第65話『月曜日/月読 ⑤-1』
オシリスさんは濡れたようにしっとりした声で、クローゼットを背にした私を追い詰める。
「日和さんは嫉妬させるのが酷く上手だ。乗せられるべきだろうか?」
「ご、ごめんなさい……。これは本当に、違う……」
「私はこれでいて、独占欲は人並み以上にあるからね」
艶やかな笑顔が怖い上に、見慣れない風貌のせいか心臓が色んな意味でうるさい。
この人が私を──?
先週もそんなことを言っていたけれど本当に?
戸惑っていると、耳元に吐息が感じられるほど近くで囁かれた。
「密室でこんな風に迫られたら、女性は困るだろう? 今後、男を部屋に上げる時は……それなりの覚悟をするように」
私がかつてのような小声で「承知しました」と返事をすれば「よろしい」と微笑まれた後、腕をするりと撫でられて体が跳ねる。
「着替えは要らないよ。もう十分に夜だから、貴女のために還らなければ。……ふふ、愛らしい顔が真っ赤だね」
彼はそう言いながら、子猫にするように私の顎を擽った。
「……来週はいつもの姿で来て下さい。さもないと、エンキさんを呼びます」
彼は愉快そうに「それは困るな。おやすみ、日和さん」と言った後、扉を開けたと同時に風に揺らいで消えて行く。
これが大人の男性の色気という事なのかと、言葉も無い私を残して。
◆◆◆◆
月曜日の昼。夏休み中に働いたビアガーデンのバイトは今日で最後。
夕方、マリの家で打ち上げとして遅めのランチをする。
「選んでもらった浴衣、凄く良かった」と伝えると、とても喜ばれた。
そしてマリは頬杖をつきながら言う。
「アタシも彼氏に褒められたんだけど、可愛い系がスキみたいなんだよねえ。買ったばっかの水着、あんま好みじゃなさそーで失敗した」
「そんなの気にする事ないでしょう。マリは何でも似合うのに」
「ひよりもガチ恋すれば分かるよ、この乙女ゴコロ。……あ、そーだ。まだ着てないからあげよっか?」
そんなの悪いよ、着る予定も無いしと断ったけれど、
「いいからいいから、ワンピースだから着やすいよ」とグイグイ勧められて、黒だし地味目で良いかもと思って頂いてしまう。
買い取ると言っても聞かないし、お返しに何を贈ろうかな。彼女には選び甲斐がある。
夜八時前、マリの恋バナで盛り上がってしまい、帰宅するのがギリギリになった。
慌てて部屋に戻ると時間ピッタリに月読が窓から来て、どうにか間に合った事に安堵する。
「…………日和。一週間、長かった………」
「おかえ──こんばんは、月読」
薄群青の着流しを纏った彼は、私からするともう無表情じゃない。
瞳で気持ちを訴えてくれていて、なんだかむず痒くなる。
「今夜、ようやく満月なんだ。おれが普段いるところ、連れて行ってもいい?」
「! うん、行きたい。でもガッツリ汗かいてるから、シャワー浴びてくる」
「え」
「すぐ終わるから」
近年の夏はもう長いこと酷い。
外から帰ったら大概ぐっしょりしている。
もっと早く帰って身支度を整えるべきだった。
三十分も掛けずに髪も乾かして脱衣所を出ると、ソファに座っている月読が難しい顔をしている。
「…………日和は、他のヤツといる時でも、こういうことしてるの?」
「シャワーのこと? しないよ? ──ってああ、そうでもなかったか」
この間エンキさんと海から帰った後も浴びた事を思い出す。ほとんど不可抗力だったし、潮風ってベタベタするから。
そういえば彼にも窘められていたのだっけ。
しまったな、と思っていると、月読は頬を染めながら不満そうに言う。
「嘘でしょ、もう絶対しないで」
「ドキドキするから?」
「…………分かってて、しちゃうの?」
実はそうでもない、単純に汗臭いと思われるのが耐えられなかっただけで。
ただ、月読の反応を見ていれば分かりやすいから。
性格に問題がある自分が顔を出して、つい意地悪を言ってしまう。
「本当の私は、こういう風にだらしない所があるからね。やっぱり嫌?」
「それも分かってて、聞いちゃうの?」
「恋人が出来たらもうしない」
「……おれは結構、怒るとめんどうだよ」
意外にも彼は動揺せず、口元が笑っている。
(あれ、おかしいな。可愛く膨れた所に謝ろうと思っていたのに)
そう疑問に思っていると、彼に「それじゃ行こっか」と窓辺まで優しく手を引かれた。
月読は祝詞のような古い言葉を紡いで──。
どんどん暗くなる視界が続いた後、ふっと明るくなる。
最初に目に入ったのは──圧倒的な存在感の巨大な満月。まるで自分が小さくなったように感じられる程の。
月の手前にあるのは、銀に彩られた大きな社。
それは光を吸い込むように黒く、月読の綺麗な髪と同じ色をしていた。
「夢、みたい」
鳥居をくぐり、雪のような白砂が形づくる枯山水を脇目に手を引かれ、内部へと入っていく。
ふわりと漂うのはいつも彼から感じていた高貴な香り。名前は伽羅というのだと最近知った。
広々とした入口に控えていた何名かが月読にひれ伏すけれど、目もくれない彼の姿は冷たい威厳に満ちている。それは今までの印象と違う、まさに神様といった風情。
私と一緒に長い廊下を抜けると、薄絹の垂れ下がった間へと通された。
「…………ここが《夜の宮》。日和、気に入ってくれた?」
「月が──こんなに近い。目の前にあるみたい……」
開かれた庭の向こうには、さっき見た満月が目の前いっぱいに佇んでいた。
私を守り続けてくれた光が一面にあるなんて。
こんな所に居られる日が来るなんて。
月から目を離せずに、呆然とした声で私は言う。
「生まれて来て、良かった」
思わず零れた言葉に自分で驚く。
後ろを振り向けば、月読にも予想外の言葉だったらしく僅かに目を見開いていた。
彼は私の髪を掬って、そこに口づける。
「日和が望むなら、ずっといて」
切なそうな声で言われて、頷きたくなった。
人間の私に、それが出来るのかも分からないのに。
月読は私の唇に自分のそれを近づける。
「ねえ、日和。やっぱりキスするの、だめ?」
「……そうだね、駄目。それは──誰かに、決めてから」
人を愛する心。
母のように、神々のように、誰かを慈しむ心。
私のような人間でも、それが芽吹く日はいつか来るのだろう。
そう思いたい──。人類のためではなく、大切に想ってくれる人達のために。




