第72話『木曜日/伏羲 ⑤-2』
あまりにも電光石火の一幕だったので、お互いに何も言えない。伏羲さんの頬が少し赤いのは柄杓が直撃した箇所らしい。
私は運動神経や筋力も優れているので、かなりの威力だったと思われる。
「あの、これはっ……」
「……大事が在った訳では無い様だ」
伏羲さんは髪からお湯をぽたぽた零しながら、安心したような声で応えてくれた。
全然怒ってないので余計に心苦しい。
「本当にすみません……! 蛇が向かってきたので、つい驚いてしまって」
「蛇?」
私が大騒ぎしたので、てっきり逃げているだろうと思っていたら件の生き物はお湯の周りの岩肌で寛いでいる。
気のせいか、どこか嬉しそうにすら見えた。
中々大物じゃないのと感心していると、伏羲さんが優しい声で言う。
「ああ、日和から我の気配がした故、近付いたのだろう」
「えっ!? 伏羲さんのペット……とかですか?」
「否。蛇は我と同じ身を分けた影の如き者。此の種に毒は無い」
そう言いながらするりと撫でてあげる手は、労わっているようだ。
途端、申し訳なさで一杯になる。
「ごめんなさい、私……その子に酷い態度をとりました」
「女人が嫌うのは珍しくも無い。気にするな」
そうは言われても、と思ってその白い生き物をよく見ると……。
(あれ、思ったより怖くないかも?)
私の腕の半分も無いほど小さく細く、真ん丸のつぶらな赤い瞳をしている。
その血のような色は伏羲さんとそっくり同じだと気づけば、みるみる警戒心が消えていく。
まるで猫にやるように「おいで」と手を指し伸ばせば素直にスルリと腕に巻き着いて、その鱗の感触が気持ちいい。
「賢い……なんだか可愛く思えてきました」
入浴着の袖から入って顔を覗かせたので、指先でよしよしと撫でてあげると舌を出した。
「そうか」
彼が発したのは一言だけれど、蕩けるように甘い声だったので少し照れてしまう。
そして「濡れたので着替えてくる」と言って去って行った……と思ったら。
同じく入浴着を纏って、こちらに戻って来た。
「え、え!? 何してるんですか!?」
「濡れた故、入ろうかと」
そう言いながらお湯を掛けて、私と一番離れた所に悪びれもせず浸かってしまう。
一人で入れると聞いたのに、と文句を言いたいけれど、誰のせいだと訊かれたら答えようもない。
恥ずかしさでチラッと彼を見れば、こちらには一切目を向けず山の方を見ている。
(まあいいか……。念のために水着も着てるしね)
この適当さこそが、本来の私。
そよ風に吹かれて蛇と戯れながら、穏やかな時間を過ごす。
竹がさわさわと気持ち良い音を鳴らす中、二人とも遠くの景色を見たまま他愛の無い雑談をした。ふと思い出したように伏羲さんが私に言う。
「先週日和が読んでいた書──。我も読了した」
「そうなんですね。でもああいうのは、あなたの趣味と違うのでは?」
すると彼はちゃぷん、とお湯の音を立てながら応える。
「優れた文であれば我は何でも好む。あれは中々、白眉の出来だ。最期が特に──」
「! ネタバレは駄目ですよ、私はあれから読んでなくて」
ただこれ以上思い上がった主人公を自分と重ねたくないから、読まずにそのまま返却しそうになっていたと正直に彼に告げれば、
「心配は要らぬ、続きを読むと良い。あれは日和と全く異なる」
自信満々な声音で断言されたので、伏羲さんの方を向いてしまい──。しまった、と思う。
彼のじんわりと桃色に染まった頬、髪や肌を伝う雫、煽情的と表現するのが相応しい姿。
見てはいけないものを見た気分……!
