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節三 忍び寄る影

里の夜は、静寂に包まれていたが、その静けさの底では──確かに何かがざわめいていた。

──昨夜の戦棋演武。嵩陽との一局は、もはや里だけの出来事ではなくなっていた。

「月が鬼の封じを見守った」

「月下の少女が、理を呼び覚ました」

その噂は風よりも速く、山を越え、谷を抜け、隣国の耳にまで届こうとしていた。そしてそれは、蒼牙のある者たちにとって──“待ちわびた報せ”だった。


庵の前では、朝露が光の粒となって草葉を飾っていた。雫はその中で、黙々と石を並べていた。昨夜の盤面を、ひとつひとつ再現するように──。

その指先は確かだが、瞳の奥は遠くを見ている。まるでまだ“理の夢”の中を歩いているかのようだった。

「雫、朝餉じゃぞ」

寛蓮の声が優しく響く。

しかし少女は応じず、白石をつまんだまま動かない。

「……ここに、もう一手あった気がします」

「それは夢の中の手じゃ」

「夢、ですか」

「理に深く触れた者ほど、うつつと夢の境が薄くなる。 ゆえにこそ、引き戻す力が要る」

寛蓮はそう言いながら茶を注いだ。湯気が静かに立ちのぼり、朝の冷気と交わる。

「じぃさま、わたし……また、あの光を見ました」

「光?」

「はい。盤の上に、誰かが立っていました。顔は見えません。でも、私を見て……泣いていたんです」

寛蓮の手がわずかに止まる。

(……玲秀王の残響か。やはり雫の理には、玲秀の“理”が息づいておるのか)

だが口には出さず、ただ穏やかに微笑んだ。

「それはきっと“理の影”じゃ。理とは、人の記憶が形を変えて現れるもの。悲しみも願いも、石に宿るのだ」

雫はうなずき、盤を見つめた。石の隙間を渡る光が、微かに揺れている。それはまるで、未来から差し込む“誰かのまなざし”のようでもあった。

その日、庵には朝から人が絶えなかった。農夫も、旅商人も、兵士までもが訪れ、口々に「月下の封じ」を語った。

「お嬢ちゃん、どこで習ったんだ?」

「蒼牙の都でも、あの打ちは見たことがねぇ」

寛蓮は苦笑しながら門前で応じた。

「誰が言い出したのやら。雫はただの村娘じゃ」

「でもよ、あの光は……」

「月が綺麗だっただけのことよ」

そう言っても、人々の目は信じていなかった。奇跡はいつも、信仰という形で膨らむ。やがて庵の前には、「理を学びたい」という若者が列をなし、雫は知らぬ間に“封じ手の娘”と呼ばれるようになっていた。


時はさかのぼり、戦棋演武、雫と嵩陽の対局中。

その熱狂に包まれる広場の片隅で、一人の影があった。黒い外套がいとうをまとい、口元を隠した若い男。彼は人々の話を耳にも入れず、ただ壇上の戦棋盤を見つめていた。

「……確かに、理の揺らぎがある。蒼牙の記録とも一致する」

「……この才、たしかに蒼牙にとって良い素材となりうる……」

男は懐から符を取り出し、淡い青光を走らせた。光が文字を描く。

──【報告:玲秀の戦気素材、蒼牙内にて発見】。

男は符を風に放つ。青い光が空へ昇り、影は群衆をかき分けるように姿を消した。その行く先が「蒼牙戦理院」へと繋がっていることを、この場の誰も知らない。


夜──。雫は眠れず、庵の外に出て月を仰いでいた。山の稜線が青く沈み、風が遠くで笛のように鳴る。彼女の髪が揺れ、頬を冷たい光がなでた。

「……月の下で打つと、誰かが見ている気がします」

「それは、お前自身が見ておるのじゃ」

寛蓮が背後から静かに答えた。

「理に映る影は、己の内に眠る“もうひとり”の自分。それがいつか、お前に試練をもたらす」

「試練……?」

「理を得た者は、必ず“理に試される”。それは力を持つ者の宿命じゃ」

雫は小さくうなずき、月を見上げた。

その光は白く、冷たく、どこまでも澄んでいた。その瞬間、彼女の瞳にふと、見知らぬ都の幻がよぎった。高い塔、青い紋章、そして──自らの名を呼ぶ声。

「雫……秀、廉……?」頭の奥が痛み、光が弾け、雫の体が揺れた。

寛蓮が驚き、支えに回る。

「雫! どうした!」

「……いえ。少し、懐かしい声がしただけです」

少女は静かに笑った。その笑みには、恐れや悲しみは混じってはいない。ただ、未来の記憶に触れた者だけが見せる、穏やかな微笑みだろうか?


