第62話『土曜日/ロキ ⑤-2』
ロキが「パッと飛べばすぐだぜ?」と言うのを「手土産とか買いたいし」と往生際の悪い言い訳で止めて、電車で向かった。
在来線で一時間ちょっとの距離。
隣り合って座っていると、乗って来る女性のほとんどが彼をコソコソと盗み見ている。
(皆さん、この男は一見イケメンかもしれません……ですがスマホで見てるの、成人向けのそういう漫画です)
こんな場所で閲覧するなんて、誰かにセクハラだと指摘されないだろうか。
思わずちょっと、と小声で話しかける。
「ん~…? 構ってほしいのか?」
「女の人が見てるんだから、もっと他にあるでしょ」
「カレカノアピールしろってこと?」
「違うって分かってる質問しないで、予定調和な会話は面倒。そうじゃなくてさ、見てるやつ……ちょっとアレじゃん」
ロキはようやくこちらを見る。
朝の光にピアスがきらきらと光って、悔しいことに「綺麗だな」と思ってしまった。
とはいえそんな事はバレる訳もなく、彼はぐだっとした座り方になって煩わしそうに訊き返す。
「……アレって何? 指示語じゃ分かんねえ、老人か」
「だから、その……。エッチなやつでしょ、迷惑だよ」
尻すぼみでゴニョゴニョ言うと、実に愉快そうに顔を歪められた。
やっぱり無視するべきだったか。
ニヤニヤと嬉しそうに絡んでくる男だと理解してたのに、私はなぜこんな事を……!
「生意気になった割に、ソッチ路線は相変わらずダメなのな~?」
「……自分だって指示語使ってる」
「セッ」
「やめろっ!」
出来る限りの怖い顔でその色違いの瞳を睨みつければ、お腹を抱えて笑っている。
悪友というのは、こういう存在なんだろうか。
お陰様で小難しいことを考えずに、目的の駅に着いた。
──何だか無性に蝉の鳴き声が騒がしく聴こえる。
ジジジジ、ミンミン。
ジジジジ、ミンミン。
ジジジジ、ミンミン。
まるで私に抗議するみたいに。
おかしな思い込みを頭から追いやって、記憶を辿りながら母の実家へ向かう。
小さい頃に何度か行ったきりだけれど、道は覚えている。
貧しかったから造りも質素で、今では誰も使っておらず母が一人で住む事になった場所。
ロキに概ねそんな説明しながら「この角を曲がった所」と示した先で──。
隣の彼は興味なさげに言う。
「おー、やるねえ」
玄関先で母が、見知らぬ男性と深い、深い、キスをしていた。
(………………………!)
外は熱いままなのに、指先だけが冷たくなる。
いきなり喉の渇きを覚える。
これはどういう感情なんだろう。
母が愛する人を見つけた事は、間違いなく喜ばしい。
娘より大事な人を見つけた事が、寂しいと思う資格も無い。
喉の奥が詰まるのは、ただ驚いただけで……。
「ロキ、自分の家に帰りたい」
蝉のけたたましい声が響く中、私が普段と変わらない声で伝えれば、彼は何も言わずに指を鳴らしてくれた。
◆◆◆◆
時刻は十時前。
またどこかへ出かけるには、残り時間がそう無かった。せっかく焼き菓子があるし、紅茶でも淹れようかと思ってお湯を沸かしながらロキに話しかける。
「既読つかなかった理由が分かって安心した。連れて行ってくれてありがとう」
「………いーえ?」
「あの人、信じられないくらい綺麗でしょう。私よりずっと。……まだ四十にもなってないし、よく私と姉妹に間違えられる」
「まあ確かに男好きはするタイプだろうな。あれじゃ周りが放っておかねー」
「父親のモラハラは、嫉妬もかなり含まれてたみたいだからね」
かちゃかちゃとカップを用意していると、うっかり割ってしまった。
右手を切って血が止まらない。
