第78話『母 ①』
母の元へ向かう電車に揺られている間。
伏羲さんに言われた通り、途中だったイギリスの小説を読み進める。
《信用ならない語り手》による欺瞞だらけの視点は、ページが進む毎に真実へとピントが合っていった。
……なるほど、ラストはそうなったのね。
主人公の主婦は思い上がった自らの過去を恥じ、家族の元へと帰還した後──。
彼女の脆さを責める事など、よく似た私に出来るだろうか。
伏羲さんは「日和と全く異なる」なんて言っていたけれど。
丁度読み終わった頃に目的の駅に着く。
一週間前に喧しかった蝉は随分と静かになっていた。
インターフォンを鳴らすと、即座に出迎えてくれたのは美しく優しい母。
「ひさしぶりね、日和」
「随分一人にしちゃったね」
嫌味でもなく出て来た言葉で、再会する私達。
一度として噛み合う事の無かった二人。
玄関に掛けられた鏡で並んだ姿を見れば、こんなに似ていなかっただろうかと驚いた。
リビングに通され「お腹は空いた?」と訊かれたので、素直に頷く。
食事の用意を始めた母の背中を眺めた後に、周囲を見渡せば──古いながらも完璧に整えられた部屋。同居人の痕跡があるかと思えば、そうでも無い。
(探るつもりは無いのにさ、こういう所が私は嫌な女だよ)
そして食卓に並べられたのは、特に名前も無い家庭料理。
なのに口にすれば「すごく好きな味だな」と思う程、私に寄り添う物だった。
ふと母の手に目を遣れば、曇りの無い美貌とは裏腹に年齢以上の皺があり、胸が切なくなった。
「おいしいよ」
私のたった一言で、母はなんだか泣きそうだ。
どう話を始めようかと思っていると、静かに切り出される。
「この間の電話のことなんだけど。わたし、ずっとだまっててごめんなさい。日和の聞きたいことには何でも答えるから、だから……」
「うん、いいよ」
私は出来るだけ母の目を見て、優しく相槌を打つ。彼女は必死に言葉を選んでいる。
「わたしは日和のお母さんだから。日和が一番大事なのよ、娘なんだもの。大好きなのよ? きらわれたくないの」
「うん、嫌いじゃないよ」
何か引っかかる言い方にも感じたけれど、深く考えるのは止そう。あの男の人がいるじゃないか、とも思わないようにする。
私が質問してこない事に不安を感じたらしい母が問いかける。
「……あの夜。どうして、あの人のことを聞いたの? きっかけはあったの?」
「あー……。『赤い靴』って童謡。あれを歌ったらさ、なぜかね」
母は長い睫毛に縁どられた瞳を見開いて、小さく「ああ」と呻いた。
私は食べながら話を続ける。
「少し怖い歌詞だけど今でも好きだな。あれを子守唄にセレクトするのは、ちょっとズレてそう。でも悪くない趣味だと思う」
父を褒める日が来るなんて自分でも不思議だ。
そんな風に思っていると。
「明彦さんは好きだったのよね」
────私は箸を止める。それは会った覚えが無い、知ったばかりの叔父の名前。
「お母さん……私、それを歌ってくれたのは父親だと思ってたんだけど」
「えっ……。そ、そうなの?」
「お母さんは音痴だから、状況的にそうかなって。聞かれても私だって分からないよ」
「わたしも分からないの……。あの人が日和を寝かしつけてる時、そばに寄れなかったから……。ただ、明彦さんが時々歌ってて。だからてっきり」
母の箸も止まる。
彼女が嘘を言っている様には思えない。
そんなに器用な人じゃない。
「明彦さんっていう叔父さんはさ、どういう人だったの? どうして死んだの? 私とそんなに接点はあったの?」
「……彼はあまり有名ではない小説家で、車の中で、ひとりで」
「うん」
「あの人とすごく仲の良い兄弟だったから。わりと遊びにきていて、日和に子守唄を歌ってもおかしくはない……と思う」
幼い頃、私を可愛がってくれた人の思い出はどこからどこまでが父で、叔父なのか。
あれから頭痛はしなくなったけれど、努力しても記憶が鮮明になる気配は無い。
「お母さん、もう一度聞かせて。本当に私はあの人の娘?」
「うん、そうよ」
「……すごく嫌なお願いだと思うんだけど、当時の検査結果がまだあるなら見せてくれない?」
母は予測していたらしく、キャビネットの引き出しからすぐに出してくれた。
そこに書かれているのは、
【本鑑定の範囲では、被検者(夫)を父親として否定できる矛盾は認められません】だった。
随分と勿体付けた言い回しだな、と思いながらもスマホで調べる。そしてすぐに気づく。
本来であれば、
【父子関係は極めて高い確率で認められます(99.99%以上)】
────こう書かれるはずなのだと。
まさかと思って用紙の隅から隅まで目を走らせる。
「お母さん……これさ、叔父さんの検体も提出した?」
「えっ? ううん、してないと思うわ」
「ど、どうして!? 兄弟なんだから。DNAっていうのは、こういう時はね、えっと。そ、そもそも比較するなら両方ないと……!」
そこまで言ってハッとする。
母は貧困な家庭で育ち、ほとんど勉強もせずに高卒だと父が散々馬鹿にしていた。
この悪気の無い表情は、演技ではなく本物。
何がいけないのか、まるで分かっていない様子。
戸惑う母に目もくれず、私はAIも駆使して「この結果は父が父じゃない」という事実ではないのかと調べてみたものの。
どう検索しても「実父が明彦であった場合は、その兄である男にこうした結果が出てもおかしくない」ということと、
「父が紛れもなく実父であっても【矛盾なし】程度の表記となる事は、現在の技術でも有り得る」と知る。
「日和? どうしたの?」
うっすら涙を浮かべながら私を見る彼女は、永遠に老ける事など無い気がした。
誰よりも美しく、嫋やかで、清らかで。
その幼い表情に心揺らされない男など、いるのだろうか。
「日和? ねえ、怒ってるの?」
私に縋ろうとする母は、今まで見る中で一番魅力的だった。
※次回は同日2/21(土)19時10分に投稿します




