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節四 決戦前夜

夜は、音を失っていた。王都・白領は、まるで息を潜めるように沈黙している。街灯に宿る理灯の光が、氷面のような街路に反射し、その上を、風がひとすじ撫でては消えた。

王宮・臨暁殿。高窓の向こう、淡い星々が瞬く下で、三つの影が卓を囲んでいた。

王・秀廉と楽廉、そして玄凛。白磁の卓上には、新しい戦盤が広げられている。光沢を帯びた樫木の表面には、玲秀王家の紋章が刻まれ、その紋が理灯を受け、青白く揺らめいていた。

秀廉が静かにそれを押し出した。

「これは――覚醒者用の盤だ。今の戦盤では、お前の戦気には耐えられまい。お前が“理を超える者”となったとき、この盤は、もはや武具ではなく、“戦場そのもの”となるだろう。」

手渡されたのは、戦棋士専用の新たな神棋

――**神棋・崑鋼しんき・こんこう**。

長尺の刀身を持ちながら、その内部には微細な理導管が幾千も走る。持ち主の神経波を読み取り、戦気を即座に物理演算へ変換する。刀という形をしていながら、その本質は「思考を武力へ高効率で変換する理の演算装置」だ。

変換効率は通常の戦棋装備の数倍に達し、一振りで理障壁を貫くほどの出力を誇る。

だが、その代償もまた明白――。

使用者の精神を焼き尽くし、心を“盤”と同化させるほどの負荷がかかる。覚醒者にしか扱えぬ、禁断の神棋。

「それは、お前にしか握れぬ刃だ。」

秀廉の声が、低く広間を満たす。

「己の理をも切り裂く覚悟があるなら、取れ。」

玄凛は黙して刀身を見つめた。樫木の光沢の奥で、青い理脈が微かに脈打つ。まるで――それ自体が生きているかのようだった。

無言のまま指を触れる。理線が淡く反応し、盤上に青い文様が浮かび上がる。その文は、彼の鼓動に呼応するように震えた。

「……王。俺は、本当にそれを握る資格があるのか?」

その問いに、楽廉が柔らかく微笑む。

「資格など、誰も持ち合わせてはおりません。理に選ばれた者など、古今に聞いたことがない。“歴史に抗う者”だけが、時として理を超えるのです。」

そして、軽く肩をすくめた。

「とにかく、それで“無我”や “雫”とやらを――打ち負かせばいいだけのことです。」

秀廉の面には、王ではなく父としての影が差していた。疲労と覚悟の中に、微かな痛みが滲む。

(王・秀廉もまた、雫という娘に何かを感じているのだろうか……?)

玄凛は深く頭を垂れた。

「……この手で終わらせます。動乱の盤上を。」

沈黙ののち、秀廉は椅子を立つ。

「明日、理障壁が解除されれば、蒼牙との干渉は即座に始まる。忘れるな――“理の胎動”は、どちらの陣営にも等しく流れている。」

その声は、預言にも似た静けさを帯びていた。

白領の空に、雷鳴のような理脈のざわめきが走る。誰もが感じていた。それは戦の前兆ではなく――“理そのもの”が目覚め始めているのだと。


同じ頃。蒼牙戦理院。白壁の奥、冷却炉の音が微かに響く中、ハン・リンは中央制御盤に手をかけていた。彼の背後には、二つの影。雫とそして、無我。三人が同じ場所に集うのは、雫が院生の頃以来だ。

「……あの時の幼女。」

雫は、小さく呟く。

無我はゆっくりと顔を上げる。その瞳に、以前はなかった“曇り”があった。


「シ・ズ・ク……」

(――呼ばれた?)

あの時と比べて、機械めいた感じが増しているような気がする。

ハン・リンが口を開く。

「お前たちには、それぞれ“理を超える理由”がある。それを証明する盤を用意した。」

雫には――

**神棋・天冥/黒式**(しんき・てんめい・こくしき)。

以前の天冥を基盤に、黒曜石を中枢に埋め込み、漆黒の表面には紅の理線が交差していた。その意匠は、美しくも不吉。一度起動すれば、周囲の理場を吸収し、空間そのものを「静止」させる。

無我には――

**神棋・千手/改**(しんき・せんじゅ・かい)。

かつて戦理院が造り出した原型を凌駕する存在。反理水晶を骨格に組み込み、あらゆる理波を“逆位相”として打ち消す。その機能は理そのものへの反逆であり、存在するだけで周囲の秩序を崩壊させる。戦場における“理の破壊”

――蒼牙の理学でも“禁断装備”として封印されていた代物だ。


「これは……?」雫が呟く。

ハン・リンは、二つの神棋を卓上に並べながら言った。

「両神棋には、“反理盤アンチ・ロジカ”が接続されている。理に従うことを拒むための盤だ。蒼牙の制御核では反応しない。――お前たちの心でしか動かぬ。」

理端末が淡く光を返す。その輝きは、まるで「理が彼女らに問いかけている」かのようだった。

「武力変換率は、従来比で三百二十%。」

ハン・リンの声は淡々としていた。

「だが、代償も比例する。戦うたびに、“己”を削り取られていく。」

彼女の掌が震える。それは恐怖ではなく、理の奥に潜む“意志”を感じ取ったためだった。

無我は、盤をじっと見つめた。その瞳には、わずかな揺らぎがあった。盤を見ているようで――実際には、その向こう側を見ていた。

そして、静かに問う。

「“ココロ”とは何ですか?私に、ココロは……ありますか。」

ハン・リンの手が止まった。一瞬、科学者としての理性と、人間としての感情が交錯する。

「ある。」

短く、それでいて深く響く声。

「感情は、理の誤差ではない。理が己を超えようとする衝動そのものだ。思考の端に宿るわずかな痛み――それを、人は“心”と呼ぶ。」

その瞬間、無我の胸奥で何かがわずかに脈動した。理では説明できない“微かな揺らぎ”。

ハン・リンは口元にわずかな笑みを浮かべた。

「人は理を信じる。だが、理を疑う。――そして、理を超える者こそが、世の中を動かす。無我、お前は“我を持たぬ者”。それは言い換えれば、すべての我を映す鏡だ。」

理端末の光が、三人を包み込む。冷たいはずの空間で、わずかな温もりが生まれた。


深夜。

白領の王宮では、玄凛が剣を磨いていた。蒼牙戦理院では、雫が戦盤に手を置き、目を閉じ、そして、無我は、生成カプセルの中で、じっとその時を待つ。

雨の夜に滲み、月が三つに分かれて浮かぶ。滲んでは別れ、別れては引き寄せ合い、そして弾き合う。

(――理は、なぜ争うのか?)


遠く、鐘の音が響く。蒼牙の理鐘。

その音に呼応するように、白領の理鐘も鳴り始める。

ふたつの国が、共鳴した。

ハン・リンは研究室でその各々の理波を観測し、玲秀王は王宮で感じ取る。そして、誰もが理解していた。これは戦の合図ではない。

“理の胎動”――“理の世界”そのものが変わり始める。


黎明れいめい。地平線が白み、二国の旗が同時に翻った。理障壁が解除される。


雫は、剣を抜いた。

玄凛は、拳を握った。

無我は、歩き出した。

三人の視線が、同じ月を見上げた。空が軋むような音を立て、理子が舞い上がる。三つの戦気が、遂にひとつの盤上で交差する。

“総力戦(グランド・シェン戦)”が、ついに幕を開ける。




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