第83話『前夜 ➁』
オシリスさんに忠告されていた通りベッドのサイドテーブルにはグラスいっぱいの水を溜めておいた。あとは呼ぶだけでエンキさんが来てくれる。
──そう自分を安心させて、私は月読の顔を見て静かに言った。
「いつもの月読に戻って欲しい。じゃないと『大嫌い』って言うよ」
「へえ? そうやって従わせるんだ。まあ、それもいいんじゃない?」
「!!!」
……彼の言葉にたじろいだ。
自分はそうやって他人をコントロール出来るつもりでいたのかと。
神を相手にするのなら、これくらいの権利が無いとフェアも何も無いけれど。
彼らとはお互い対等な立場として接し合って来たつもりだったから、自分の狡さを嫌悪した。
固まってしまった私に微笑んで、彼は一瞬の内に手を伸ばし──グラスの水を引っ繰り返す。バシャッという音は私に冷や水を浴びせたかのようで。
立ち竦む私を満足そうに見つめる月読は、ゆっくりとベッドに押し倒してピアスを触る。
「……んー、たしかにこれは難しいね。魔術はおれ、あんまり詳しくないし」
「オシリスさんは一月くらいで外れるって言ってた。そしたらロキに返すつもりだし、許してほしい。……それに彼は友人だから、物騒な事も言わないで」
「はッ、友人? 向こうはそう思ってない」
ようやく笑顔が消えたと思ったら吐き捨てるように言われる。
泣きたい気持ちになったけれど、気が強くて良かった。
「あなたには知らない時間もある」と、つい語気荒く返してしまう。
すると月読は不愉快そうな顔になって私に問いかけた。
「穴を開ける時、アイツの顔を見た?」
「それ、オシリスさんにも訊かれた。目を瞑ってたから……分からない」
彼は私の耳に指を入れて擽って来る。
やめてよ、と言えばすぐに抜いて……耳元で囁いた。
こんなに妖艶な声をしていただろうか。
「この魔力に触れれば分かるよ、あいつの気持ち。陶酔、慈愛、執着。そして、」
「………………」
「────解放。男が一番好きな瞬間に、似てるかもね」
あまりにも淫靡な響きを吹き込まれ、私は赤くなった顔を背ける。
すると首筋に舌を這わされて驚愕した。
「何するの!? やめて! ……離れて!」
「やっぱりこれ、外れないから。おれにも何か残させて」
体を押し退けようと両腕で押しても、まるで動かない。
また私の耳に指を入れて──何かを示唆するように何度も出し入れされる。
「は、離れてって言ってるでしょ!?」
「穴、開けるのと同じくらいのことがいいな」
まるで意に介してくれない月読は、私の内腿にするりと指をやった。いつも温かい手が、氷のように冷たくて……。
体が大きく跳ねる私に含み笑いをして尋ねてくる。
「それって、何をするんだと思う……?」
彼の暗く濁った紫の瞳を見て、ようやく私は気が付いた。
ああ、月読はただ怒っているんじゃない。
──それよりも、傷ついているのだと。
途端、胃が引っ繰り返りそうな後悔が押し寄せてくる。
(あんなにも……あんなにも私を大事にしてくれたのに……!)
