第69話『水曜日/エンキ ⑤-1』
私があえて能天気な声で「せっかくだからもう一度プールに入ります」と言えば、シヴァさんも何て事のない顔をして離れてくれた。
暗くなった夜空を背にプールに足をつければ、彼も服を脱いで中に入る。
その浅黒く逞しい身体は予想通りタトゥーだらけで、不審者っぽさが増すばかり。
思わず笑って訊いてしまった。
「ふふ、よくそれで職質されませんね」
「……時々される」
バツが悪そうにシヴァさんが言った。
されるのか。日本の警察は頼もしい。
もう泳ぐことはせずに、ちゃぷちゃぷと水に入りながら「夏もそろそろ終わりですね」とか、まったく普通の話をする。
「カイにさ。この間のクッキー渡したら、大事すぎて食べたくないって困ってたぞ」
「何それ、可愛い。私の前だとちょっと意地悪だったのに、素直じゃないなあ」
「気を引きたかったんだろ。何だかんだ今でも、母親の面影を重ねてるみたいなんだよな。お前を家に誘えってうるせーうるせー」
本当に微笑ましい父子だと思う。
どんな風にカイくんが急成長していったかを聞いているうちに、すっかり夜遅くなって帰る時間に。
「エンキが明日は午前九時でもいいかって聞いてたけど、大丈夫か? メシは食っといてくれってさ」
「ん、午前は初めてですね。お昼過ぎからバイトですが問題ないです」
その夜はぐっすりと眠る。
体を思い切り動かすと、心の健康にもいいらしい。夢の中でスイスイと泳ぐ私は、まるで子供のように笑っていた。
◆◆◆◆
翌日、水曜日の午前九時。
朝食を済ませてテレビを見ていると、時間通りにインターフォンが鳴る。
扉を開ければエンキさんはサッと玄関口で頭を下げたので驚いた。
「日和ちゃん、ごめん! どうしても今日忙しくて……」
「ああ、そういうことでしたか。それなら無理せずにまた来週で」
「……僕が、それだと寂しくて。なのでウチで寛いでてくれない? 仕事しながらだけど、話は出来るから」
またしても外国、あるいは神様の世界に行くんだろうか。
マイルは貯まらないけれど、私が夏休みの絵日記をつけているとしたら、きっと豪華になるだろう。
行ってみたいと荷物を持って伝えれば、エンキさんは嬉しそうに水を貯めてくれる。
わくわくしながら霧が晴れるのを待っていると……。
現れたのは悠々と泳ぐ魚や、目に優しく青い珊瑚礁、そして丸みを帯びた白い岩。
巨大なガラス張りの向こうはそんな風で、すっかり水中に見えるのに。
私が立っているのはモダンなインテリアのリビングだった。
「──これはどっち!?」
人間の世界なのか、神様の世界なのか。
曖昧な見た目で頭が混乱する。
エンキさんが「どっちって何?」と言いたげなので説明すれば、眼鏡を押し上げて少し得意げに言われた。
「ここは海底、日和ちゃんの世界のままだよ。外からは誰からも見えないように細工してるだけ。人類っぽくていいでしょう」
「エンキさんの人類観は時々ズレてますね」
目の前を二メートル以上ありそうな魚が通り抜け、ちょっと仰け反ってしまった。
…………まあ、人間っぽい生活感はあるか。
掃除は行き届いているけれど、置いてあるものがコーヒーメーカーとかテレビとか、ゲーム機まである。家具はモノトーンに青系のみが添えられて、趣味の良いものばかり。
カップを二つ持ったエンキさんが「仕事部屋はこっち」と案内してくれるので、失礼しますといいながら入ってみれば、そこは中々興味深いというか。
「疲れたサラリーマンのデスクって、こんな感じでしょうか」
「ご、ごめんね……散らかってて」
大小数えきれないディスプレイが、数字やグラフ、文字を大量に映していてトレーダーのようにも見える。デスクの上にはキーボード以外にも所狭しとビジネス本やら充電器やらファイルが積んであって。
足元の配線は絡み合い、大量のパソコンが起動しているらしい。
なんで神様が人間の機材を使うんですかと突っ込めば「人類が好きだから」とアッサリ言われた。もしかしなくても、眼鏡かけてる理由までそれですか……?
デスクに構えたエンキさんに、
「朝食用にサンドイッチ作っておいたんです」
と言って渡せば、目元を拭って感動される。
本当に喜ばせ甲斐がある人というか、なんというか。彼は食べながら片手でキーを叩き、どこか陶然とした口調で言う。
「ああ~! 日和ちゃんがいれば、やっぱり捗るなあ……!」
「むしろ片手を塞いでしまっただけですが」
「目の端に入るだけで疲れが取れるし」
「そんな観葉植物みたいな」
神様の業務実態なんてそう滅多に観られるものじゃないだろうと期待してたのに、画面の切り替えが早すぎて何をやってるのかイマイチ分からない。
(今のは古い水道管かな。油膜の広がった海、何かの研究室。……モザイクかかったのもある。あ、今度は猫だ。まだ探すサービス続けてるんだ。さすが神様、多岐に渡ってる)
時間が経つほど集中していくようなので、とても声なんて掛けられない。
どの部屋に行っても構わないと言われたから、広い邸宅を楽しませてもらう事にした。
そうしてウロウロと廊下を歩いていると、ガラスの向こうに雪が降っている。
たくさんの水玉模様をした大きな魚が集まった不思議な光景。
思わず足を止めて「きれい」と呟くと、エンキさんが近づいて言った。
「白いのは魚卵だね。ジンベエザメが食べに来てるんだよ」
「……あーあ、幻想的だと思ったのに残酷な話でしたね。……なのに、見とれてしまう」
私が笑いながら髪を耳にかけると、手首のパールと銀の鎖がスルリと動いた。
「日和ちゃん、ブレスレットつけてくれてるんだ。嬉しい」
「はい、すごく気に入ってます。だけど水曜日しか付けられなくて」
不満げに言うと、エンキさんが「みんな何だかんだで嫉妬深いからねえ」と苦笑いして、そのまま二人で水中を見つめる。
「私、月曜日に父と会います。不倫をしていたらしい母にも」
「──……うん、そっか。無理してない?」
「大丈夫です。それに、あの人たちと向き合わなければ……誰かを愛するという事が、分からないままな気がして」
するとエンキさんは静かに言う。
「愛が何なのか考えたことの無い人類は、きっといない。いや、僕たち神も同じかもしれないね。それだけ生けるものが惹かれて止まない概念らしい」
「神様も、ですか。これは難題だ……」
私が顎に手をやりながらわざと考え込む仕草をすると、彼も軽く咳払いをして乗ってくれる。
「だから僕も、絶対の正解を持っている訳ではないんだけど。それでも《知識の神》として君に一つ、授けちゃおうかな~」
これからヒントを言いますよとばかりに指を立てて、軽やかに宣言される。
だから私は「ええ、是非」と遠慮なくねだれば、深い眼差しで彼は語る。
「愛すら、ただの《言葉》だよ。思考するためのツールに囚われない方がいい」
「……もう少し、分かりやすくお願いします」
「概念に当てはめて惑っては、本末転倒だってこと。結局は行動がすべてだと思うんだ」
頭の中で復唱してみても、まだ完璧には自分に沁み込まない。
けれど私は信じている。
この人が私を裏切らないということを。
こちらを見つめて言う彼の姿は、海に降る雪よりも神秘的だった。




