『伏羲/文化の神 ➁』
相も変わらず池の畔で釣り糸を垂らしている。思索をする為、餌は元々仕掛けて居ない。此の構えが最も落ち着く。
──思い返すのは、置手紙を見つけて三月の離別の後。木曜日に再会し、
「日和を助ける為だ、嫌われても仕方が無い」と自らに言い聞かせ、泣かせるだけ泣かせて仕舞った日。
あの時。寝台の帳に遮られた故、我の顔を見られずに済んだのは幸いだった。何故ならば。
日和が嗚咽と共に心を曝け出し、藻掻き苦しむ姿を大いに憐れんで居乍らも──。
他の神も知らぬであろう日和の叫びを独占した事に、我は穢れた愉悦を深く感じていた。
生来の蛇の性質が図らずも顔を覗かせ、此の娘は我が獲物だ、全てを丸呑みにして仕舞いたいと……。
愛せば愛す程、抑えきれぬ此の執拗で征服欲の過ぎた本性に厭気が差した。
そうした己を必死に隠した翌週、日和は、
「嫌うなんて有り得ません」と伝えてくれたのだった。
内実を知らぬとは云え、あの言葉にどれ程救われたか。
日和が他の男を選んでも「必ず奪い返す」とは云ったが……。日和に心から拒否される時は如何なる事か。斯うも欲して、諦める等出来るのだろうか。執念深く追い求め、苦しませて仕舞うのではないか。
そう考えている頃合いに、日和から「結婚は待て」と告げられ、我は敢えて接触を断った。
あの一筋縄で行かぬ娘に、余計に執着しそうだった為、此れは良い機会だと。
だが今も斯うして人世に居る辺り、往生際が悪いと云えよう。
(……………ん? 此れは………?)
突然、甘く華やかな香りが一面に舞う。
そう、此の花──芍薬は我が祖国に於いて「可離」とも呼ばれる別れの印。
愛する者と離れる時に、再会の願いを伝える花。
(だが日和の為にも、我は逢わぬ方が良いだろう)
………………………………………………。
「あの~…。伏羲さん、そろそろ気付いて下さいよ~。……嗅覚から起こすのは優しすぎたのかな。でもつついてもダメだし。んー、仕方ない。ちょっと失礼しますね」
何かが唇に触れる。……柔い、何かが……。
思索を止め、視界に意識を遣れば、目の前には最愛の者が頬を染めて佇んでいた。
「やっと正気に戻って下さいましたか? ……ふふっ、眠り姫みたい。おはようございます、伏羲さん。今日は木曜日ですよ?」
「まさか……日和……?」
零れた声の何と掠れて居る事か。
釣竿を構えた儘の我に向けられていたのは、嘗て日和に贈りたいと伝えた「幸せな結婚」を意味する白い花の束。
「……はい、すっごく探しました。まさかこんな所にいるなんて」
「そう、か…………。他の神に訊かなかったのか?」
思わず呆然と答え、尋ねてしまう。
「メッセージで教えて下さいって頼みましたよ。でも全員既読スルーなんです。オシリスさんとは文通でしたけど、お返事は『嫉妬させるのが本当にお上手だ』としか書かれてなくて」
「済まぬ、手間を掛けたな。……だが、日和と過ごした人世は此処の他に無い。嘗ての部屋は既に他の者が暮らして居た」
「いやいや、普通に空間紙で会えると思ってたんですよ!?」
何やら不思議な事を云っている。少々戸惑いながらも理由を伝えておく。
「? ……あれは人世では無い」
「!? なっ、なんて融通が利かないの……。森林公園の奥地で釣りしてるなんて、ヒントが無さ過ぎますよ。それに誰かに見つかったら、不審者扱いされちゃいそう」
「日和以外の人類には見えぬ様にした。雨風等も当たらぬし」
日和は「こういうズレてる所が可愛いんですよね」と可笑しな事を呟いた後、
「気付いてくれると思ってたから、あの空間を飾り付けたのに」と文句を云った為、連れ立って移動する。
◆◆◆◆
簡素だった部屋には、同じく溢れんばかりの芍薬の花。焼き菓子等も机に添えられ、宛ら祝いの場の様だが喜ぶべきなのだろうか。
互いに椅子に腰かけたが、我は何も言わず。
更に昏い顔をして居たのだろう、心配そうに日和が声を掛ける。
「……………もしかして、ご迷惑でしたか? お待たせし過ぎてしまいましたか?」
「否、大して待っては居らぬ」
「そ、そうですか? ……ずっとメッセージも無いし。皆さんに伏羲さんの状況を尋ねても『何十年でも大丈夫そう』としか言わないし」
「……………済まぬ」
重ねて「私、断られちゃうのかな」と悲し気な声を出され、暫し逡巡した後に白状する。
「以前、其方は神々のそれを《完全な愛》だと云っただろう? ………少なくとも我は違う。酷く醜い感情ばかりだ」
「………………え?」
