第68話『火曜日/シヴァ ⑤-2』
元の恰好に着替えてソファで丸まっている私を、デスクの椅子に座るシヴァさんが宥めている。
「夏っぽいことしたいんじゃねーの?」
「似合ってたから大丈夫だって」
「ヒヨだって水着の子を見て恥ずかしいって、思わないだろ?」
……そこまでは言わない。だけど正直、下着と変わらないって思ってた。
そしてそれは強権的な父親の考えが乗り移っている気もして、受け入れ難い。
体育座りをしながら横目で彼を見ると、優しい笑顔で「ちょっと待ってな」と言われた。
外に出て行ってしまったと思ったら──十分そこそこで戻って来る。
「他人に見られるのがハードル高いってんならプライベートプールならどうだ? 丁度空いてたらしくて、知り合いに借りたから」
「えっ!? いや、でもそんなわざわざ」
「ただ夜まで待ってほしいって言われた。それでもイイか?」
本当にこの人は甘やかすのが上手い。
駄目だと思っていても、つい寄りかかりそうになってしまう程。
「……ありがとうございます。私はいつも、あなたにワガママ言ってますね」
「オレはそういうの好きだから」
そういえば以前の奥さんは個性的だと言っていた。彼は度量が大きいという事なんだよね。頼もしい、と思ってしまう。
隣に座って来たシヴァさんに体を預けると、ポカポカと温かくて……寝不足気味のせいで眠くなってくる。
「食べたし騒いだので、眠くなりました」
「ふ、お前は子供か。……夜、六時に。また迎えに来るよ」
彼は大きな手で私の頬を撫でた後、扉から帰って行った。
その途端、また昨夜のことが頭を掠めたけれど、ベッドに潜り込み両手で耳を塞いで目を瞑れば──あまり時間がかからずに眠りへ落ちて行く。
◆◆◆◆
夕方に起きてから支度をしている内にインターフォンが鳴った。
シヴァさんを出迎えると「んじゃ行くか」と言って指を組まれて──。
最初に鼻孔を擽ったのは濡れた緑とイランイランの花の香り。
更に薄っすらと線香や煙も感じる。
プールに反射する灯りは、異国情緒あふれるヴィラから漏れていた。
切れ目ない水面の向こうは、どこまでも続く森林だ。
「シヴァさん、ここ日本じゃないですよね。当てますから待って」
「お、おお。なんか転移慣れしてんなー」
私は眉間に指を当てながら考え込む。
ここは、ここは……。そう、ここは。
「…………ウダイプール!」
「!? 都市まで当てようとすんのか!? 悪いけどインドじゃないんだわ」
起きてからちょっと調べたのに。悔しい。
そんな顔が出ていたのであろう私を、面白そうに見つめて彼は言う。
「ここはバリ島──インドネシアだな。オレとも縁があるんでね」
「すごく素敵な場所です、初めて来ました。折角だしカイくんも連れてきたら良かったのに」
「この状況でアイツを……? あるワケないだろ」
今日は呆れられっぱなしだ、重い溜息をつかれてしまった。
まあ確かにカイくんに水着を見られるのは、私も気まずい。
ここぞとばかりに、からかってきそうだし。
とはいえ恥ずかしがってばかりでは連れて来てもらったのに悪いので、私は水着の上に着ていたワンピースを裾からめくってガバッと脱いでしまう。
「もう泳いでいいですか?」
「ああ、好きにしな」
軽く脚や手を動かしてから、わざと大きな音を立てて水に入った。余計な事を考えずに済むよう、ひたすら泳ぐ。久しぶりだったのに体が覚えていて良かった。
朝、スマホを見た時に目の端で捉えた母のメッセージには「会って話したい」とあって、それを振り切りたくて。
しばらく全力で泳いだ後、息を上げながらふらふらと椅子に座ると、タオルを持ってきてくれたシヴァさんが苦笑いをする。
「いきなりガチで泳ぎ続ける女は、珍しい」
「ハァ…ハッ……。水に浸かる、だけなら。家でも……出来るでしょう」
「ハハ、それもそうか。ほら、これ飲みな」
手渡されたのはミントが浮かんでいるライムジュース。お酒じゃなくて安心した、彼に鬱陶しく絡んでしまいそうな気分だったので。
「シヴァさんも同じもの? お酒、飲まなくていいんです?」
「オレは元々あんま呑まない。好きな女と二人でいる時は、特に」
意味深な視線を向けられるでもなく、サラッと言われたので私もあえて無視した。
「泳いで少しスッキリしました。水の事故は怖いのに、それでも水遊びってなぜか楽しい」
「母胎を思い出すからだって言うな。オレの国──インドじゃ特にガンジスの沐浴もあって、水に対する想いが強いし。死と再生。罪と穢れの浄化」
