第71話『木曜日/伏羲 ⑤-1』
翌朝、木曜日。
私は妙に体が怠いことに気づいた。
最近立て続けに色々な所へ出かけたせいかもしれない。火曜日に全力で泳いで日頃使わない筋肉を使った、というのが一番。
あとは……精神的にも、あったか。
夏休みも今日で終わりだし、ゆっくり休みたい。お金はそれなりに貯まったから、秋はマリともっと遊びに行きたいな。
(そうだ、温泉旅行なんてどうだろう)
お土産を選ぶ時に水着のお礼を出来そうだし。
胸を弾ませながら朝食の準備をしていると、予定通り八時にインターフォンが鳴った。
「早安、日和」
「おはようございます、伏羲さん」
珍しいことにゆったりしたTシャツ姿で驚く。
……それはそれで様になり過ぎている。
結局どんな姿をしていても、神様のオーラは消せないらしい。私が魚を焼きながら、
「カジュアルな恰好も似合っています」と素直に褒めれば、
「何処かへ出掛けたいと、其方が云うかと思った故」
と言われてしまい罪悪感が湧く。
いかにも日本の朝食といったメニューを並べていると「特に無いか?」と残念そうに尋ねられ、正直に白状した。
「夏休みも終わりだと思って、連日色々な所に行ってしまいまして。情けない事に少し筋肉痛でもあり……今日はこのまま家でゆっくりしても構いませんか?」
「疲れているのか、構わぬ」
伏羲さんは気を悪くもせず頷いてくれる。
先週も寝不足で心配をかけてしまったし、何だか申し訳ない。
すると彼は箸を進めながら、低く優しい声で小さく言った。
「日和が日々を健やかに過ごせているのなら、其れが一番良い」
「……ありがとうございます。伏羲さんのお陰で、意欲が出て来たと思うんです。好きな物とかしたい事とか、新しく見つけられそう」
微笑みながら彼は応える。
「重畳だ、我も嫌われた甲斐が有ったと云うもの」
「そんな、嫌うなんて有り得ませんよ」と私も食べながら笑う。思えばこの人と会う時は、いつもそれなりに緊張していたはず。
今こうして食卓を囲んでいるのが自然に思えるのが、何とも不思議だった。
温かな気持ちに癒されながら言う。
「そういえば友人と温泉旅行をしたいと思うようになりました。これって進歩じゃありません?」
「ああ、其れは良いな。だが浸かるだけなら直ぐに行けるが?」
……はあ、これだから神様は。フットワークが軽すぎる。
私はわざとらしく溜息をつきながら答えた。
やれやれ、といった感じで。
「私が行きたい温泉は伏羲さんが思っているのと違います。ラグジュアリーなのじゃなくて」
「華美では無いが」
「もっと、こじんまりしていて」
「小さいが」
「……人目につかない、鄙びた所」
「人は居ないが」
えっ、そうなの?
まさか神ならいるっていうんじゃないでしょうね、と確認すれば「一人で入れる」とキッパリ言われた。
動揺している私に、不思議そうな顔で彼は問いかける。
「友人と行くのを邪魔する気は無い。だが既に疲れているのであれば、一先ず浸かれば良いのでは? 軽い古傷なら和らぐ上、沁みもせぬ」
そういえば最近手を切ったり、靴擦れしたり。
痛みはしないけど、傷跡が治りやすくなるのは有難い。
伏羲さんに準備するものはあるかと聞けば、入浴着などは用意されているので特に何も要らないと言われ……。
予想外にバイト前に連れて行ってもらう事となった。
◆◆◆◆
もう驚くことも無い転移の後、やっぱり驚くしかない景色に私は目を見開いてしまう。
険しく聳え立つ山々は雲を貫き、その合間に飛んでいる白い鳥は鶴だろうか。
漂うのは漢方のような、薬草とお茶が入り混じった香り。
青い竹が囲む石造りの浴槽は、確かに数人が入れば満員というくらい小さめではあるけれど、ほんのりと光る翡翠色をしたお湯が満ちていて雅だ。
肌を撫でる心地よい風によって、ここが少なくとも猛暑の日本ではない事は分かった。
「伏羲さん、ここは~……えーと、中国ですよね」
「崑崙だ」
クンルン……コンロンかな。
それって神話に出てくる山ですよね、本当にあったんだ。
しかも脱衣所つきの温泉があるとは。
「本当にリクエストした通りの……いえ、想像以上の場所で感動しました」
ほう、と溜息をつきながらお礼を言えば、伏羲さんは嬉しそう。
そして「見えぬ処に居る故、ゆるりと入れ」と告げた後、竹藪の向こうへ消えて行った。
出掛ける直前にスマホで調べた限りでは、ここに準備されている通り中国では入浴着を纏うものらしい。
着替えた後、柄杓で身体を洗い流してから爪先から探るように入ると──。
「んん……はぁぁ~……」
少しぬるりとした柔らかく程よい温めのお湯に、思わず声が出る。
竹から覗く山峰はどこまでも壮大で、小さな悩み事など吹き飛んでしまいそう。
ワンルームの湯船では絶対に再現できない心地よさに、しばらく身を預けていると──……。
(ん……? 今、動く物がいたよね……?)
目の端に何かを捉えた気がする。
今のは一体? と周囲を見渡せば、そこにいたのは小さな白い蛇だった。
うねうねと様子を伺うようにこちらを見ていて……。
蒼野日和、正直かなり図太い人間なので虫くらいでは悲鳴を上げない。
町中をちょろちょろネズミが走っていても早くお逃げ、くらいにしか思わない。
でも蛇は見慣れないので……!
毒があるかもしれないし!
そっと柄杓にお湯を注ぎ、撃退するために狙いを定める。
するとそれは、想定外の速さで私に向かって来て──!
「う、うわああぁぁぁー!?」
女子らしからぬ可愛くない叫びを上げる私。
途端、伏羲さんが「日和!?」と急に現れて。
驚きのあまりお湯の入った柄杓ごと、彼の顔面に命中させたのは仕方のない事だった。