「……日和の全てを征服したいという欲がある。余りにも下賤な欲望が。……強権的な父に傷つけられた其方に、相応しくない」
俯きながら懺悔をすれば、日和は黙り込んで仕舞った。苦しい静寂がどれ程続いた頃か。────清らかな声で囁かれた。
「やっぱり伏羲さんにも、頭で考え過ぎる嫌いがあるようですね」
「……………………!」
其れは、嘗て日和に掛けた言葉だった。顔を上げれば、我を一筋に見つめる瞳と目が合う。
「どうか逃げないで。どんな姿も心も隠さないで……。私だって、あなたのすべてが欲しいです」
力強い言葉とは裏腹に、其の細い肩が微かに震えている。そして更に涙を浮かべて告げられた。
「私の傷が治った後も、変わらず守ると言って下さったじゃありませんか……?」
「ッ──!!!」
ああ、何て事だ。我は再び逃げて仕舞ったのだ。愛しい者に便りも出さず、不安にさせて。
後悔に打ちひしがれ、日和の冷えた身体を抱き締めて必死に詫びる。
「済まぬ……! そうだ、そうだったな。我が云ったのだったな……!」
何度こうして此の身を振り返らせてくれるのか。初めて共に過ごした時から感じていた、我にとって唯一の存在。
「日和、愛している、愛している……。二度と逃げぬから、どうか赦してくれ……」
「……なんだか昔と逆ですね。弱ったあなたを見られて嬉しいです。ありのままを愛していますから、私と結婚して下さい」
日和は微笑みながら指輪を嵌めてくれた。
従来は男がすべきとされていた行為だが、逆であっても価値など下がらぬと実感する。
愛らしい唇に自らの其れを重ね、暫くしてから跪いて乞う。
「勿論だ。否、我こそ結婚して欲しい。日和の望みは何であっても叶える。……永遠の愛と忠誠を誓おう」
「嬉しいです……。って、もう指輪を用意して下さってたんですか? ……石が大きすぎません!?」
「? 是くらいが相場かと思うが……」
初めて会った春の内に、既に備えていたと告げると何故か大きな溜息を吐かれ。
「本当にする事が大掛かりというか……。それに人類に忠誠っていうのは過大では?」
何やら照れる日和に語る。
「其方は以前読んだ書の女と異なり、己の過ちから逃げぬばかりか、同じ身空の子達へ献身的な愛を注いだ。神たる我よりも強く……敬愛に値する」
日和は「褒めすぎですよ」と恥じらっている。
其の愛おしい者に甘え、欲深く証を求めて仕舞う。正に肩の荷が降りたかの様に悠々と。
「──さて。次は其方から、我の何処を好むのか具に訊かせて貰おうか」
「ふふっ、お元気になりましたね? ええと、一つ目はご自分がおっしゃってたように、しつこくて面倒な所。二つ目は考え過ぎて自分を追い詰めるほど実直な所。三つめは懐が深い所。極めつけはズレてて可愛い所、です」
「最後は妙だな……。とは云え、それでも我が日和を愛する理由と全て一致する。其方は加えて心が美しいが」
本心から云えば、複雑そうな表情をされた。
「……お待たせしてしまった理由の大部分なのですが……。家庭に問題のある子供を支援するというのは、生々しい事にお金がかかってしまって。質の良いスタッフに来てもらうにも、給与の面は大事ですし」
「資本主義の限界ではあるな」
「ええ、本当に。ですから色々と試した後、ついには父だった男と『明彦の手紙』の原本を引き換えに、経済的に支援するよう交渉したんです。中々に狡猾な女でしょう?」
我は思わず笑ってしまう。確かに強かな娘よ、と。そして云う。
「其れで良い、男も救われるであろう。即ち日和、其方もだ」
「……はい。私、こんな女ですけど。それでも今すぐ愛してくれますか?」
理解っている癖に当たり前の事を訊く辺り、日和も面倒で実に愛いと想う。
何方ともなく口づけ──。設えたままの寝台へ腰を引き寄せる。
ふと、伝えて無い事を思い出した。
「日和は蛇の生態を識っているか?」
「? いえ、通り一遍の事しか知りませんけど……」
(一夜体験すれば骨身に沁みるか……)
相当な時を費やしてしまうのだが、敢えて黙って進める我は矢張り卑怯だ。
──そうして蕩ける様に幾度も身体を重ね、気絶寸前で漸く眠りに就けた日和の肌には無数の赤い痕。其の足に唇を寄せ、新たに誓う。
我は人類の祖たる《文化の神》。
人世から哀しみが減るように。
幼き我が子らが苦しまぬように。
此の《権能》の全てを賭けて、新たなる制度を作り齎そう。
片割れたる其方が望む倖せな世を──。
もう二度と逃げる事無く、探求し続けると。




