第86話『愛と生』
私は手紙を何度も読んだ。何度も何度も、繰り返し読んだ。吹きあがる同族嫌悪と、狂おしい親近感に身を焼かれ──手紙を握りしめたまま、朝を迎えた。
大学に行く気力はさすがに残っておらず、マリにはメッセージで「今日はサボる」と言っておく。
父だった男は……弟が愛する女を手に入れた事で、初めての勝利に酔ったのだろうか。
けれど彼女と生活を共にする内に、愛していない事を思い出し。
果ては愛する弟が、その女を原因として死んだ事が許せないらしい。
己の罪を認める事が出来ないままに。
母は明彦の心も、彼が私の父だという事も、元夫の憎しみの本質さえも。永遠に知る日は来ないだろう。
私が手紙を読ませる気になれないから。
なぜなら明彦が望んではいないと分かるから。
彼は恐らく、母を最期まで愛していたから。
明彦……実父はまるで私の写しだ。
理想と現実の狭間に揺れ、人間の身でありながら不純物の一切ない水へと沈んでいった。そこでは何者も生きられないのに。
けれど私も一人であったなら、きっと──。
恋をして、愛し合い、結婚し、死ぬ。
ずっと悩んできたつもりなのに不思議なもので、この三人を俯瞰すれば何とも奇妙に整理がついた。
まだ完全には理解できない、嵯峨明彦の答え。
「愛」とは手離すこと。
「生」とは手離されること。
神ですら惹かれる概念である《愛》。
有限の命である限り見つめる《生》。
これらの絶対的な価値とは異なる制度──《結婚》が、なぜ“人類救済計画”において必要とされたのか?
その問いの答えを見つけるまで考え続け、求め続け……夕方にようやく眠る。
夢の中へ運んで寝かしつけてくれたのは。
子守唄を歌ってくれたのは。
顔が見えない。声も聴こえない。
なぜか私は謝っている。
「行かないで」と必死に縋る。
彼方へと去るその人は──。
皮肉めいた微笑みを浮かべていた。
そうして翌日に目覚めてからも悩み、水曜日が終わる頃。
私はようやく心を決めてエンキさんを呼び出し、《全神の聖域》へと赴いた。
◆◆◆◆
(ああ、なんだかあっと言う間の日々だった……)
目の前には既に全員が揃っていて、自分で呼び出しておいてなんだけど若干緊張する。
父と会うと言っていたから、それぞれが心配そうに私を見ている。素直じゃないロキも含めて。
私はスッキリした顔をしているだろうか、出来るだけの笑顔で挨拶をした。
「皆さんこんばんは。まあ……色々ありましたけども。やっぱり一回で家族の問題が全解決って訳にはいかなかったですよ」
するとオシリスさんと伏羲さんが気遣わし気に応えてくれる。
「それはそうだよ、日和さん。一生引きずる場合も多いのだから」
「無理に片を付ける必要は無い。急がば廻れと云う事だ」
「そうですよね。この手紙を見て下さい、実父だそうです」
……しばらく七人全員が見入る。
故人の手紙を他人に見せるのはマナー違反かもしれないけれど、明彦なる人は絶対気にしないと分かるので良しとする。
するとその内、ロキとアポロンさんが苦笑いをした。
「ハハ、拗らせてんなぁ! お前とそっくりじゃねーの?」
「音楽で喩えるなら《無調》って感じだね。初心者には聴きづらい……」
「私はここまで酷くはないっ! ……と思う」
母の遺伝かもしれないなと思った。
表面しか見ないと評された母は、確かに私を「娘だから」という理由だけで愛しているのかもしれない。
明彦も私のように「それでもいいか」と投げ出す力があれば。
私は冴えた頭で静かに言う。
「皆さんに出逢う事なく手紙を渡されていたら、私はきっと潰れてました。お陰様でこれが嫌がらせじゃなくて、実父なりの人生のエールだと受け取れてます」
さらに「だいぶ毒はありますけどね」と付け加えれば。
エンキさんとシヴァさんが微笑んだ。
「そうだね、彼は自己愛に振り回されたみたいだけど……君への想いは感じるよ」
「やったことはさておき、オレはこの男、嫌いじゃないぜ? ──行き過ぎちまったんだな」
黙っていた月読が心配そうに言う。
「…………日和は『答え』にたどり着いたの? 焦るのは良くないこと、みたいに書いてあるけど」
私は自信満々に答えた。
「なんせ遺伝する悪癖だからね」
一同、ちょっと不安そうな顔。
ああ、この優しい神々が家族以外の居場所をくれた。
そしてマリが、神でなくとも素晴らしい存在が人世にいると教えてくれた。
家族は飛び立つまでの巣だ。
羽ばたく時には傷を眺めず、輝く外へ目を向けないと。
明彦──お父さん。今の時点で私はこう思う。
「愛」とは他者の尊厳を守り、ありのままを受け入れ、傍に立ち続けること。
「生」とは自分なりに必死に考え、有限の命の限り勇敢に行動すること。
孤独でいたら、きっとあなたの考えに共鳴していたけれど。
彼、彼女らが私に贈ってくれた様々な想いが、ここまで導いてくれた。
待て待て《結婚》はどうするんだ、ですって?
世界が滅亡するらしいのに私はどうするのか? そうだよね。
皆さんに集まってもらったのは、それを伝えるためだった。