傍に来たロキが「何やってんだよ」と呆れたような声で言いながら、薬箱から消毒と絆創膏を出して手当してくれる。
「動揺してんだろ? 素直にイヤだったとか言えよ。親のああいうシーンは、人類なら嫌なもんだろうし」
「私に限っては嬉しいと思うべきなんだよ。何だろうね、自分だって実家に帰らないで、色んな男の人と毎日会ってるくせに」
「クク……。そりゃそーだ、七人同時進行って中々だぜ?」
「それはあなたのせいだけど?」
やっぱりロキは手先がとても器用。
絆創膏じゃサイズが足りなかったらしく、ガーゼを当てて包帯を巻いてくれた仕上がりが、お手本のように綺麗だった。
私はやたらと動く足の指を見つめながら、漠然とした心境を吐露する。
「ねえ、この気持ちって……一人ぼっちになっちゃった、っていう寂しさなのかな」
甘やかしてくれるとは思ってなかったけれど、予想通りロキは淡々とした口調で言う。
「己が知るかよ。大体、神だろうが人だろうが、詰まる所は全員孤独だ。それを認められねえヤツが、大切な誰かってモノを仕立てるんじゃねーの?」
「……家族とか、友人とか、恋人とか。そういうのは気休めや錯覚ってこと?」
それではあまりにも空しい。
でも納得がいく気もする。
むしろそう考えた方が、心が楽になる気さえ。
するとロキはさらに淡々と言う。
「『この世に真実なんてねえ。あるのは解釈だけ』──お前ら人類の言葉だろ」
「なんだっけ、パスカル? ニーチェ?」
「忘れたけど俺の好きな言葉。お前はすぐ答えに飛びつこうとするよな、悪いクセ。もっと気楽に生きてろよ、外でうるせーセミみたいに、どうせ短い人生なんだから」
言わんとすることは分かる。
なのにさっきの光景が瞼に焼き付いて消えないせいで。
……このまま一人になりたくない。
この苦しさを上書きするくらいの衝撃を、被せて欲しい。
だから私はあえて艶っぽい声を出す。
「──そうだね、あなたたち神から見れば、虫みたいに人はすぐ死ぬ」
ロキのピアスがついた唇をゆっくりと指でなぞる。怪訝そうな顔で見つめられたので、出来るだけ可愛く微笑んだ。
「さっきみたいなキス、私にもして? 前みたいにピュアじゃないから」
「…………はぁ?」
「人目も気にならないくらい、イイものなのかなって。興味が湧いたの。いきなり死ぬ前に体験してみたいじゃない?」
途端、ベッドまで腕を引かれて放り投げられる。怪我をした右手が痛んで、ほっとする。
ロキは覆い被さって来て、一切の表情が抜け落ちたような顔をした。
「あれはな、その先の行為のためにするもんだ。後悔したくなけりゃ二度と馬鹿なこと言うんじゃねーぞ」
「……………」
「返事」
「…………了解」
──よりによってロキに真剣な声で叱られてしまった。
確かにどうかしていた。反省せざるを得ない。
これが魔が差す……という事なんだろうか。
無様すぎて涙が出てきてしまって、余計にみっともない。
私と逆方向に寝転んだロキが、鬱陶しそうに言う。
「昼寝でもしろ。眠るまで傍に居るから」
「優しくしてくれるの、初めてだね」
「ガキすぎて引いてるだけだわ。……オイ、鼻水つけんなよ」
彼の背中に顔を埋めて、言葉を頭に詰め込まないようにする。
母のあの姿……初めて生まれた感情。
今はまだ名前をつけないでおこう。
すん、と鼻を鳴らすと僅かにウッディな香りがして思い出した。
「そういえば、この服アポロンさんのじゃん」
「そうだったな。……こんなコスプレまでして、己も何やってんだか」
最後に聴こえたのは、なんだか穏やかな声。
次第に私は意識が遠のいていった。