伏羲さんは日頃どこか禁欲的な雰囲気だったせいか、余計に艶やかに見えた。
ぱっと顔を背けると、空気だけで彼が笑っているのが分かる。
(……これ以上は逆上せてしまいそう。もう出ようかな)
するとまるで見抜いたかのように、蛇が袖口から体の方に這いずってしまい「うぎゃっ」と変な声が出てしまった。
「もう、駄目だよ。大体あなた、お湯に潜って大丈夫?」
「其れは半水生だ」
「なるほど……って、どこ入ってんの!?」
入浴着の下、水着のカットアウトされた腰のあたりに、おそらく顔を突っ込もうとしている。
引っ張り出したいのに入浴着が邪魔で中々上手くいかなくて……。
仕方ないな、と水着姿になって出来るだけ優しく掴んで離した。
すると、にょろにょろと不満そうに伏羲さんの方に逃げていく。
悪い子だなあと苦笑いをすれば、こちらを見た伏羲さんが絶句していた。
「このお湯、水着で入っちゃ駄目でしたか?」
スマホで中国の温泉文化を調べた限り普通の事のようだから、許可を取っていなかった。
あるいは、やっぱり恥ずかしい恰好なんだろうか……。シヴァさんに見られた経験で、早々に耐性がついてしまっている。
戸惑いながら再び入浴着を羽織ろうとすると、手を掴まれて──。
伏羲さんの顔が怖い、物凄く怖い。
更に聞いた事が無いほど、低い声を絞り出された。
「其の跡は?」
「へっ? ……!? な、なにこれ……!!!」
彼の視線の先、私の腰を捻った所には──多少薄くても不自然な赤い跡。
正面からは見えないから気づかなかった。
そして瞬時に思い出すのは、唇を寄せられた火曜日の夜の事。
あの時感じた軽い痛みって、これだったのか!
血の気が引いた顔で伏羲さんを見れば、犯人を察した事に気づかれて追求される。
「誰だ?」
「虫ですね。夏ですし」
「何曜日の蟲だ?」
「………黙秘します」
それからは、先週を思い出すような命令口調で「言え」と尋問された。
私は後ろめたさからか、同じく先週のように「命令するな」とキレ返す事も出来ず……。
なのに口を割らなかった私を褒めて欲しい。
また神様の世界の空が裂けては良くないだろうと思って、かなり頑張った。
その結果、私はそろそろ上がりたい頃だったというのに、
「消えるまで浸かっておけ」
と言いつけられてしまい、追加で一時間近くお湯の中にいる羽目になったのだった。
◆◆◆◆
ようやく上がって着替え終わると、体が想像以上に軽くなっていて嬉しい。さすが神世!
椅子に座って涼んでいる伏羲さんが小声で、
「矢張りシヴァだろうな……」と独り言を呟いていたのは、聞こえなかった事にしよう。
「伏羲さん、お陰様で楽になりました。先週から心も体もケアして頂いてしまって」
「其方がそうして笑うのが、我の歓びなのだ」
「……ふふっ。あなたが尽くしたいタイプだなんて、ちょっと意外です」
照れ隠しでいたずらっぽく言ってしまえば、何の事は無いように返される。
「男と云う生き物は、好いた女には奉仕する」
「そんなに主語を大きくして構わないんですか?」
「無論だ」
あまりの自信に苦笑いをしながら、同時に両親を頭に浮かべる。
結婚するまで父は母に優しかったらしい。
なぜ変わってしまったのか。
それくらい娘に知る権利を与えてもらおう。
伏羲さんは、立ったまま遠い目をしていた私を自分の膝上に座らせる。
そのスムーズな流れに抵抗するタイミングを失ってしまった。
彼は私の腰を優しく掴んで、そっと囁く。
「日和は必ず、我が倖せにする。──若しも他の男を選んだとしても、其の時は、」
彼は意味ありげに私の太股を撫で上げた。
さすがにそれ以上は駄目ですと言おうとした時、告げられたのは。
「必ず、奪い返す」
──その妖艶な視線と響きに、私は息すら止まってしまった。
もしかして彼は……手負いの小娘の私に、今まで手加減してくれてたんだろうか。
体まで赤くなりそうな私を、彼はさらりと解放する。その手慣れた感じがなんだか悔しくて。無意味かもしれなくても、ツンとした態度で言ってみた。
「ほ、奉仕、してくれるんですよね? では一つくらい教えて下さい」
「……何を?」
「私を大切にしてくれる理由、です」
先週予告した通りにこだわると、彼は愉快そうに笑いながら言った。
「一つ目は面倒な処だ」
「!? え、ええー……。そんなの……嫌すぎます……」
確かに拗らせた性格だけれど、もうちょっと他に無いの? 大体、初めて会った時の《《わたし》》は素直だったじゃないですか。
……いや、結婚しないと意固地だった話は、エンキさんから聞いていたのだっけ。
伏羲さんは更に甘い声で言う。
「我は難しい物に惹かれる性質なのだろう。解き明かす度に、愛着も湧く」
この間、彼は私に「自分と似ている」と言ったはず。
だから「あなたこそ面倒では?」と言い返せば、楽しそうに柔らかく微笑まれるだけだった。




