第66話『月曜日/月読 ⑤-2』
いつものように二人で座って月を見ている。
静かな世界で時折聴こえるのは、しゃらしゃらと遠くで響く心地よい金属の音。
月読が私に問いかけた。
「…………日和は、いつになったら好きになってくれるの?」
「難しいことを訊くんだね。自分だって最初のきっかけが、いつかも何かも分からない、なんて言ってたくせに」
「…………ほんとうに、意地悪になった」
ちょっと拗ねた感じがいつも通りで、私は「ふふん」と笑って彼の頬をつついた。
すると手を取られ真っすぐに目を見て言われる。
「さっきのシャワーもそうだけど、気軽に男を煽らない方がいいよ。……あんまり慣れてないでしょ、加減を分かってないから、危なっかしい」
「な、慣れてないとは失礼な」
図星を指摘されて、うっかり狼狽えてしまった。彼はそんな私に溜息をついて、すっと目を細める。
「もしも日和が他の男に襲われたら、相手が誰であってもソイツを──。だから、おれのためにも、気を付けて」
これは本気だ、と思わせる剣呑な視線に思わず喉がひゅっと鳴る。
ロキが前に「キレ散らかした」と表現してたのは、大袈裟じゃなかったのかもしれない。
素直に「分かった」と返事をした。
そうすると、いつも通りのおっとりとした空気が月読を包む。
昔からずっと私を守ってくれていた人。
そうだ、彼には伝えないといけない事があった。
「来週は0時に来てくれない? 夕方から父親と話すことになって。それ以降は会えないかもしれないから」
「……うん。話す時そばに居て欲しいなら、絶対そうするけど……違うんだよね?」
「そうだね、一人でやりたい。あの男に勝った時こそ、自分を信じられる気がする」
彼は瞳だけで苦笑いしている。
こんなに美しく詩的な世界にいるのに、血の気の多い事を言うから呆れただろうか──と思っていたら、私の頬を指で触って「じゃあ今夜は、日和を甘やかそうかな」なんて言う。
「月読が? どんな事をしてくれるの?」
「…………膝枕? あ、それはおれがしてほしいやつだった」
「はあ、そういう所が可愛いよね」
ついに思わず言ってしまった。
横顔を盗み見ると、きょとんとしている。
癒されるっていうのはこういう事だろうか。
私は嬉しくなって、胡坐をかいていた彼の脚にささっと自分の頭を乗せてしまう。
「お言葉に甘えて、ホントにしてもらおう」
当然動揺したらしく小言を言われる。
「…………さっき注意したのって、こういうところ、なんだけど」
「筋肉って硬いね。でもあったかい。膝枕してもらうの、いつぶりかなあ」
よく考えたら子供時代の事は、何もかもほとんど覚えていない。
記憶は思い出す度に定着するらしいから、大して振り返らなかったのだろう。
それも仕方ない。なんせ良い思い出が少ない。
「月読、子守唄もお願い」
「…………それはあんまりよく知らない、ごめんね」
「ん、いいよ。自分で歌う」
「…………自由だね」
適当に歌っていると、月読が頭を撫でてくれる。非日常の空間だから、私は大胆になっているのかもしれない。
(そういえば小さかったカイくんにも歌ってあげたっけ。あの後……あの後──?)
「…………今の歌詞、風変わり。『異人さんに連れてかれちゃう』なんて」
「…………え?」
途端、酷い頭痛がした。
まだわたしだった頃に、たまに悩まされた苦しみ。
ズキズキと激しい痛みは増していき、歌える訳もなくなって体を丸める。
「日和? どうしたの?」
「何なの、これ。もう終わったんじゃないの」
「──! 顔色、ひどい。熱は……ないよね。ごめん、おれは病気治せない」
私の額に手を当てた彼に、すぐさま抱きかかえられる。
「大丈夫。痛み止めを飲めば、落ち着くはず」
私がそう言った途端、月読が祝詞を読み上げる。
目を閉じてこめかみを押えているうちに、部屋に戻っていたらしい。
薬箱と水を持ってきてもらい薬を飲んだ。
「あんまりひどいなら、聖域に呼ぶ準備する。ちょっと時間かかるけど、アポロンかエンキがいれば──」
「平気。……シヴァさんの家でも、同じ事があったの」
心配そうに月読が見ているので、どうにか笑顔を作ってみた。
「子守唄が原因みたい。さっきのを、ラストコンサートに、しようかな」
「…………さっきの不思議な歌、お母さんに教わったの?」
「ううん、あの人は音痴だったから。歌が上手いのは──い、痛……! う、うう」
「日和!?」
鈍器で殴られたような痛みが続く。
そう、覚えてる。思い出した──!