「日本も同じかもしれません。《禊》という言葉があります」
母の昨夜の泣き声。
電話越しでも伝わってくる後悔の想い。
あの人もあの人で、私と同じように自分を責め続けているのだろうか。
「罪って水なんかで消えますか? 罰を受ければ償えるんですかね」
「即答できる問いじゃないな。ただ罪と心から向き合えば、相応の罰を自分で与えたくなるモンかもしれねー」
父に抵抗しなかった母。
あれは自ら罰を課していたのだろうか。
私のように罪に耐えられず、自分を見失うよりはマシに思うべきなのか。
「ヒヨ、まだ前のことで悩んでんのか?」
「ふふ、まさか。痛い女だった恥とはまだ付き合うでしょうが……。同じ事で皆さんを心配させませんよ」
オシリスさんの言葉を思い出す。
《他者という風》から逃げてばかりでは、きっと成長する事など出来ない。
父と会う前に、母に会うべきなのだろう。
割り切れない事ばかりだけれど、頭ではもう分かっている。
今はそれだけで十分だという事にしたい。
──それに私は、家族の事ばかりに囚われ過ぎているのかもしれない。
言ってしまえば自動的に割り当てられた存在。
自らが選んだ人の方が、よほど意味がある可能性すら……。
(プールの向こうに広がる森には……一体何があるんだろう)
暗く見えないその先には、自分の認識よりずっと自由な世界が示されてる気がした。
そんな事を考えていると、隣に座るシヴァさんがまるで甘やかすように尋ねる。
「ちゃんと楽しめてるか?」
「……すごーく楽しいですっ」
「くくっ、そんな遠い目で言うあたりな。ホント男を振り回すのが上手い、イイ事だ」
なぜか腕を組んで満足そうに頷かれるので、私は呆れてしまう。
「この間も思いましたけど、女性の好みがちょっとズレてませんか?」
こんなに男前で筋骨隆々としてるのに、被虐趣味でもあるんだろうかと心配になった。
なのに彼は余裕たっぷりな顔で答える。
「従う女を選ぶ……あるいはそう仕立てる男は、ロクなモンじゃねーと思わねえ?」
「そ、れは──そうかも。……じゃあ飲み物のお代わり注いで下さい~」
わざと子供のようにワガママを言えば、彼は
「それでいい」と笑いながらヴィラへ向かって行く。まるで世話焼きな家族のように。
この人は私がかつて得られなかった物を、一体幾つ与えてくれるのか。
戻って来てグラスを渡し、また私の隣に座る。そんな彼にまた図々しく問う。
「何が決め手で、前の奥さんとご結婚されたんですか?」
彼は珍しく恥ずかしそうな表情をして、一拍考えた後に話してくれた。
「……ん~、厳密には結婚してない。プロポーズはしたんだが『必要なくない? あなた神でしょ、手続き面倒そう』って断られた」
「事実婚でしたか! ふ、ふふふ。その顔……って、笑う所じゃないですよね。奥さん本当に素敵だから、つい」
「もう遠慮なく笑ってくれていいぜ。そういう型に嵌らない所が持ち味の女だったよ」
目元をゆるめて一緒に笑ってくれる。
その優しさと懐の深さに、私は真心を込めてお礼を言う。
「今日はありがとうございました。ううん、今日だけじゃないですね。もうずっと……。私に何が返せるのかな」
──すると風が濃厚な花の香りを運んで。
彼の熱い視線に射抜かれ、心臓が跳ねた。
「返せなんて言わねーよ。……ただ、オレが欲しい物なんて一つだけだな。分かるだろ?」
「それ、は」
「言ってくれ、今は一度でいいから」
顔が赤くなるのが分かる。彼の言っている事が「勝手にキスしない」という約束だと気づいたから。狼狽えていると、右手を取って縋るような瞳で「無理ならいい」と言われて。
「唇……以外なら。……しても」
するとシヴァさんは大きな体で跪いて、私の腰に顔を寄せた。
彼の唇が触れた箇所に軽く疼くような痛みが走り──同時に、夜空で輝きはじめた月を目にして罪悪感が湧く。
その空気を敏感に察知した彼は、責めるでもなく甘い声で言った。
「この状況で他の男のコト、考えんのかよ」
「あっ……ご、ごめ」
「まあいいけど」
含み笑いと共に、彼の指が私の唇に触れて告げられた。
「オレはもう、お前の物だから」
その言葉とは裏腹な強い視線と、蕩けた声。
思わず体が熱く震えてしまう。
たとえ、まだ誰にも恋をしていなくても。
私が母の不貞を責められるのだろうか。
こんな事をいつまでも続けていてはいけない。
両親と区切りをつけた時にこそ、私は選ぶべきだと悟った。




