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節一 青衣の招き

山に春が満ち始めていた。雪解けの水が谷を渡り、鳥が囀る。だが庵の空気はどこか張りつめていた。──その静けさは、嵐の前触れのようでもあった。


その日、庵を訪れたのは、蒼い外套をまとった一人の使いだった。胸には、蒼牙の紋章。寛蓮はその姿を見た瞬間、静かに目を細めた。

「……久しいのう。」

さい……。」

「おや、やはりお忘れではありませんでしたか、寛蓮殿。」

その声音には、懐かしさよりも冷たい響きがあった。二人の脳裏に、かつて戦場で背を預けたあの日の幻がよぎる。だがそれは、次の瞬間、霧のように消えた。

青衣の男は、笑みとも嘲りともつかぬ薄い表情を浮かべながら、懐から一巻の文を取り出した。封蝋ふうろうには、蒼牙王室直属の印が押されている。

「勅命にございます。戦棋演武にて才を示した少女、雫。その才、国の理に資するものと見なし、入院を命ず──」

「これは命令でありますが、同時に“選ばれた証”でもあります。」

祝福のように響く言葉。だが、その奥にあるものは冷たい鋼だ。寛蓮は黙って文を受け取り、机の上に置いた。

「……また“才の徴収”か。」

「“徴収”とは穏やかでないですな。国家に才を奉じるは誉れ。あなたもかつて、同じ理に殉じたではありませんか。」

「殉じ──そして、捨てたのじゃ。」

その声に、斎はわずかに眉をひそめた。かつて、共に理を学び、戦場で盤を並べた仲。だが、今は一方が都に仕え、一方が山に身を潜めている。

「寛蓮殿。あの頃から、貴殿は“理の情”を信じておられた。だが、蒼牙の理は情を必要としません。理はただ勝つためにある。」

「勝ちを求める理は、血を呼ぶ。」

「血なくして理は立たぬ。それが蒼牙の考えです。」

二人の視線が交錯した。かつて同じ戦場にあった男たちの間に、言葉より深い亀裂が走った。

沈黙ののち、斎は小さくため息をつき、頭を下げた。

「拒むも、受け入れるも、寛蓮殿の自由。しかし──」

「しかし?」

「国が才を欲したとき、それを拒む者の末路は、古来より決まっております。」

「才を拒んだ里がどうなるか……覚えておられるでしょう。」

そのまま斎は踵を返し、庵を後にした。斎が去ったあと、庵の外を見やれば、遠い谷の向こうに焼け跡が見えてくる。あの黒い土の匂い──十数年前、理に背いた里の末路を、寛蓮は知っている。

(ついに……来おったか)


その夜、寛蓮は灯火の下で、書物をじっと見つめていた。墨の線が滲み、かすかに光る。それがまるで、かつて自ら署名した誓書のようにも見えた。庵の奥から、足音が聞こえた。

「じぃさま……それは?」

雫が覗き込む。寛蓮は、書物をゆっくりと畳んだ。

「ただの、知らせじゃ。」

「うそです。じいさま、眉が怒ってる。」

「……見抜かれたか。」

寛蓮は、焚き火のように笑ったが、その笑みはどこか弱かった。

「……都からのお触れじゃ。お前を、戦理院へ迎えたいそうだ。」

「戦理院……?」

「蒼牙の都にある、戦棋士を育てる場所じゃ。

理を学び、理を操る者の塔──“青の盤塔”と呼ばれておる。」

雫の瞳が光を帯びた。

「そこでは、たくさん理を学べるのですか?」

「……いや。学べるのは“理”よりも、“理の使い方”じゃ。」

寛蓮の声には、かすかな棘があった。

「蒼牙は理を愛しておらぬ。理を“使う”」

「人の才を吸い上げ、理に変え、理を力に変える。それが、この国のやり方じゃ。」

雫はしばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。

「でも……理は、誰かを救えるかもしれません。私、あの光を見たとき、そう思いました。」

寛蓮は目を閉じた。その幼い声が、遠い過去の記憶と重なった。

(玲秀の王も、そう言っておったな……)

「……断る。」

「え?」

「理は、お前のものじゃ。国に奪われてはならぬ。もしもの時は、儂が身を呈してでも止める。」

そう言い切ったその瞬間、庵の外、暗闇からざわついた気が発せられたこと寛蓮は感じた。


翌朝。庵の前には、村人がひしめいていた。

「雫ちゃん、本当に立派になったねぇ……!わしら誇らしいよ。」

「我が里から、戦棋士が出るんだ!」

「戦理院に入るなんて、何十年ぶりのことだ……!」

その声は祝福に満ちていた。だが、その熱狂の影には、寛蓮の姿勢への圧力が潜んでいた。

「寛蓮さま、もうお年ですし……。あの子を行かせるのが一番です。」

「この里に理を誇る日が戻る!」

「蒼牙の旗のもとに名を刻めば、商も賑わう!」

寛蓮の胸に、重苦しい息がこもる。

(……理の力が、いつの間にか“富と名”の象徴になっておる。)

