節四 さざめく噂
山あいの庵に、静かな季節が流れていた。霧が晴れると、谷をわたる風に花の香が混じり、川のせせらぎが、まるで遠い調べのように響く。寛蓮と雫の暮らしは、穏やかで、規則正しかった。夜明けとともに起き、川で顔を洗い、薬草を摘み、日が昇るころには庵の前に盤を広げる。
「よいしょ、っと……」
石を打つときと同じように、息を整えてから動く。寛蓮に教えられた通り、呼吸と動作を一致させれば、力は少ないはずの身体にも不思議と重みを支える芯が宿った。
雫は薪を割り、火を起こし、粥を炊いた。どの動作にも無駄がなく、幼子の手つきとは思えぬほど整っている。
「雫や、もう火を起こしたのか」
「はい、じぃさま。今日は火のつきがよかったの」
小さな顔に煤をつけて笑う少女の姿に、寛蓮はいつも目を細めた。その笑顔を見るたび、長い孤独の果てに差した光のような温もりを感じた。
(……あの日、川からこの子を拾わなければ、わしはとっくに己の理に呑まれて、命を絶っていたかもしれぬ)
昼には薬草を干し、夕暮れには石の稽古を重ね、夜は炉端で静かに手談を打つ。だが──その静謐は、少しずつ外へ滲み出していく。
ある日、村の子供たちが庵に訪ねてきた。
「雫ちゃん、あそぼう!」
石袋を大事そうに抱えた雫は、嬉しそうに戸口へ走った。子供たちは地面に小石を並べ、戦棋ごっこを始める。最初は無邪気な遊びだった。だが雫が手を伸ばし、石を打つと──形は一瞬で引き締まり、遊びは勝負に変わる。
「えっ、これで取られちゃうのか!?」
「そんなの見たことない……」
年上の子供ですら雫の一手に崩され、呆然とした。雫は首を傾げるだけで、勝つこと自体には興味がないようだった。その様子を、薪割りに来ていた村の男が偶然目にした。
「……あれは、ただ事じゃねえな」
噂は瞬く間に村に広がった。
「庵の娘が石を打つと、風が鳴るそうだ」
「いや、見た者が言うに、灯りが揺れたらしいぞ」
「もしかして“戦棋士”になれるんじゃないか」
村人たちの声は、好奇と畏怖を入り混じらせて膨らんでいった。
寛蓮はその噂を耳にして、深く眉をひそめた。
「……これは、いよいよ、まずいことになって来たな」
庵に戻ると、雫は嬉々として石を並べていた。
「ねえ、じぃさま。今日は外でいっぱい勝ったの!」
幼子の無邪気な声が、老僧の胸を締めつける。
「雫。理はなぁ、見せびらかすものではない。」
「どうして? 勝てたら、みんなが褒めてくれるのに」
「褒めは毒だ。おまえを喜ばせるようでいて、その実、縛る縄となる。才を妬む者、恐れる者が……必ず現れる」
雫は難しい顔をして俯いた。だが次の瞬間、そっと笑みを浮かべて言った。
「でも、じぃさまは喜んでくれるよね?」
その問いに、寛蓮は答えられなかった。
そんな日々の中、山を下りて村に薬を届けるのは、寛蓮のわずかな生業だった。村人たちは、もとより彼を“仙のような人”と噂していた。だが近ごろは、その噂にもう一つの尾ひれがついていた。
──「寛蓮の庵には、奇しき子がいるらしい」
村の酒場で、男たちが囁き合う。
「髪が月の光みたいに白く、 目が琥珀に輝いてるって話だ」
「いや、石を打つと風が動くんだと。」
「子どもがそんな真似をするか?」
「それに、夜な夜な庵の上に光が差すとか……もしかすると“天の子”かもしれん」
噂は夜霧のように広がり、やがて谷を越えて隣里へも届いた。寛蓮はその話を耳にしても、表情を変えなかった。
庵に戻った夜、炉の火を見つめながら小さく呟いた。
「……理とは、人の口にも宿るものだ」
「どういう意味?」と雫が問う。
寛蓮はしばらく黙していたが、やがて、湯呑を置き、静かに答えた。
「理は、ただ盤上にあるものではない。人が言葉で作り、信じ、他を測るたびに、それもまた理となる。そして──時に、人の理は真を遠ざける」
雫は難しそうな顔で、唇に指をあてた。
「じゃあ……みんなが間違った理を信じたら、本当のことはどうなるの?」
寛蓮は微笑み、「そのときこそ、真を見極める者が必要なのだ」と答えた。
雫は焚き火の炎を見つめた。橙の光がその頬を照らし、 その瞳に映る火の揺らぎは、まるで星のように澄んでいた。
ある晩。庵の外でふと、雫が風の中に何かの気配を感じた。耳をすますと、遠くで犬が吠え、都の方角で火の匂いがした。
「じぃさま……」
「わかっておる。誰かが、こちらを窺っておる」
寛蓮は灯を落とし、静かに庵の戸口へと歩み寄る。外は濃い霧。月の光も届かない暗闇の中、草を踏むわずかな気配を感じる。
(……やはり来たか)
寛蓮は、若き日の勘を取り戻すように目を細めた。庵の外れ、闇の中に潜む影があった。
黒衣の男がひとり、里の家々を巡る声を耳にしている。
「庵の子は、風を動かす」「目が光る」「石に触れると炎が揺れた」──。
男の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
「玲秀王の棋風に似ているな。……面白い。報せる価値はある」
蒼牙の紋を刻んだ短刀が、衣の裾にちらりと光を反射した。
その夜、山の風は冷たかった。遠くの谷で、狼の遠吠えが響く。寛蓮は眠れぬまま、天を仰ぎ、星のきらめきを見つめた。
((理の子は、もう隠しきれぬ。だが──せめてこの庵の中だけでは、人の温もりに包まれていてほしい)
月が雲間から顔をのぞかせ、庵の屋根を淡く照らした。庵の灯が消えると同時に、夜の霧がふわりと降りて、すべてを包み込んだ。
外の世界は確かに動き始めていた。その影はすでに雫を捕えている──。




