表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/44

節四 さざめく噂

山あいの庵に、静かな季節が流れていた。霧が晴れると、谷をわたる風に花の香が混じり、川のせせらぎが、まるで遠い調べのように響く。寛蓮と雫の暮らしは、穏やかで、規則正しかった。夜明けとともに起き、川で顔を洗い、薬草を摘み、日が昇るころには庵の前に盤を広げる。


「よいしょ、っと……」

石を打つときと同じように、息を整えてから動く。寛蓮に教えられた通り、呼吸と動作を一致させれば、力は少ないはずの身体にも不思議と重みを支える芯が宿った。

雫は薪を割り、火を起こし、粥を炊いた。どの動作にも無駄がなく、幼子の手つきとは思えぬほど整っている。

「雫や、もう火を起こしたのか」

「はい、じぃさま。今日は火のつきがよかったの」

小さな顔に煤をつけて笑う少女の姿に、寛蓮はいつも目を細めた。その笑顔を見るたび、長い孤独の果てに差した光のような温もりを感じた。

(……あの日、川からこの子を拾わなければ、わしはとっくに己の理に呑まれて、命を絶っていたかもしれぬ)

昼には薬草を干し、夕暮れには石の稽古を重ね、夜は炉端で静かに手談を打つ。だが──その静謐せいひつは、少しずつ外へ滲み出していく。


ある日、村の子供たちが庵に訪ねてきた。

「雫ちゃん、あそぼう!」

石袋を大事そうに抱えた雫は、嬉しそうに戸口へ走った。子供たちは地面に小石を並べ、戦棋ごっこを始める。最初は無邪気な遊びだった。だが雫が手を伸ばし、石を打つと──形は一瞬で引き締まり、遊びは勝負に変わる。

「えっ、これで取られちゃうのか!?」

「そんなの見たことない……」

年上の子供ですら雫の一手に崩され、呆然とした。雫は首を傾げるだけで、勝つこと自体には興味がないようだった。その様子を、薪割りに来ていた村の男が偶然目にした。

「……あれは、ただ事じゃねえな」


噂は瞬く間に村に広がった。

「庵の娘が石を打つと、風が鳴るそうだ」

「いや、見た者が言うに、灯りが揺れたらしいぞ」

「もしかして“戦棋士”になれるんじゃないか」

村人たちの声は、好奇と畏怖いふを入り混じらせて膨らんでいった。

寛蓮はその噂を耳にして、深く眉をひそめた。

「……これは、いよいよ、まずいことになって来たな」


庵に戻ると、雫は嬉々として石を並べていた。

「ねえ、じぃさま。今日は外でいっぱい勝ったの!」

幼子の無邪気な声が、老僧の胸を締めつける。

「雫。理はなぁ、見せびらかすものではない。」

「どうして? 勝てたら、みんなが褒めてくれるのに」

「褒めは毒だ。おまえを喜ばせるようでいて、その実、縛る縄となる。才を妬む者、恐れる者が……必ず現れる」

雫は難しい顔をして俯いた。だが次の瞬間、そっと笑みを浮かべて言った。

「でも、じぃさまは喜んでくれるよね?」

その問いに、寛蓮は答えられなかった。

そんな日々の中、山を下りて村に薬を届けるのは、寛蓮のわずかな生業だった。村人たちは、もとより彼を“仙のような人”と噂していた。だが近ごろは、その噂にもう一つの尾ひれがついていた。

──「寛蓮の庵には、奇しき子がいるらしい」


村の酒場で、男たちが囁き合う。

「髪が月の光みたいに白く、 目が琥珀に輝いてるって話だ」

「いや、石を打つと風が動くんだと。」

「子どもがそんな真似をするか?」

「それに、夜な夜な庵の上に光が差すとか……もしかすると“天の子”かもしれん」

噂は夜霧のように広がり、やがて谷を越えて隣里へも届いた。寛蓮はその話を耳にしても、表情を変えなかった。


庵に戻った夜、炉の火を見つめながら小さく呟いた。

「……ことわりとは、人の口にも宿るものだ」

「どういう意味?」と雫が問う。

寛蓮はしばらく黙していたが、やがて、湯呑を置き、静かに答えた。

「理は、ただ盤上にあるものではない。人が言葉で作り、信じ、他を測るたびに、それもまた理となる。そして──時に、人の理は真を遠ざける」

雫は難しそうな顔で、唇に指をあてた。

「じゃあ……みんなが間違った理を信じたら、本当のことはどうなるの?」

寛蓮は微笑み、「そのときこそ、真を見極める者が必要なのだ」と答えた。

雫は焚き火の炎を見つめた。橙の光がその頬を照らし、 その瞳に映る火の揺らぎは、まるで星のように澄んでいた。


ある晩。庵の外でふと、雫が風の中に何かの気配を感じた。耳をすますと、遠くで犬が吠え、都の方角で火の匂いがした。

「じぃさま……」

「わかっておる。誰かが、こちらを窺っておる」

寛蓮は灯を落とし、静かに庵の戸口へと歩み寄る。外は濃い霧。月の光も届かない暗闇の中、草を踏むわずかな気配を感じる。

(……やはり来たか)

寛蓮は、若き日の勘を取り戻すように目を細めた。庵の外れ、闇の中に潜む影があった。

黒衣の男がひとり、里の家々を巡る声を耳にしている。

「庵の子は、風を動かす」「目が光る」「石に触れると炎が揺れた」──。

男の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。

「玲秀王の棋風に似ているな。……面白い。報せる価値はある」

蒼牙の紋を刻んだ短刀が、衣の裾にちらりと光を反射した。

その夜、山の風は冷たかった。遠くの谷で、狼の遠吠えが響く。寛蓮は眠れぬまま、天を仰ぎ、星のきらめきを見つめた。

((理の子は、もう隠しきれぬ。だが──せめてこの庵の中だけでは、人の温もりに包まれていてほしい)

月が雲間から顔をのぞかせ、庵の屋根を淡く照らした。庵の灯が消えると同時に、夜の霧がふわりと降りて、すべてを包み込んだ。

外の世界は確かに動き始めていた。その影はすでに雫を捕えている──。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