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節三 師・寛蓮の教え

雫が石を打つたびに、庵の空気は澄み、床板がかすかに震えた。石音が、静かな庵に淡く沁みていく。

「今のは……わたしの石のせい?」

「そうだ。おまえの内に流れる“理”が外へ洩れたのだ」

「……へぇ、じゃあ“理”って、目に見えないの?どんな形をしているんだろう?」

「それを知るのが修行だ」

寛蓮は静かに答えたが、その心は穏やかではなかった。教えれば戦へ導く。教えなければ暴走する。どちらを選んでも、この子は痛みの中を歩むことになる――。

(ならば導くしかない。逃げてはならぬ……)

忌避と覚悟の入り混じる心を抱えながら、寛蓮は雫をそばに呼び寄せた。

「雫。おまえに話しておかねばならぬことがある」

少女は小さく頷き、石袋を抱きしめる。

「雫。わしが若かった頃……戦は、もっと血に塗れておった」

寛蓮の声は低く、薪の火が彼の皺を深く照らす。


──それは、幾十年も前のこと。

棋力は戦気、戦気は力。戦気を振るうたび、兵が叫び、血が流れた。寛蓮は蒼牙軍の戦棋士として、数え切れぬ戦場を渡った。ある日の戦、前線に押し出されたときの光景は、今も忘れられない。敵は焔煌えんこうの若き戦棋士。戦場の攻防は熾烈を極めていたが、戦況は劣勢であった。そして──一瞬の焦りが、命運を変えた。

「……たった一手。だが、その一手が……」

打つべき手を見誤り、陣形が崩れ、味方の防壁が裂けた。大地が轟音と共に割れ、崖のように崩れ落ちる。敵陣の兵だけでなく、自陣の兵も巻き込み、数十、数百と谷へ飲み込まれた。

「助けてくれ!」

「母上──!」

その声が、今も耳から離れない。自らの失着が仲間の命を奪った。戦盤の一手が、そのまま戦場での血の川となったのだ。勝つための理が、命を奪った。石音は、その夜の叫びと重なって聞こえる。

「国を守りたいと思う一心であった。だが、勝敗の裏で、誰かが消えてゆく。 勝った戦でも、胸に残るのは悔恨ばかり……」

寛蓮は拳を握り、視線を伏せた。

「雫……わしはそれからしばらくして、戦場を去り、盤を打たぬと誓った。そして山に籠もり、薬草を煎じ、人を癒す道を選んだのだ」

少女はじっとその言葉を聞いていた。炉の火がぱちぱちと鳴り、その瞳には、幼いながらも澄み切った光が宿っていた。

「でも、じぃさま」

小さな声が、静かに闇を破った。

「負けてしまったら……もっとたくさんの人が、いなくなってしまうのでしょう?」

寛蓮はハッと顔を上げる。雫の言葉は無垢でありながら、核心を突いていた。

「わたし、強くならなきゃいけない気がするの。なぜかは……わからないけど。」

寛蓮の胸が震えた。

「どうしてそう思う?」

「うーん……たぶん、“誰か”を守るため。まだ会っていない誰かかもしれないけど……。わたしが弱いままだと、その人が泣いちゃう気がするんだ」

幼い声に、しかし確かな“宿命の響き”があった。寛蓮は目を細め、炉火を見つめる。

(……この子はすでに、理の波を聞いておる)

老いさらばえた自分の胸を抉るように、幼子の言葉は響く。

(……そうだ。この子は避けられぬ道を歩む。ならば、強き者でなければならぬ)

「雫……」

寛蓮は深く息を吐き、決意を込めて言った。

「戦棋は遊戯ではない。一手は血を呼び、一手は命を救う。おまえが歩む道は厳しく、時に背負いきれぬほどの重さとなるだろう。だが──それでも前に進むなら、わしは全てを賭けておまえを鍛えよう」

