第58話『木曜日/伏羲 ④-2』
黙って横になっていると以前この空間であったことを思い出す。
好む物、嫌う物、行きたい所、やりたい事。
それらを伏羲さんに尋ねられて頭が痛くなったものだけれど、果たして今はどうだろうか。
寝返りばかり打っているから眠っていないのがバレたのだろう。
彼に低く静かな声で訊かれる。
「日和は書を好むのか?」
「はい、まあ、たぶんそうです。読書量はそれなりでしょうね」
「……随分と曖昧だ」
「父が珍しくあまり文句を言わない行為だったので、習慣化しやすかったのかもしれません」
今でも読む物を「部屋の書棚に並べても大丈夫か」という観点で選ぶのは、あの男に縛られ続けているのだろうか。
恋愛小説やライトノベルの類は禁止されていたようなものだった。
「父が憎いか?」
「そういった感情を超越しているかもしれません。もはや醜いものの象徴でした」
「……でした?」
──失言だった。
急にあの男に会いに来られて、またしても現実味を帯びてしまったせいだ。
目の前の人には「過去形なんて意味ないですよ。日本語は時制が適当な言語じゃないですか」と誤魔化したかったけれど。
「何か変化があったのか?」
あまりに真剣な口調の伏羲さんに嘘をつくことは憚られた。
「先週、皆さんに再会する直前……。父が私の部屋を訪れたんです、住所を教えてもいないのに」
「そうか。其れで能く眠れていないのか?」
「ほんの少し、ですけどね。疲れがそこまで顔に出ているとは思いませんでした」
お互いの言葉はそこで途切れた。
彼は思慮深い人だから慎重になってくれているのだろう。
どれくらい時間が経ったのか、カーテンの向こうの明るさが変わることは無い。
胸に迫るほど静かな空間が居る者の思考を深くし過ぎる。休めと言われたのに癒しとは程遠い、伏羲さんらしい場所。
「今の日和は我に似ている。言葉で考え過ぎる嫌いが有る様だ」
「……ふふ。あなたと? そんな風に思った事はありませんでした」
「故に能く理解るのだ、紙や文字が頭を覆い尽くすような感覚が」
体が小刻みに揺れた。……なぜそれを。
ぱらぱらとめくる音。
そこから飛び出すのは、かつて私の心を切り刻んだ言葉たち。
【あんな程度の低い友人は切り捨てろ】
【駄作を有難がるのは知能が低いからだ】
【そんな夢、叶うと思うのか? お前如きで】
【日和は弱いわたしをきらいみたい】
【やさしいあの子のじゃまをしたくない】
新聞のツギハギのような文字が私を責める重圧。思わず私は頭を振り、伏羲さんの話す方向から目を背けた。
「解放する方法は有る。──感情を爆発させるのだ。頭ではなく、心で」
「私なりに、やっているつもりです」
「そうは思えぬ。父への憎しみ、母への詫び、己への叱咤、何でも良い。全てを声にして吐き出してしまえ。頭の中に溜め込んでいては、無限に苦しい儘だ」
「……え? ……まさかここで、ですか?」
「そうだ」
そんな恥ずかしいことは出来ない。
彼の顔こそ仕切られて見えないけれど、きっとこちらを見つめているのだろう。
……正直、不愉快な気分になった。
「嫌ですよ。そこまで参ってはいません」
「やらぬなら、還さぬ」
「!? ──横暴すぎます。効果があるとも限らない。いいえ、その前に意味があるとは思えない」
「試せ」
「………………」
七人の中でも一番権威を感じさせる人だとは思っていたけれど。
こうも不躾なのはまったく初めてで動揺する。
口を閉ざしてしまった私に、伏羲さんは更に言った。
「やって見せよ。必ず、背負う荷が減る」
「嫌です」
「やれ」
「しつこいです」
「それでは駄目だ」
もう止めてほしい。
どうしてこんな。
「日和、やれ」
「───ッ! 私に命令しないで!!!」
父に似た響きの言葉。
頭の中で何かが切れる音がした。
命令、否定。強権的な男。
かつて強制され、否定され続けた数えきれない記憶が押し寄せて、手がブルブルと震える。
それなのに、駄目押しのように、また。
「言え」
「……………………!!!」
決壊したかのようだった。私の何かが。
「…………あのねえ!? 好きなものも! 嫌いなものも! したい事も! 欲しい物も! 何もかも、あなたが取り上げたんじゃない!」
「人の愛し方なんて、分からない! 罵倒の仕方しか教わらなかった!」
「どうして、どうして私は生まれたの……お母さんにあんな想いを……こんなに出来損ないの娘なのに……」
矢継ぎ早に言葉を吐いて止まらない。
涙も鼻水も出て、酷い頭痛がしてきた。
その苦しさで我に返る。
「あ……わ、私、ご、ごめんなさい……!」
「──続けると良い。誰も見てはおらぬ」
それは今までの伏羲さんの中で、一番柔らかい声だった。いつもどこか硬質で威厳があったのに。
私は──、どれくらい、そうしていたのか。
謝ったり、怒ったり、憐れんだり。
愚痴とも言えない汚い感情を……静寂の中、真っ白なシーツの上にぶつけ続けた。
◆◆◆◆
ぐすっ、ぐすっ、と私の鼻を鳴らす音だけ聴こえる。
不細工になっているはずの顔を晒したくはないけれど、さすがにティッシュが無いと限界。
嫌々ながらカーテンを開ければ……紙を差し出す伏羲さんが、やっぱりこちらを見てしまった。私は思い切り鼻をかみながらブツブツと文句を言う。
「……ご自分だけ無暗に綺麗な顔のままで、腹立たしいです」
「日和の方が美しい」
「そういうの、いいですから。夕方からバイトなのに、目元……もとに戻るかな」
瞼に触れれば明らかに厚ぼったくなっている。シーツから出てベッドに腰かけると伏羲さんが隣に座った。
私は恨めし気な声で責める。
「ここまでの醜態、ロキにすら見せたことないですよ。最悪です」
「どの様な姿も我には隠さなくて良い」
私を散々泣かせたくせに、慈愛に満ちた声でそんなことを言う。
……いや、本当はもう分かってる、彼は憎まれ役を買って出てくれたのだと。
それでも私は口を尖らせながら尋ねた。
「私は一度人類の未来を放り出した上に、頭のイカれてた女でしょう。どうしてここまで大切にしてくれるんですか?」
これは純粋な疑問だった。
世界が滅亡するとか言われたけれど、彼らには私を愛する義務など無いのに。
すると伏羲さんは私をじっと見つめる。
まるで血のように赤い瞳。癖のある髪。
一切が完成された風格のある容姿。
どこかで見覚えがあると思った。
(……ああ、この人は──。あの飾られた赤い花のよう……)
思わず見とれていると、ようやく彼がしゃべった。
「忘れたか? ──誓っただろう。日和の傷が癒えるまで、我が守って傍に居ると」
「あ……」
忘れていた訳ではない、無効だと思っていた遠い言葉。
またしても、じわりと涙が出そうになる。
「今一度、誓い直す。傷が癒えた後も、変わらず守ると」
伏羲さんは私の唇に顔を寄せたけれど、すぐに離れて──目元を拭ってくれる。
途端、赤い芍薬が濃密に香った。