夜明け前、里の外れの坂道を、二つの影が歩いていた。一人は嵩陽。そしてもう一人は、嵩陽と日々、鍛錬を積み重ねてきた友。

嵩陽は粗末な旅装に身を包み、荷を背に負っていたが、その足取りには迷いがなかった。

「本当に行くのか?」友が問いかける。

「……ああ。ここじゃ、もう戦えねぇ。」

その声は、夜明け前の冷たい風に紛れて消えた。

彼が目指すのは、遥か南方――焔煌えんこうの国。蒼牙のさらに南、火山と鉱脈に囲まれた軍事国家。そこでは戦棋が武術と結びつき、理を炎に転化する“焔棋えんき”として発展していた。蒼牙戦理院でさえ、その一派を「危険な理の民」として警戒している。蒼牙の推薦を失った嵩陽に残された道は、焔煌の“辺境棋院”に身を寄せることのみ。だが、雫との一局で、彼は悟っていた。

「理を求めるなら、誰かの影を追うんじゃない。──自分の理を見つけなきゃならねぇ。」

友は黙って頷く。

「だから行く。いつか、俺も俺の“焔の理”を見つけて、もう一度あの娘と盤を挟む。」

その言葉に、友はわずかに笑った。

「なら、負けるなよ。お前らしい戦をしろ。」

「当たり前だ。」

夜明けの空が赤く染まり始める。遠く南方、焔煌の火山帯が、燃えるような朝焼けを映していた。

(あの少女と再び打つ。そのために、俺は“炎の理”を掴む。)

風が吹き抜け、灰が頬をかすめる。旅立つ少年の背に朝日が差し、影がゆっくりと遠ざかっていく。その先に待つのが栄光か、炎の果てか――誰にもわからなかった。


──蒼牙戦理院 本院・中央塔区《青の盤塔》。

塔の外壁を這う光の文様が脈動し、低い唸りを上げていた。それは理を研究する建物でありながら、まるで“生きた実験体”のようだった。夜でも明るい都の中心に、その塔はそびえていた。数十の戦棋士と研究官が眠らぬまま理を解析し、階層ごとに違う色の光が脈動している。黒衣の伝令が最上層に駆け込む。

「報告。対象“玲秀素材”の反応、東部山岳域にて確認!」

部屋の中は冷え切っていた。壁面には理式を記した文様が刻まれ、盤上に浮かぶ石が自動で動いている。

その中央、若き研究官が一人、目を閉じていた。

蒼牙戦理院 本院・中央塔区 研究区画。── 技師ハン・リン

「玲秀……あの理を、手に入れる機会が巡ってきた。」低い声が塔に響く。

隣の補佐官が恐る恐る問う。

「本当に……“あの王”の理が、再現できるのですか?」

「再現ではない。再生するのだ。」

「再生……?」

ハン・リンは目を開き、盤上を見据えた。

「理とは遺伝しない。だが“記憶”は残る。あの子は、どこかで玲秀の理に“触れている”のだ。」

沈黙が走った。やがて、背後の装置から淡い青光が漏れ、盤の形が変化する。

「参集札を撒け。近隣の民にもわかるように。“理の徴収”だ。民の理は、戦理の理食りじきに利用できる」

「その娘に勅命の封蝋ふうろうを送れ。近隣の民にもわかるように。近隣の民からの圧も利用しろ。民の信仰は、戦理の統制に利用できる……」

「はっ。しかし……拒絶された場合は?」

ハン・リンは冷笑を浮かべた。

「その時は、暗部あんぶに“素材”として回収させればいい。 玲秀の理を解く鍵となるなら、命の有無は問わん」

盤の上で、白と黒の石が音を立てて崩れた。ハン・リンはそれを見つめながら、静かに呟いた。

「月下の封じ……ふむ、実に美しい名だ。──ならば、その封印を、我らが解いてやろう」

塔の外では風が吹き荒れ、月が雲に隠れた。まるで、その名を呼ぶことすら、天が拒んでいるかのようだった。


寛蓮は雫の寝顔を見つめ、静かに息を吐いた。

「……いよいよ、避けられぬ時が迫っておるのかもしれん」

幼い少女に背負わせるにはあまりに過酷な宿命。だが、己の力で覆せぬ未来ならば、せめて強くあれと願うしかない。胸中に渦巻く悔恨と決意が、今宵も眠りを遠ざけた。

それからの日々、雫の鍛錬はさらに深まっていった。雫の眼差しは日に日に研ぎ澄まされ、盤に向かえば空気すら変わった。まるで、彼女の周囲だけが“戦場”になるかのようだった。

無意識に発せられる戦気は、もはや抑えきれず、理はすでに武の領域へと滲み出していた。寛蓮はそのたびに胸を痛めながらも、稽古を続けさせた。

(暴走だけは許されぬ……しかし、もしもの時は、儂の命に代えても……)

山を渡る風が、彼らの運命を撫でていく。嵩陽の誓いも、雫の理も、やがてひとつの道へと交わる。蒼牙の影が動き出す。息をひそめた帳の下、理の胎動が静かに蠢いていた。

──次なる盤は、すでに置かれ始めている。



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