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『戦棋アンダー・ザ・ムーン ―理を還す者―』"The Moonlit Strategist: The One Who Restores Reason"  作者: 蒼井 理人
第一章 雨夜の贈り物 ― 運命の芽吹き ―

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節一 流れ着いた命

挿絵(By みてみん)


天棋暦五〇五年──山深く、霧の立ちこめる谷あいに、一つの庵があった。庵に暮らすのは、ひとりの老人──名を寛蓮かんれんという。かつては戦場で名を轟かせた戦棋士であったが、今は世を離れ、粗末な庵で薬草を煎じ、静かな孤独を友として暮らしていた。

その夜、谷を流れる川に、奇妙な音が混じった。夜の雨が上がり、増水した川には木の葉や枝が押し流されている。耳の遠くなりかけた寛蓮の耳にも、その音ははっきりと届いた。


──赤子の泣き声。

雨上がりの川面は、月光を反射して銀色に揺れている。その澄んだ流れの中に混じる泣き声が、寛蓮の胸の奥をざわめかせた。ただの赤子の声ではない。それは、かつて盤上で幾千の石を打ったときの響きに似ていた。“理”の律動を思わせる、透き通るような音。戦場で鍛えられた彼の耳には、否応なく呼び寄せられる。


「まさか……」

杖を手に、庵を飛び出す。濡れた岩を伝い、霧に包まれた川辺へと急ぐ。谷を渡る風が冷たく、衣の裾を打った。流れのほとりに辿り着いたとき、彼の目に映ったのは──小さな籠が一つ、流木に引っかかって揺れている。

「あそこか!」

寛蓮は躊躇なく川へ入り、冷たい水に腰まで浸かりながら籠を手繰り寄せた。籠の中では赤子が泣き叫び、濡れた布が微かに光を反射している。その布は、古びてはいるが明らかに高貴な織り。寛蓮は息を呑んだ。

赤子の肌は、月光を溶かしたように淡く輝き、涙に濡れた瞳は、不思議な透明さを宿していた。掌には、小指ほどの黒く艶めいた石が握られている。

「こ、黒……曜石……? いや、この光……まさか」

それは、ただの黒曜石ではない。脈動する光を放つ“王家の宝玉”──理の石。

噂には聞いていたが、実物を見たことはない。もしそれが本物であるなら、なぜこの“蒼牙そうが”の辺境に?

赤子の掌の黒曜石は、月光を受けるたびかすかに脈打ち、泣き声と呼応するように淡く明滅していた──。

寛蓮の背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。やはりただの玉ではない。

そこには意志がある。この小さな命と共に、生きようとする意志が。

「……これは、天からの授かりか」声が自然に洩れた。

彼は震える手で籠を抱きしめ、そっと胸に寄せた。冷たい雨に濡れた赤子の体が、彼の体温を求めてかすかに震えている。 その温もりに触れた瞬間、寛蓮の脳裏に、幻想が入り込んだ。


――燃え盛る戦場。

――対峙する二つの影。

――そして、世界を飲み込む光の奔流。

彼はすぐさま悟った。──この命は偶然ではない。


かつて幾度もの勝敗を経て、人の命を奪い、守り、──そして戦場を去った。長き戦いの末に孤独となった自分の胸に、今、この小さな命が抱かれている。あまりに不自然だが、必然のようでもあった。それは懺悔か、贖いか、それとも天の差配か?偶然などではない。それは導きとしか思えなかった。

「ふむ……これも運命さだめというものか」

寛蓮は何かを悟ったように赤子を抱き直し、霧の中をゆっくりと庵へと戻っていった。 雨雲が割れ、一筋の月光が、籠の中の赤子を、静かに照らし出していた。


翌朝。山の鳥がさえずり、庵の屋根に光が射した。炉端では粥が煮え、薪の火がぱちぱちと爆ぜている。赤子は布に包まれ、すやすやと眠っていた。頬はほんのりと赤く、唇が小さく動く。寛蓮はその寝顔を見つめながら、湯気の立つ粥をかき混ぜ、静かに呟いた。