その優しさに甘え過ぎていた。あまりにも無神経だった。
私は彼を引き寄せ、抱きしめて叫ぶ。
「ごめん……!!! ごめんね、ずっと好きだって言ってくれてたのに……。こんなの嫌だよね……!」
「………………え、」
「好きな人がこんな風に曖昧なまま、他の人と過ごしてたら……誰だって嫌だよね……!」
頑張っていたけれど、やっぱり涙がボロボロ出て来た。
体を強張らせてる彼に気付いて、もっと悲しくなってくる。
「自分がされたらイヤな事、しちゃいけなかったんだよ。私、本当に誰にも恋した事なかったけど、今ならもう分かる。ごめんね、もうすぐ決めるから……!」
私は天照様に皮肉を言われた通り、誤った《黄金律》に目覚めてしまったばかりか。
『自分がして欲しくないことを、他人にしてはいけない』という《白銀律》も出来ていなかった。こんなに当たり前の事なのに。
情けなくてギャンギャンと泣き出してしまい、ずっと黙っていた月読は急に体を大きく揺らした。
「……あっ……!? ──おれ、おれ、ごめん! 日和、泣かないで。おれが悪かったから。嫌いになってもいいから、おねがい泣かないで……!」
「あなたは謝らなくていいから! 黙りなさいよ!!!」
「え、ええ……」
先週のように彼にしがみつき今度は号泣までする情けない女。
チラリと彼に目をやれば、いつもの無表情と戸惑うような瞳で見つめ返してくれて。
それに安心してしまい一時間くらいグスグスとしつこく泣いていた。
◆◆◆◆
ようやく落ち着いた頃、月読がもう一度お湯を沸かしてお茶を淹れてくれた。
ソファで隣り合って座ると物凄く反省した顔で言われる。
「…………本当にごめんね。おれ、暴走するとおかしくなっちゃう癖があって」
「そういえば前にロキと喧嘩した時も、空が裂けたって聞いた。どういう流れなの?」
マグカップを啜りながら、絶対に不細工になっている顔を背けて尋ねる。
月読は「言わなきゃだめ?」と縋るような瞳をしてそうなので見てあげない。
「…………えっと、なんかボーッとしてたアイツに、おれが斬りかかって」
「は、話し合いもせず!?」
「幻術だったから避けられちゃったし。それで、あれこれしてたらシヴァが来て。『何してんだ止めろ』っていうから鬱陶しくて、シヴァにも蹴り入れて」
「彼、とばっちりすぎるよね!?」
顔を見るつもりが無かったのに突っ込み所が多くてつい振り向いてしまう。
「そのうちロキがおかしなこと言い出すから、宥めてたはずのシヴァまで暴れ出して。あれはやばかった……空を裂いたのはアイツ」
(ロキは一体何言ったのよ……あんな寛大なシヴァさんが暴れるって……)
「それで最後は珍しくキレたオシリスに三人とも怒られて、終わった……みたいな感じ」
先生、そんな事ちっとも書いてなかった。
他の三人が登場しないのは引きこもりトリオだったからか。
遠い目をしていた私を大きな子犬は横目でチラチラと伺っている。
怒ってないけど可愛くて面白いから、ついスルーする。
「…………おれ、グーで右ストレートされてもいいよ」
「止めといた方がいいよ、女の力だからって舐めてるでしょう?」
伏羲さんに柄杓をぶつけた時、顔が赤くなっていたから……。
神といえど物理的なダメージが一切通らない訳ではない事を知っている。
また、バッティングセンターで再確認した通り運動神経も極めて優秀な私。
なのに彼ときたら「殴られた方がおれも救われるし」なんて悠長な様子で。
しばらく「殴れ」「殴らない」の問答をして、あまりにも食い下がられたので、私はマンションの皆さんに心の中でお詫びした。
そして言う。
「じゃあさ、この脱衣所に繋がる扉。これ殴る姿みてからもう一度考えて」
「…………?」
木製で大した強度ではない事はコンコンと叩いて確認できた。私は怪我をしないよう、自分の拳をハンカチで巻く。
軽くイメトレを行い、ゆっくりと息を吐き──腰を捻って体重が全て乗るように思い切り振り抜いた。
すると部屋中、おそらくフロア全体に響いたかのような爆音が轟く。
「ああ、穴、開いちゃったか。直すの上手い人知ってる?」
月読はゴクリと喉を鳴らして「シヴァは《再生の神》だから……」とお勧めした。
「それで、グーで右ストレートして欲しいんだっけ?」
「…………ほかのお詫び、かんがえる」
瞳を逸らしながらポソリと言う彼は、まるでシッポが内側に巻いてるようで愛らしかった。
※次回は同日2/23(月)8:10、13:10、19:10、19:20に投稿します。