歌が上手いのは、ベッドに私を運んでいたのは、寝かしつけてくれたのは……。
──あれは母じゃない、男性……父親……?
◆◆◆◆
月読には申し訳ないけれど、電話するから帰ってもいいよと告げた所、「そばにいたい」と言ってくれたので、そのままかけてしまう。
「もしもし、お母さん? いきなり遅くにごめんね、嫌な質問かもしれないんだけど、いいかな?」
「? もちろんよ。どうしたの?」
「私が子供の頃……ち、父親、は。どんな風に、私に接してた?」
「………………………!」
「子守唄とか、歌ってた?」
「────そうね、小学校に上がるまでは……日和はとてもかわいがられてて。あなたも、お父さん大好きって……」
吐き気がした。
その言葉を聞いた途端、幾つも思い出す台詞。
【日和は賢くて美人だ】
【きっと将来は大物になるだろうさ】
【お前は私の宝物だよ】
【並の人間には渡せないね】
幼い時、飽きるほど私を褒めていたのは……男性。父親だ。
「どうして、あんな風に」
「………………それは」
「ま、まあいっか。人格破綻者だもんね、あの男は。理由なんて……無いか。思い出させちゃって、ごめん」
「気にしないで、いいのよ」
あからさまに元気が無い声だ。
古傷を抉るような真似をしてしまったらしい。
「いつも優しい娘じゃなくて、悪いと思ってる。配慮がなくて……本当に近々、帰るからさ。バイト代でエステとか連れてくよ」
「………そんなの、いいよ。むりしないで」
「けっこうお金貯まったんだよ。それくらい、させてよ」
この人は本当に欲が無いんだな。
ふふっと苦笑いをすると、電話の向こうで息を呑む気配がした。
「ち、ちがうの。……う、うう。ごめんなさい、わたしのせい……。わたしの……」
「え? 何が? ──えっと、何でもとりあえず謝る癖は、もうや」
「結婚してから、ひどくされるようになって……。わたし、わたし。あの人の弟さんに……なぐさめて、もらって」
「──────え? ………はぁ?」
今、なんて?
なぐさめるって、どういう意味?
ねえ、慰めるって、そういう意味?
理解を拒絶した本能が理性に負けた途端、スマホを持つ手がブルブルと震えた。
血の気が引いたのか、体が寒くなって来る。
そもそも父に弟がいるなんて初耳だ。
「ちがうの、検査はしたから。まちがいなく日和はあの人の娘。でも……起きたことを、知られてしまって。たぶん疑ってる、ままで。明彦さ……弟さんは、もう、この世にいない」
通話を切ってスマホを壁に投げつけた。
涙も出ない。体の震えだけが止まらない。
声をかけられるまで、月読がいることを忘れていた。
「日和、日和、しっかりして!」
「あ──。だ、大丈夫だよ。何か事態が変わったって訳でもないし」
「………………」
「エンキさんに言われてた。『人間は誰しも罪を犯すし、ハッキリしない。認めたくない個性にこそ、一番大事なものがある』みたいにね。まったく神様って存在は凄いよ。含蓄あるね、お言葉に……」
母の弱々しい性格は、男性が助けたくなるほど愛らしいのだろう。
そうある彼女は当然拒む事が出来ない。
きっとこれはあの人を清らかな存在だと思い込んだ、私の単純さが招いた痛み。
いや、ロキに言われてた。『答えに飛びつくな』って。
ああ、何だかもうよく分からない。
しがみつくように月読を抱きしめると、彼が切なそうに言う。
「大丈夫、大丈夫だから……。0時を過ぎても……ずっといるよ」
小刻みに揺れる体を横抱きにされて、そっとベッドに降ろされ、目を閉じる。
頭はもう痛くない。きっと明日には大丈夫。
月読から漂うほのかな香り。
さっきまでいた月の世界だけを思い浮かべて、深い眠りにつこう。
蘇った父親との美しい思い出を、夢に見ないように。