そして、その群衆の中に、昨日の使い・斎が紛れていた。目立たぬように、民へささやく。

「立派なことだ。里の誇りになりますよ……」

その一言が、油のように火を煽った。老いも若きも、目の奥が熱に濁っていた。信仰にも似た“理への憧れ”が、理そのものを歪めていた。

「行かせろ、行かせろ」と声が重なり、春の風が呪詛のように回る。

──庵の屋根裏には、もうひとつの気配が潜んでいた。蒼牙戦理院の暗部「査収課」。

彼らが動けば、決して穏便では済まない。それだけは寛蓮にも分かっていた。


その夜、雫は灯の消えた庵の中で、静かに寛蓮の前に座っていた。

「……じぃさま。わたしを、院へ行かせてください。」

細い声に、理灯の残り火がゆらりと揺れた。

「なぜ、そう願う。」

寛蓮の問いに、雫はしばらく唇を結んでいたが、やがて静かに言葉を紡いだ。

「演武祭で、あの光に包まれた時……胸の奥がざわめいたのです。怖かった。でも、それ以上に、“私は、強くならなければいけない”と思いました。楽しいとか、勝ちたいとか、そういうことじゃなくて……強くならなきゃ、いけない気がしたんです。なぜかはわからないけど……」

寛蓮は目を細め、長く息を吐いた。

(この子も、おぼろげながら――避けられぬ己の運命を感じはじめたか……)

雫は続ける。

「あの時戦棋が、怖くなくなりました。でも、誰かの声が聞こえた気がしたんです。――“打て”って……」

その小さな手が膝の上で強く握られる。その仕草に、幼い日々の面影はもうない。

寛蓮は静かに目を閉じた。思えばこの子は、幼い頃からずっと何かに導かれるように盤の前に座ってきた。だが――宿命を負う者の背には、常に影が差す。それでも、その影が消えぬものなら。

(ならばその時は、わしがその影の先に立とう)

寛蓮は掌を膝に置き、心の底でひとつの覚悟を結んだ。どんな結末が待っていようと、この子を守り抜く、と。

「……ならば、よい。」

寛蓮は静かに頷いた。

「この子を行かせよう。だがその先に待つものが光であることを、約束せいっ!」

寛蓮は屋根裏の気配に向かって、言葉を放った。その言葉を聞いた、陰の者たちはわずかに姿勢を緩めた。

刃が抜かれずに済んだことに、陰の者たちが安堵の息を洩らす。春風が吹き抜け、血の匂いを予感させた空気をさらっていった。


旅支度の日。寛蓮は小さな包みを雫に渡した。

中には、漆黒の光を宿した石──黒曜の宝玉がひとつ。それは、雫がこの庵に拾われたとき、手の中に握っていたもの。

「お前が眠っていた夜、手にしておった石じゃ。

 どういう縁で持っていたかは、儂にも分からぬ。」

「ただ……その漆黒の光は、お前と共にあるようじゃ。一緒に蒼牙の都に持っていきなさい。」

「……闇に触れたとき、己を見失わぬよう、これを持て。」

「これからは、この石が、お前の歩む道を照らしてくれる。」

雫は胸元に石を下げ、深く頭を下げた。石は一瞬だけ、まるで過去の誰かが呼応するように瞬いた。それは祝福の光にも、呪いの灯にも見えた。寛蓮の背を冷たい汗が伝う。

(理は巡る。だが、巡るたびに“何か”を失う──)

(この石は昔、儂が玲秀でみた宝玉の石に似ている。闇を宿しながらも、その奥には微かに光が揺れていた。やはり……この子は、玲秀と何かで繋がっておるのか?理は血を越えて巡るものなのか……)

雫は何も気づかず、春の空を見上げて微笑んでいた。その姿に、寛蓮は心の奥で叫んでいた。

(行かせたくはない……だが、ここで止めれば、雫も村も理に呑まれる。これも避けられぬ運命か?)


出立の朝。雫は青衣の使者とともに、山道を下った。里の民が見送る中、寛蓮は庵の門前で手を合わせた。

「石よ、理よ、あの子を守ってくれぬか……」

馬車に揺られながら、雫は窓の外の景色を見つめた。斎はその隣で、静かに口を開く。

「怖くはありませんか?」

「少し……でも、楽しみです。理の先に、なにがあるのか?」

「理の先、ですか。おかしなことを言いますね。」

「じゃあ、斎さまは、何があると思いますか?」

斎は短く笑った。

「理の先にあるのは、勝ち負けだけです。」

雫は、再び聞く

「それでは、その勝ち負けの先には、何があるのでしょう?」

勝ち負けの先?斎は、そんなことを考えたこともなかった。答えの出ない斎に、雫は首をかしげながら、微笑んだ。

「私には何が、見えてくるのでしょうか?」

馬車の車輪が、ゆっくりと都への道を進む。その音が、遠い雷鳴のように響いていた。斎は窓の外に目をやりながら、心の中で呟いた。

(……これが理に選ばれた子か。しかし蒼牙の理は、祈りを喰って進む。その流れは止まらぬ。この娘は抗うか、それとも呑まれてしまうのか……。)

山を越え、雫は初めて見る都の影を目にした。そこには、理を極めるための塔がそびえ立つ。

──蒼牙戦理院。通称、「青の盤塔」。

青白く光るその姿は、まるで空に浮かぶ月のようだった。



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