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序章 月下の邂逅 ― 始まりの火 ―

月の光が砕け、黒と白の石が宙を舞う。その一手が、大陸のことわりを裂く──

いにしえより、この世界に“戦棋せんき”あり。

盤上に打たれる黒白の石は、ただの遊戯ではなく、“理”と呼ばれる目に見えぬ力を呼び覚ます武具となる。

戦棋の理は“気”をはらみ、気は“武”へと昇華する。それは人の魂に宿る流れであり、国を築き、戦を導き、そして狂わせる。

挿絵(By みてみん)


月の光が砕け、黒と白の石が宙を舞う。その一手が、大陸のことわりを裂く──

いにしえより、この世界に“戦棋せんき”あり。

盤上に打たれる黒白の石は、ただの遊戯ではなく、“理”と呼ばれる目に見えぬ力を呼び覚ます武具となる。

戦棋の理は“気”をはらみ、気は“武”へと昇華する。それは人の魂に宿る流れであり、国を築き、戦を導き、そして狂わせる。


──理とは何か。

人はそれを、世界を正す秩序と呼び、あるいは、己を縛る鎖と呼んだ。

理は国を律し、人を裁き、そして戦棋盤の上では、一手の運命として現れる。

黒と白が交わるたび、空気は震え、世界の輪郭がわずかに揺らぐ。

戦棋とは、理を操る者たちの“戦いの言葉”でもあった。


七つの国が割拠し、盤上の理を力と変え、争いを繰り返す大陸があった。

大国・玲秀れいしゅう

文を尊ぶ朱霞しゅか

火と鉱を統べる焔煌えんこう

神を戴く白蓮はくれん

山嶺を駆ける黒嶺こくれい

海を制す金環きんかん

そして牙を剥く蒼牙そうが


七国はそれぞれの“理”を掲げ、そのかたちを黒白の石に託し、数百年のあいだ覇道を争ってきた。

一局が国を興し、一手が戦場を裂く──。

盤上で交わされた理は“戦気”となり、刃に力を与え、矢に風を宿し、雷火や大地の震動さえも呼び起こす。

戦棋の強者「戦棋士」は、盤上においても、戦場においては王の代行者となり、その一手一石が、数千の命をも左右する。

それゆえに、この大陸の“理”は、もはや人のためにあらず──理が人を動かし、戦わせ、選び、裁く。


天紀暦五二三年。

その大陸の中央に位置する大国・玲秀。かつては七国の中でも最強の戦棋士を揃え、栄華を誇った国。

──その夜、玲秀の都・白領はくりょうは炎に包まれていた。

城門は破られ、黒き旗を掲げた蒼牙の軍がなだれ込む。夜空を焦がす火は、月光さえ呑み、燃え盛る瓦礫の間を、悲鳴と怒号が駆け抜ける。


「押せ、押し込め!」

「玲秀を討て!」


戦場でぶつかり合う兵たちの前線や背後には、戦盤せんばんを手にする両軍の戦棋士たちがいた。戦棋士が、戦盤を奮う度、戦場の様相が変わる。


──“戦盤”は、戦気を増幅し、武力に変換する武具。

──己の肉体を強化し、手に握る刃の力を増大させ、地を揺るがす。


一手で黒煙が巻き起こり、兵が視界を奪われる。

一手で矢の軌道が曲がり、盾をすり抜ける。

一手で地面が割れ、騎馬が落ちていく。


盤上の理が戦気へと変換され、数百、数千の兵の命を奪い、そしてまた守る。それがこの大陸の「戦」であった。

理が戦を生み、戦が理を喰らう。


蒼牙──五十年前、玲秀の辺境にあった小さな集落──「五ノ里」。

その地から多くの戦棋士が現れ、やがて独立を果たし、一国の名を名乗った。小国に過ぎなかった蒼牙は、「戦棋士の育成」に力を入れ、急速に力を増した。しかし、そこには才ある者を幼き頃から囲い込み、戦棋士を、勝つためだけの存在、ただの駒と見なす教育をすると言う、黒い噂の絶えぬ国でもあった。


──その“歪んだ理”蒼牙の軍勢が、今まさに、玲秀を滅ぼそうとしていた。


「玲秀王・秀廉しゅうれん様──ご決断を」

炎に染まる王宮で、士官の声が響いた。玉座に座す王は重く頷く。

その背後には、二つの神前台座がある。

その一つには、漆黒に光る宝玉──黒曜石こくようせきが鎮座している。


黒曜石──人を過去へと“送り還す力”を持つ石。

玲秀の王家に代々伝わり、幾度も国を危機から救ってきた秘宝である。しかし、一度に還せるのは一人の運命のみ。ゆえにそれを奉ずる時は、窮地の策に他ならない。

王は、傍らに立つ少女へと視線を向けた。その髪は月光を思わせる淡い色を帯び、瞳は不思議な透明さを宿している。

玲秀王・秀廉の一人娘──しずく


まだうら若き少女を前に、王は震える息を吐く。

 「……雫。おまえには、穏やかな未来だけを見せたかった」

だが、その言葉の裏に、決して隠せぬ現実がある。玲秀王の目に焼き付いているのは、遠く炎に包まれる城壁の上、白きしろき ほむらを纏う一人の少女の影。


その少女の容姿は、頃合いで言えば十五にも満たない。だが、幼い輪郭とは裏腹に、まとう空気は“人”のものではなかった。銀白の髪は風に揺れるたび、冷えた刃のように硬質な光を帯びる。肌は白磁のように血色を欠き、生者の温度をまったく感じさせない。

