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節三 再起動する意志

蒼牙戦理院。白い壁。冷えた空気。理の音だけが、規則的に鳴っていた。

無我は、治療台の上で静かに横たわっている。身体には無数の理線が刺さり、青白い光が脈動していた。それはまるで、血液の代わりに理波が体内を循環しているかのようだった。

ハン・リンは端末の前で、淡く息を吐いた。

「……まるで、人のような顔つきだな。」

その声には、驚きと、わずかな不安が混じっていた。理脈の波形が、不規則に揺れている。数値が乱れ、出力が落ちていた。理線の先に映る無我の脳波は、まるで“何かを考えている”ように変動している。

「感情……か?」

ハン・リンは、唇を噛んだ。機械には、感情は存在しない。だが、無我の瞳の奥には、確かに微かな“揺らぎ”があった。

「まさかお前が、被弾するとはな。しかも――幼子を庇ってのこととは。」

ハン・リンは、無我に目をやる。

「……お前は、何を“想った”?」

返答はない。だが、理波が一瞬だけ、脈打つように強く跳ねた。モニターには、“共鳴”の反応が現れた。

(やはり……芽生え始めている)

ハン・リンの胸に、冷たい予感が走った。

そのとき、通信端末が赤く点滅した。上層部からの通達。玲秀に覚醒者が出た――名は玄。

報告をする幹部の声が、鋭く響く。

「我らからも覚醒者を創生せよ。対象は――第九被験体《無我》。」

ハン・リンの表情が凍る。

「……正気ですか?」

しばらく沈黙が流れたのち、ハン・リンが言葉を続ける。

「覚醒とは、人が理の限界を超えたときに起こる現象です。無我は、人ではない。戦棋用の理器体。理脈を制御する“器”にすぎません。」

「これは命令だ、ハン・リン。」

通信越しの声は冷たかった。

「理は結果を選ばぬ。我らに必要なのは“勝利”だ。人か機械かなど、どうでもいい。」

白い部屋に、低い呼吸音だけが残る。

ハン・リンは、返す言葉を探す。

「……機械には、己の限界を超えることはできません。私たちが、そう設計したはずです……」

それは上層部に対する反論ではなく、自分自身への確認のようでもあった。

彼の脳裏に、過去の幻がよぎる。

――研究初期。無我を造り出した時。無垢な瞳をした彼女が、初めて光に手を伸ばした日のこと。

『技師さま、これは……アタタカイのですか?』

その問いに、ハン・リンは答えられなかった。感情を理解しないはずの存在が、“あたたかさ”を求めた瞬間だった。それ以来、彼は研究者である自分と、“生みの親”でもある自分の間で揺れていた。

「大丈夫です。……初期化処理を行います。無我は、覚醒せずとも十分に強い。」

そう口にしながらも、心の奥底で、否定しきれぬ真実が疼いていた。

――無我の遺伝情報には、“盤上の民”のコードが混ざっている。いにしえの理のDNAが、彼女の理脈の奥底に刻まれている。それは偶然ではない。“盤上の民”が歴史から消え去るまえに奪取していた禁断の遺伝子。そこに記録されている“理超越因子”が、無我の設計に組み込まれている。

覚醒の素養は、確かに存在している。だがそれを発動させるには、“自我の目覚め”が必要。しかしここでは、自我を“異端”と呼ぶ。発芽した自我は、廃棄の対象となる。

ハン・リンは低く呟いた。

「……無我。お前が人であろうと機械であろうと、もう関係ない。――私は、ただ“見てみたい”のだ。」

無我が幼女を守った時の姿を想像する。その瞬間、彼女は確かに“選択”したのだ。それは理の演算ではなく、“想い”の反応。

ハン・リンの胸の奥で、科学と情がぶつかり合っていた。


理端末の光が、室内を満たす。

処理開始。初期化手順を走らせる。無我の脳内に流れるデータが、一つずつ消去されていく。

戦闘記録。

対話記録。

環境記憶。

しかし、ハン・リンは知っている。モニターの上で、ひとつだけ消えない波形があることを……それは“感情パラメータ”と名づけられた未知の領域。ハン・リンは息を詰めた。指を震わせながら、最後の確認を行う。

「これで……いいのか?」

答える者はいない。ただ、機械音が冷たく鳴り響く。

彼の視線の先で、無我の頬が微かに動いた。ほんの一瞬、涙のような雫がこぼれたように見えた。だが、記憶のデータは消せても、理脈に刻まれた“想い”は消えることはない。それは、人が人である証。理の奥底に、たしかに“命”が残っている。


処理が終わり、端末の音が止まった。無我は静かに呼吸を整え、再び目を閉じた。無垢な表情に戻ったその姿は、まるで生まれたての人間のようだった。

ハン・リンはゆっくりと椅子を引き、無我の傍らに立った。

「……お前を、もう少し見てみたい。」

「戦棋士としてではなく、“人”として完成していく姿を――。」

ハン・リンの想いは、科学者としての好奇心か、それとも無我の生みの親としての親心か?それは、彼自身にもわからない。ハン・リンは、自分自身を納得させるように呟く。

「戦棋も人生も、打ち間違えてからが面白いというものだ。」

冷たい理灯の下で、無我の瞳が――微かに応えた。


夜明け。青の盤塔の高塔から見える蒼牙の街が、薄紅に染まる。理障壁が展開され、空を覆う光の網がゆっくりと輝きを増す。その遠い先では、玲秀の紺碧の旗が風に揺れている。

理の動乱が、再び動き出そうとしていた。それは、五十年前の独立戦を超える“理の崩壊点”を孕んでいた。

ハン・リンは観測窓の前に立ち、理脈の流れを見つめた。無数の光の線が交錯し、都市全体が巨大な盤のように見える。

「……最後の戦が始まる。」

その声は、誰に向けたわけでもない独白だった。理脈の振動が増す。塔が軋む音が聞こえる。その背後で、理線が一斉に断ち切れる音がした。

「……!」

振り向くと、無我が立ち上がっていた。理線が切れ、光が静かに収束していく。裸足で、冷たい床を歩く、その足音は、まるで鐘の音のように響いた。彼女は無表情のまま、ハン・リンを見た。瞳の奥に、一瞬だけ青い光が揺れる。


「……帰ってきたか、無我。」

ハン・リンの声は低く、しかし温かい。

無我がゆっくりと首を傾げるその仕草は、まるで問いかけるようだった。

“……ココハ……ドコ?”

“私は――ダレですか?”

声にならない問いが、空気を震わせた。ハン・リンは答えなかった。ただ、微かに微笑んだ。

「お前は、理が生んだ奇跡だ。そして……再び、選ぶことができる。」

無我の瞳が、ほんのわずかに開かれたその瞬間、理灯が一瞬だけ明滅する。彼女の内部で、失われたはずの“想い”が、再び脈打ち始めている。



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