第70話『水曜日/エンキ ⑤-2』
ガラスの向こうで踊る泡を目で追いながら、連れ立ってまた仕事部屋に戻った。
私はエンキさんをからかうように言う。
「どの部屋に行っても構わないのでは? もしかして見られたくない所がありました~?」
「そうだなあ、君を想って眠る寝室とか?」
「さすがにそこは……覗きませんよ……」
「あはは、すぐ頬っぺた赤くするよね。日和ちゃんがいないから落ち着かなくて、探しに行っちゃっただけ」
アッサリ言い返されて憮然とする私にエンキさんは満足そうだ。
この人は意外と曲者だった事を思い出す。
彼はキーを鳴らしながら「気にせず話しかけてよ」と微笑むので、少し離れたソファに座って呟く。
「ちょっと思い出したんですけど、アポロンさんが大学に通えるのは《特権》だって言ってたんです。なぜ彼だけ?」
「ん? アイツだけじゃないよ、それぞれが違うものを選んだだけで」
「あれ? 内緒って言ってたからてっきり」
「大学行くのは反則だって揉めてさ、主に伏羲が勉強の邪魔するなってNG出してた。だけど日和ちゃんに手を出しそうな男の対策するって条件つきで許されたの。それバレたくなかったんだろうね」
さらに彼は「君に怒られると思ったんだろうな~、チキンめ」と笑っている。
うーん、アッサリ教えてしまって良かったんですかね?
前に言ってた通りエンキさんは神様に厳しい。
まあ折角なので、他の皆さんは何にしたのか教えて下さいよ、と言えば「いいよ」と応じてくれた。
「途中で決めたヤツの方が多いんだけど、月読は候補者の中から対象を選ぶこと。シヴァは家庭教師のバイト先に申し込むこと。僕は日和ちゃんに呼び出す権限を与えること」
「なるほど。どうやってカイくんを生徒さんにしたのかっていう謎が、ようやく解けました」
私が頷くと、エンキさんは残りの人もスラスラ教えてくれた。
「伏羲はスマホのやり取りを全員に禁止すること。ロキは言い出しっぺなので特権なし。あれ、そういえばオシリスがどうするのかは、まだ本人から言われてないなあ」
へえ? オシリスさんには今度聞いてみよう。
そう思っていると、エンキさんは画面を見ながら話しかけてくる。
「──今になってこういう風に興味を持つなんて。日和ちゃんはさ、そろそろ決めなきゃいけないって思ってる?」
「さすが鋭いですね。……そうなんです、自分が不誠実に思えてきたので。皆さん気のせいか、最近押しが強い気がしますし」
以前のわたしだった頃は、こんな風に思わなかったのに。
会うたび皆さん妙にこう、色っぽい雰囲気にしてくるのでペースが乱されている。
エンキさんは自分にも思い当たる節があるようで「あ~……」と頬を搔いて言った。
「神っていうのは大概自信家なんだよなあ、自分こそ至高っていうかさ。そんなヤツらが七人揃って必死だから、日和ちゃんも大変だよね」
なんとも返事に困ってしまい、勝手にポットからお茶のお代わりをもらう。
ミントティーの爽やかな香りを味わっていると、次第に頭がすっきりするみたい。
「……少なくともロキは違いますけどね」
「はは、あいつ不憫だな。少しは懲りとけ」
「えっ?」
いつもより少し砕けた口調に驚く。
けれどエンキさんはパソコンを操作する手を止めて、ニコニコした圧が強めの笑顔を向けてきた。
「あ、何でもないよ。もう他のヤツの話は止して、妬いちゃうでしょ?」
今、誤魔化されたような……?
とはいえ上手く押し切られてしまい、スルーする事にした。そんな私に満足したのか、エンキさんは話題を戻す。
「さっきの話だけどさ。不誠実だなんて思うのは、誰かに恋する準備が整ったってことじゃないかな。結果がどうなるのかはさておき、僕は嬉しい」
「元々は結婚が嫌だって言ってゴネて、恋愛そのものを諦めてましたからね」
「ふふ、懐かしいね。つい最近のことなのに」
…………本当にそうだと思う。
他者との出逢いというものが、こんなにも短い期間で自分を変えていく。
こちらを見ながらデスクで頬杖をつくエンキさんに、私はわざとらしく髪をかき上げ芝居がかった口調で言った。
「皆さんのお陰で少しは成長したでしょうか。陳腐な表現ですけど、生まれ育った家庭のザラつきが私という原石を磨いたとか?」
一言にすれば大した問題じゃない気がするから、笑ってもらえばいいと思った。
するとエンキさんは、彼のイメージとは程遠い情熱的な瞳と声で私に告げる。
「日和ちゃんは会うたびに綺麗になる。最初はか弱そうで放っておけないって思ってたのに、今は輝くほどに強くて──目を離せない。ずっと、こうしていたい」
「……自分で調子に乗っておいて何ですけど、私を買い被り過ぎでは」
「かわいー。何照れてんの? 僕、愛してるって言わなかったっけ?」
「ちょっと違った気がしますし、愛なんてただの《言葉》なんでしょう?」
私が目を逸らしながら言えば、
「具体的に行動で示せばいいってことだね?」
とふざけた声で手を伸ばされて。それを軽く跳ねのけた私はチクッと言う。
「最近やっぱり、なんだかいやらしいです」
「うん、まあ……元々はこうなんだけど。ほんと初対面のイメージって引きずられるよね、失敗したよ。優しい草食キャラでいくんじゃなかった」
叩かれた手を押さえながら彼はしみじみと言う。私は変なの、と思ってフォローした。
「実際にエンキさんは優しいでしょう?」
「どうかな。君に対して思ってること、もしも覗かれたら……泣かれちゃうかもね」
「な……んで」
最後の言葉が妙に色っぽい声で言われたから、つい詰まってしまった。
「聞きたいの? 男の家で?」
あまりにも意味ありげな視線を向けられた私は、言うしかなかった。
「──これ、セクハラです!」
「最近はほんと厳しいよね……!?」
やっぱり年齢を感じさせる反応だから、悪いと思いながらも大笑いしてしまう。
そんな風に何だかんだで仕事の邪魔をしてしまい、とても楽しい時間を過ごした後、バイトのために自宅へ送り返してもらった。
◆◆◆◆
一人になった部屋で心を落ち着けて考える。エンキさんの言う通り、結局のところ愛とは行動なのかもしれない。
私は母に愛を与えたい。私を愛してくれたから。
母に許しを与えたい。私も許してほしいから。
夜、帰宅した後に母へメッセージを送る。
【土曜の午後から日曜の昼過ぎまでそっちに行くよ。シフト代わってもらった】
【ありがとう、まってるね】
すぐに既読がついた。
一人暮らしを始めた春から、顔を合わせるのは初めて。
母からこれ以上何を聞かされるのか、私が何を言うのか、まるで想定が出来ていないけれど。
神様から強いと言われたんだから、きっと大丈夫。大丈夫だ。