雫は小さく頷き、幼い手で石をつまんだ。その指先は、震えてはいない。

ぱちり──。

盤に響く音。

それは、幼子の無垢を超えた“意志”の音。庵の空気が静まり、外の風までもが息を止めたかのようだった。


その日から、庵での暮らしは修練に変わった。雫の遊びは鍛錬となり、庵の一日が、まるで盤上の一局のように流れていった。夜、炉火が揺れる中で、寛蓮は雫の前に盤を置いた。

「まずは、詰みを読む稽古だ」

白黒の石を数手並べ、問いかける。

「ここで黒が一手打つとすれば、どこに打つ?」

雫は小さな指で盤面をなぞり、やがて一石を置いた。

ぱちり──。

灯明がふっと揺れた。

「ここです!」

「うむ、たがわぬ。」

寛蓮は頷く。

「だがな、心が急けば、石は刃となる。焦りは戦気を乱し、理を狂わせる。盤を制する前に、まず己を制せ」

次に、寛蓮は同じ形を盤に並べ直した。

「同じ手を百遍繰り返せ。呼吸を合わせ、石と一つになれ」

雫は吸う息に合わせて一手、吐く息に合わせてもう一手。庵の空気が澄み、夜虫の声さえ調和した。しかし気が逸れた瞬間──。

ぱちり──。

置かれた一石に呼応し、棚の壺ががたんと揺れた。

「ひゃっ……!」

驚く雫に、寛蓮は微笑を浮かべて言う。

「それが“雑念”だ。戦棋士にとって最も恐ろしい敵は、他者ではない。己の心よ」

雫は深呼吸し、再び盤に向き合った。その瞳は澄み、焔を映している。


昼には、定石の型を繰り返した。星、三々、隅の型。寛蓮が石を置けば、雫は即座に応じる。まるで記憶に刻まれているかのような正確さだった。

「これは“定石”という。数千年、先人たちが刻んだ知恵の道筋だ。だが──定石に縛られてはならぬ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

雫が首を傾げる。

「定石を知り、そして壊せ」

寛蓮の瞳に炎が映え、厳しさと慈しみが同居する。


夕暮れ時には、対局を行った。寛蓮は時に子供扱いせず、互先たがいせんで打つ。雫は盤面を見つめ、雫の小さな唇がきゅっと結ばれる。

ぱちり──。

一手ごとに、外の葉がざわめき、灯が揺れる。寛蓮は背筋を正しながら思う。

(……この才は異質だ。この笑顔を曇らせたくはない)

「もう一局! お願いっ!」

雫が無邪気に笑う。

夕暮れの光が庵の縁を照らしていた。雫が掌に黒石を乗せ、無邪気に尋ねる。

「ねえ、じぃさま、理って……結局、何のためにあるの?」

寛蓮は目を閉じ、少しの沈黙の後で答えた。

「理は人を導くものと言われるが、そうではではない。人が理を導くのだ。」

雫は小さく首を傾げ、「むずかしい」と笑った。寛蓮はその笑みを見て、微かに目を細める。

(やがてこの子が、この言葉の意味を知る時――きっとこの世の理も、変わるのだろう)


夜。稽古の締めは「手談しゅだん」だった。言葉を交わさず、石のみで語る。一手は想いを伝え、もう一手は応える。

雫は幼いながらも、その意図を直感で掴み、応手を返してくる。そのやりとりのうち、言葉以上の絆がふたりの間に刻まれていく。

石を打つたび、彼女の周囲の空気は変わる。時には灯明が揺らぎ、時には風が戸を震わせた。寛蓮はそれを制御する術を叩き込み、同時に心を鎮める教えを授けた。


「己の心が揺れれば、戦気も揺れる。戦気が揺れれば、戦場も揺れる。

──強き者は、まずは己を制しなければならぬ」

雫は真剣に頷き、石を置いた。その光景に、寛蓮は思う。

(──この子を鍛え見守ることが、わしに与えられた最後の務めかもしれぬ)

夜の庵には、ふたりの打つ石音だけが響いていた。



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