」
老婆は僕をもうひと呼吸ぶん見て、それから、ふ、と息だけで笑った。
「いい受付に当たったね。――八百七十。六束ぜんぶ、ここに置いていくなら」
ギルドより上だ。頷くしかなかった。
「あと、こっちの雑いのも見てもらえますか。湿地の、アマラの根と、レニスの葉です」
「お出し」
老婆は袋の中身を台に空けて、まず選り分けた。アマラの根は右へ。レニスの葉は、一枚ずつ透かして、縁の傷んだものを容赦なく左へはねていく。はねられた葉が、みるみる小さな山になった。文句は言わなかった。実際、はねられた葉は、昨日の僕が欲を出して摘んだ、下の方の古い葉だった。
残った分を、老婆は秤に載せた。皿が沈んで、分銅が鳴る。その皿の縁に、老婆の小指が、そっと添えられていた。
……見てしまった。
見てしまって、今度は口を動かさなかった。動かさない代わりに、目が、その小指から離れるのに一拍遅れた。
老婆が、僕の目線の先を追った。
「――おや」
小指が、皿からすっと離れる。老婆は悪びれもせず、乾いた声で、くく、と笑った。
「目もいいんだねぇ、あんた」
「……いえ」
「五百八十。指の分は、まけとくよ」
どこまでが冗談なのか、分からない笑い方だった。僕は黙って頭を下げた。奥歯が、一度だけ、噛み合った。
支払いは、五百レムと百レムで、しめて五千八百レム。ギルドで売るより、確かにいくらか良い。そのかわり、油断したら指一本ぶん、静かに削られる。ここは、そういう店だ。
「ときに、あんた」
硬貨を数える僕の手元へ、老婆の声が落ちてきた。
「採取は、どこで覚えたんだい。手際が、拾い仕事の子のじゃないよ」
「……あちこちで。薬草の、多い土地にいたので」
老婆は「ふぅん」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。聞かないことが、この人の値踏みの続きのような気もした。
帰りかけて、僕は足を止めた。リュックのいちばん上の、苔の袋。
「あの。ステリアは、買ってもらえますか」
老婆は袋の口を開け、苔の間の青い光をひと目見て、すぐ閉じた。
「うちじゃ等級の判が押せない。それはギルドへお持ち」
それから、袋の苔を、皺だらけの指でひと撫でして、返してよこした。
「……ふぅん」
今度の「ふぅん」は、さっきより半音だけ低かった。
「クルサは、また持っておいで。雨のあとのなら、いつでも」
「はい。ありがとうございました」
「――ルタ」
え、と振り向く。
「あたしの名前だよ。次から、表で迷わないようにね」
「……ノアです」
背中に言った。ルタさんは振り向かなかった。ただ、薬研の音が、一度だけ止まった。
それから、ごり、ごり、という音が、僕の背中を戸口まで送った。
革袋に硬貨を落とすと、袋は掌の上で、昨日より確かな重さになった。目標までは、まだ遠い。でも、進んでいるのが分かる重さだった。
店を出ると、朝の光が目に刺さった。通りの音が戻ってくる。
夕方のギルドは、朝とは匂いが違う。汗と、革と、こぼれた麦酒。依頼から戻った連中のざわめきの中を、僕は列に並んで、順番を待った。
カウンターの木の飴色が、吊り灯りの下で鈍く光っている。順番が来て、僕は苔の袋を台に載せた。
メルナさんは僕の顔を見て、袋を見て、口を開けた。何か言いかけて――苔の下の、青い光に気づいて、止まった。
片方の眉が、ゆっくり上がる。
メルナさんは何も言わずに、査定の札へ手を伸ばした。
株をひとつずつ、明かりに透かして数える。指が、五回、止まった。それから札に、走り書きで数字を書いて、こちらへ滑らせた。
一万三千レム。
……一万三千。
思わず、札とメルナさんの顔を見比べた。浅場の、あんなに小さな株で。今日ルタさんに売った一日ぶんの稼ぎの、倍以上だ。
「あ、ありがとうございます……!」
「礼はいいよ。――苔の分だ。裸で持ってきてたら、半分にもならなかった」
メルナさんは素っ気なく言って、硬貨を数え始めた。でも、その一言が、なんだか胸の奥をあたたかくした。教わったことが、ちゃんと、値段になっている。
宿への帰り道、僕は何度も革袋の重さを確かめた。小銭とは違う、一万レム硬貨の、ずしりとした冷たさ。目標の、二割を越えた。音じゃなく重さで、革袋が自分を主張し始めていた。
「……やった」
誰もいない路地で、少しだけ、口に出した。掌には、まだ苔の湿りが残っている気がした。




