第64話『日曜日/オシリス ⑤-2』
日曜日の夜九時過ぎ。
私は自宅の脱衣所で部屋着に着替え終わっている。鏡を見れば相変わらず頬が赤い。
なんせ心臓発作じゃないかってくらい、動悸が激しかったから。
(そりゃね、以前のわたしよりは図太いよ? でもアレに耐えられる日本女子はいるの?)
遠い目で私はさっきの出来事を思い出す。
大きくなって現れたオシリスさんは、唖然としている私を軽々と横抱きにして運んだ。
いわく、「小さい姿のままでも抱えられるけれど、色々とバランスが悪いだろう?」との事。
私はほとんど半泣きで「目立つのでどうかやめて下さい」と頼んだというのに……。
彼の口元が軽く歪んでいるのを見て諦める。
言われなくても分かった。
さっき既婚者ネタで意地悪したのを、きっちりと返されたのだ。
このお方は相当手強い、今後からかうのは慎重にやろうと心に刻む。
周囲の人は「お姫様抱っこだ~」……なんて囃す事は一切無く。どこか憧れや畏れに似た視線を彼に向けていて。
転移のために人気の無い所に連れて行って貰えた事だけが救いで、私は恥ずかしさのあまりひたすら彼の胸に顔を埋めてしまい……。
「着いたよ」と言われて目を開くと、そこはもう自室だった。
彼のシャツについた自分の口紅に気づいて、顔を赤くしながら脱衣所に籠っている次第。
すると、オシリスさんが扉の外から声をかけてきた。
「日和さん? 足の手当をしよう?」
「……下駄が痛かっただけなので、絆創膏はっておけば大丈夫です」
仕方なく扉を開ければ、相変わらず大きい姿のまま。
サラサラな青い黒髪はいつもと変わらず、前髪が少し長いショートカット。
瞳の色も、声も、雰囲気も同じ。
それでもまるで別人に見えた。
男らしい喉仏や、僅かに覗く鎖骨に目が行ってしまう。顔立ちには幼さなんて一切残っておらず、匂うような美貌。
この気品と色気が同居している神様は、中学生くらいだったから傍に居ても耐えられたらしい。
「あのですね、元に戻ってくれませんかね? お可愛いらしい、あちらに」
「これは嫌い? 元というのは、今の姿だよ」
言われてみれば、彼の人格にはこちらの方がしっくりくる気はする。
遅くなってしまった夕食を温めながら「ではなぜ日頃は小さい姿に?」と尋ねてみた。
「大昔、弟と拗れたことがあってね。その時に負った傷が完全に癒えていないから、子供時代の姿で力を温存しているんだ」
暗がりではまったく分からなかったものの、明るい室内でよく見れば、確かに腕や首筋からくすんだ色が見える。
切り傷とも少し違う、見たことが無い跡。
普段の彼の肌をあまり見たことは無かったけれど、こうはなっていなかったように思う。
確かに神話を調べた時に、恐ろしい内容を目にしたのを思い出す。
どこまでが本当なのか、訊くのが躊躇われた。
◆◆◆◆
カルパッチョや野菜スープ、パンを並べ、ようやく遅めの食事を始める。
「それにしてもオシリスさんが誰かと揉めるというのが、想像つきません」
「家族というのは愛憎を抱き易いからね。生まれた時から繋がっている、断ち切り難い関係──人類も神も、実際の所はそう変わらない」
「つらい……ですよね? 傷は痛みますか?」
「何千年も前だよ?」
少し首を傾げて、優雅に微笑まれた。
向かい合って見つめれば見つめる程、その所作から本当に彼なのだという実感をする。
安心したのか、私はつい暗い声で話しかけてしまった。
「……オシリスさん、私の話をしても?」
「勿論」
「父が急に訪ねて来たので、久しぶりに母に会いに行ったんです。そうしたら、知らない男性と親密になっている姿を見てしまいました」
一瞬気遣わしそうな表情になった彼から、あえて私は目を逸らしてパンをかじる。
「母に一人暮らしを勧められたんですけど、つまりは……まあ、そういう事なのかなと。私こそ大切にしてこなかったんですから、邪魔に思われても文句の言いようもありませんが」
「そうだと決めるには、まだ早いのでは?」
「ええ、私の悪い癖です。ですがこの疑問を解消する事は出来ません、母を傷つけたくないので」
サラダを出していなかった事に気づき、私は立ち上がった。
そして冷蔵庫に向かってそのまま、捲し立てるようにしゃべってしまう。
「血縁である家族を信じ切れず、自分で選ぶ友人や恋人にも失う不安を感じ、制度で縛る結婚は怖い。皆が孤独だという考えは、まったく正しい気がしていて」
「誰かと繋がることに、価値を見出せない?」
そこまでは思っていない。だけど永遠ではない関係に情熱を注いだ時……それが壊れてしまったら。
それこそ虫のように儚い命の意味が、空しくなる気がして。
ああ、またグズグズと考えてしまっている。
返事を出来ない私に、オシリスさんは穏やかに言う。
「──……他者とは風のようなもの。変化や知らせ、時には逃げ道をもたらし、何かを奪い去ってゆく。同じ場所に留まり続けてくれることも、早々ない」
「…………」
「けれど、それが吹かなければ草木は弱くなる。人を怖れて構わない。ただし一切から逃げるのは、私は勧めないかな」
こういう答えを望んでいたのかもしれない。
すべてから逃げても構わないと言われたら、ひと時は心が休まるだろう。
でも、最後まで寄り添ってくれる言葉には思えないから。
今はまだ、その正論を飲み込み切れなくても……。問えば必ず、そっと導いてくれる彼に感謝を込めて、両手を握りしめながら言う。
「先生、いつもありがとうございます」
「……その呼び方は、距離を置かれているように感じてしまう」
冷蔵庫に向かったままお礼をした私に、彼は苦笑いをしたらしい。
気を取り直してから振り向き、サラダを持ってテーブルに向かう。
そして足の痛みのせいで、思いっきり転んで……。
「あっ!!!」
「ふふ。日和さんは、貴女自身が思っているより、うっかりしているようだ」
ドレッシング付きの野菜をオシリスさんに撒き散らしていた。
ただでさえ服を口紅で汚してしまったのに、重ねて迷惑をかけるとは……。
すみません着替えを持ってきますから、と慌ててクローゼットを開ける。
だけど大柄な彼に合いそうなのは、ロキのゆるゆるTシャツか、返却されたヨレヨレ部屋着しかない。
何てこと、いつもの小さい姿なら私の服でピッタリだったのに。
ん? そうだ縮んでもらえばいいじゃないかと思いつくと、後ろから声をかけられる。
「そこの服、ロキとアポロンの気配がするね」
「諸事情ありまして。……あの、何だかちょっと」
振り向いて気づく。
微笑みを絶やさない彼が、いつにも増して笑顔に見えるのに──圧が強い気がする。
これは、何か良くないような。
誤解されているような。
ゴクリと喉を鳴らすと、彼はやっぱりよく見る仕草。首を傾げて尋ねられた。
「ここでは頻繁に脱ぐようなことが起きるのかな?」
違います、と完全に竦みあがって答える。
あと正確に言うと、脱ぐというより脱がせました。って言っても、ただの着替えだったのに……! 助けてマリ!