そしてなにより――瞳。

戦場の炎を映した双眸は、本来は淡い灰色だったはずだ。だが、戦気が高まるたびに色が変わる。灰色から薄紅、深紅、そして――

今は、月血のような“濁りのない真紅”へと染まり切っていた。その目は、すでに少女のものではない。

敵味方を分類し、最短で殺戮効率を算出するためだけの『演算光』。そこには怒りも憎しみもない。ただ“生殺与奪を判断する光学装置”のように、戦場を無機質に走査しているだけだった。


さらに――彼女の戦盤は、背中から伸びた複数の“腕”そのものだった。関節が逆に折れ、刃物を掴んだまま静止するその姿は、生物の動きではない。金属質の多関節フレームに、青白い“理脈”の光が走り、まるで鉄と理で組まれた千手観音の異形にも見えた。


 ── 一つは防御の盾となり

 ── 一つは理波の射出口となり

 ── そしてまた別の手は刃を振るう


少女がわずかに胸を上下させるたび、人工呼吸器のような微かな機械音が漏れた。

それは生者の呼吸音ではない。“理素”を循環させるための強制理呼吸ブレスの作動音だった。

呼吸音が一段深くなるたび、瞳の赤は濃度を増し、千手の刃先がわずかに震えた。まるで“戦闘続行”の合図のように。

千手は、彼女の意思ではなく自律制御で動き、敵の位置、速度、呼吸、体勢を解析し、もっとも効率的な殺戮ルートを選び続けている。

白き焔を纏い、地を裂き、雷鳴を呼び込む。


焔を纏うのは闘志ではない。戦盤が理脈に過負荷を走らせた結果、彼女の身体との摩擦から漏れ出す“理灼熱”。彼女の足元の石畳は、踏み込むたびに溶け、斬りつけた空気は雷火へと変換された。

もはやそれは戦盤と呼べぬ代物。身体の外にまで“理の系統樹が伸びている異形の戦棋士”であった。

兵たちが囲むが、意味はなかった。

「来るな! 下がれ、奴の間合いに入るな──!」

叫びは遅い。すでに無我は一歩、踏み込んでいた。

千手が正面・左右・背後の兵を、同時に攻撃・防御・切断していた。斬撃の軌跡は、音が追いつくより早く兵の身体を分割し、盾を弾き、槍を砕き、血飛沫を風に溶かす。

彼女の動きには“選択”という概念が存在しない。正解のみを抽出し、実行するだけの演算の連続だった。蒼牙の兵ですら、彼女の背後に立とうとはしなかった。


蒼牙軍の中で唯一無我に近づけるのは、彼女の整備を担当する「戦盤技士」のみ。一般兵が半径五歩の距離に入ろうものなら、彼女は“理の流れの乱れ”として認識し、反射的に排除する。それが“無我むが”という名の戦棋兵器だった。

白き焔は意志ではなく“機能の光”。少女の形を成しているが、その本質は――

戦場に最適化された殺戮機構メカニズム

――生存も、恐怖も、後悔も、必要としない“理の器”。


「我らも、人の道を外した力へ踏み込むべきだったのか……?」

玲秀王はうめいた。

「蒼牙は、もはや止まらぬ……」

「あの国は戦棋を歪め、棋士を兵器に変えておる。あれは、蒼牙の兵棋計画の産物だ」

娘は何も言わず、ただ父を見つめていた。

「雫……。おまえはまだ若く、戦とは無縁であるべきだ。しかし、この玲秀の未来を救えるのは、おまえの才しかない。」

 「我が血に流れる“石の理”を継ぐ者よ。今は何も分からずともよい。ただ、おまえの選ぶ過去での一手が、未来を紡ぐのだ」


震える手で、王は娘の小さな手を包み、黒曜石を握らせた。

「さらばだ、我が娘……この国の未来を託す。過去での再会を願おう。」

雫が黒曜石を掲げた瞬間、宝玉は蒼白い光を放ち、天地を裂く轟音が響いた。空間が軋み、光の渦が広間を包み込む。長き時を経て劣化した石には幾つかの亀裂が走り、裂け目は定まらずに揺らぎを帯びていた。炎と影が交錯し、光が少女を包み込む。

光の渦に飲まれながら、雫は想う。

(国の理がすべてを決めるのなら……わたしの想いは、どこへ行けばいい……)

その想いは、光にかき消され影に飲み込まれる。

光が爆ぜ、世界が反転した。

城は震え、大地は裂け、月光が赤く滲む。

その瞬間、大陸の理がわずかに揺らいだ。

──それは、長き静寂を破り、“理”が人に帰ろうとする最初の鼓動であった。

残された広間は、静寂さを取り戻す。しんと静まり返った広間で、玲秀王はひとつ深く息を吐いた。

「行き先までは、定まりません……」

士官が発する言葉を遮るように、玲秀王は応える。

「それで良い。あの子が自らの意志で、未来を選び取れば、それでよい」

王が何気に、床に目をやると、黒曜石の一部が砕け、欠片が散っていた。砕け散った欠片は、まるで涙の雫のように床を濡らしていた。

王は静かに息を吐いた。

その小さな欠損が娘の旅路に影を落とすのではないか――そんな思いが胸をかすめたが、今はただ見送るしかなかった。


背後の神前台座には、かつてもうひとつの宝玉があった。白曜石はくようせき──蒼牙との独立戦争で行方知らずとなり、今は影も形もない宝玉。

黒曜石が「過去へ人を還す」なら、白曜石は「過去にも未来にも人を運ぶ」と伝えられている。玲秀が大国へと築かれたのは、この二つの宝玉の力によるところが大きい。

──玲秀の過去、そして未来は、理と共に時を越えて転生する。

月光はただ静かに、その旅立ちを見送った。


その夜──遠く離れた蒼牙の空にも、同じ月が昇っていた。月影の下、白き焔を宿す瞳が、ひとつ、静かに開かれる。世界が、理の名のもとに動き出す──。



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