「……わしに、子を育てる縁があったとはのう」

手を止め、赤子を覗き込む。

「さて、名はなんとすべきか……」

そのとき、庵の軒先から一滴の雫が落ちた。しずくは小さな頬を濡らし、陽の光を受けて煌めく。寛蓮はその光景に微笑み、静かに名を告げた。

「……しずく。おまえの名は、雫だ。一滴の雫がやがて大河となり、世を潤すやもしれぬなぁ」

皺の刻まれた顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。しかし、心の奥にはためらいもあった。──戦場で命を奪い、理に呑まれ、生き残ったことすら罪に思うこの身で、果たして命を育てる資格などあるのか。それでも──赤子が時折、夢見るように握る小さな掌を見れば、その疑念はたちまち霧散する。まるで盤上に石を打つかのように、指が小さく動くのだ。偶然にしては、あまりにも鮮やかだった。

「もしや……この子にはさいが?」


寛蓮の脳裏に、かつての戦場が蘇る。敗北の一手で崩れた陣形、血に染まる大地、そして戦を捨てた日の沈黙。盤上の勝敗が、幾百の命を生かしも殺しもした。その重さを知る者として、この幼子を理の渦へ送ることは避けたかった。

だが、もし天がこの命を自分に託したのなら──それに背を向けることは、叶わぬこと。

寛蓮は火を見つめながら、“宿命”という言葉の意味を、静かに噛みしめた。夜が明けきるころ、庵の外では霧が晴れ、山の鳥が再び鳴いた。

その音に合わせるように、赤子──雫が、初めて笑った。


季節は巡った。それからの日々、寛蓮は山で薬草を摘み、川で魚を獲り、雫のために煮炊きする。かつて剣を振るった手は、今や赤子をあやし、薪を割る手に変わっていた。

庵の庭に花が咲き、雫と名付けられた少女は、よちよち歩きを覚え、おぼつかないながらも言葉を覚える。薪を拾えば転び、草の露に濡れて泣き、また立ち上がる。

雫は、自然に親しむ子で、山鳥の声を真似て笑い、 風に揺れる葉をじっと見つめては「話しをしている」と呟く。だが、無邪気さと同時に、妙な冷静さもある。

寛蓮が足を怪我した折、幼いながら諭す声で、「この草、巻けば大丈夫。」と的確に薬草を差し出したこともある。川辺で小石を拾い、整然と並べる癖もあった。不思議なことに、その配置はいつも定石の一端を映していた。

あるときは、彼女の肩に止まった蝶が、石を置くと同時に、その石に羽ばたき飛び移った。またあるときは、風が彼女の声に応じるかのように草木を揺らした。

それは偶然かもしれない。しかし幼子にとっては何気ない遊びでも、寛蓮の眼には「石の理と自然が呼応している」ように見えてならなかった。そして、その眼差しには幼子に似つかわしくない集中の色も宿っていた。

寛蓮が戦盤を広げ、独りで昔の手筋を並べていると、幼い雫はとことこと寄ってきた。

丸い石を一つつまむと、躊躇なく盤に置く。

──パチリ。

まるでそこに打つのが当然とでも言うような手。寛蓮は眉根を寄せるが、それは偶然ではなかった。二手、三手と続けざまに打つその石は、筋を成していた。

「……この子は、石の理を知っておる」

まだ言葉もおぼつかぬ年齢で、すでに定石の一端に触れる直感を示していた。


村人たちの目には、この暮らしは奇異に映った。

「天から落ちた子だ」

「いや、不吉だ」

「寛蓮様の庵に、不思議な子がいるらしい」

そんな囁きも耳に入ったが、寛蓮は意に介さない。時折、村の外から、庵を訪ねてくる者もいる。彼らの前で雫は石を打ち、盤上の気がふわりと漂う。薪がはぜ、風が障子をかすかに揺らす。それを目にした者は言う。

「これは……戦棋の才が、あるのでは?」

だが寛蓮は首を振った。

「まだ幼子にすぎぬ。遊戯の域を出ておらん」

しかし胸の奥は穏やかではない。この才は、やがて隠しようもなく、世へ広がっていくと……


夜更け。雫が眠りについた庵で、寛蓮はひとり盤に向かった。寝床のたもとに置いた黒曜石が、月光を受けて淡く光る。黒曜石は、月の光を受けるたび、かすかに脈打つように明滅している。今も変わらず、雫の寝息と共鳴している。

寛蓮はハッとする。やはりこの石はただの宝玉ではない──少女と共に生き、未来を織る意思を持っている。

(才あるこの子の歩む道は、災厄を招くか…… それとも、世の救いの道となるか…)

老いた指が震える。だが、眠る雫の寝息を聞けば、その憂慮ゆうりょも少しだけ和らぐ。庵の外では、山風が木々を渡り、遠い国境の炎を運んでいた。



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