第57話『木曜日/伏羲 ④-1』
まるでこの世に二人しかいないような、真っ暗で静かな世界。ふと喉が渇いたな、と思った頃にエンキさんがどこからか出したグラスに、空中から水を注いでくれた。
「気づくのが遅れてごめんね」
「いえ、ありがとうございます。……さすが神様」
「水辺なら色んなことが出来るんだよ。海水を淡水にするくらいは簡単」
便利でいいなと思いながら飲むと、暗すぎるせいでうっかり零してしまう。
すみません、と謝ると「もう帰ろうか」と言われて頷いた。
彼がまた何か呟いている後に目を開けば──そこは元いた明るい洗面所。
眩しさに目をくらませていると、エンキさんも眼鏡の上から目を覆っている。
「電気つけっぱなしでしたね」
「そうじゃなくて! 早く着替えて……!」
鏡を見ると、白いTシャツが濡れて下着が完全に透けていた。
《水の神様》なんだから乾かすの出来ませんかと訊けば、「見ないと失敗しそうで怖い」らしい。
仕方ないから脱衣所に入る。
潮風と汗でベタついていたので軽くシャワーを浴びてから戻ると、既に彼の姿は無い。
代わりに置かれたメモに書かれていたのは、こうだった。
────────────────────
いいかい、日和ちゃん。
部屋に男がいる時に気安くシャワーを浴びたらいけない。
さすがにこれは詳しく説明しなくても分かるよね!?
僕は理性と戦うために精神を集中させて、
さっき見つけたものでこれを作りました。
どうか贈らせて。
────────────────────
そこに添えられたのは歪んだパール。
柔らかく光る、吸い込まれるような奥深い白。
銀色の繊細な鎖に繋がれていて、ブレスレットのようだった。
(ありがとうございます、大切にします)
飾り気のないデザインは一目で気に入ってしまう程だ。思い上がりかもしれないけれど、真ん丸ではない形が今の私を表しているように思えて……。
これを素敵だと思えた自分に、少し慰められた気がした。
◆◆◆◆
翌日。木曜日は夕方から夜までカフェのシフトに入っている。
そのため伏羲さんと会うのは朝の方が有難いと思い、眠い目をこすりながらも久しぶりに空間紙を開いた。
居ることに気付いてはくれるだろう。
でも彼がすぐに現れるかは分からなかったので、図書館で借りた文庫本を持ち込む。
変わらない静かな世界。
白ばかりの幽玄に、しみじみとした気持ちになる。
私の足はあの部屋に向かって自然と歩き出すけれど辿り着いても彼はいない。
しばらくの間、読書に勤しもう。
選んだのはイギリスの著名なミステリー作家が、わざわざ別名義で発表した古い作品。
題名が洒落ていたので手に取った。
何の音もしない部屋の中、ページをめくっているうち……ちょっとした偶然に胸が苦しくなってきた。
この主人公──見覚えがある。
吸い込まれるように物語に没頭していると、声をかけられた。
「日和。……また、泣いているのか」
「伏羲さん、おはようございます。らしくもなくキャラクターに感情移入してしまいました」
伏羲さんが流麗な顔を心配そうに顰めていたので、私は手にしていた本を軽く上げて何て事は無いのだと伝える。
二百ページ弱まで進んでいるから二時間は読んでいたのか。脚を組んだまま集中していたせいで、腰が少し痛い。
「随分と待たせて仕舞ったか。日和が入った事には気付いていたのだが、勉学の邪魔になるかと思い……時間を空け過ぎた様だ」
「時間のお約束をしていませんでしたから。今日は夕方から夜までバイトがあるので、このままお時間を頂けますか?」
「勿論だ」
そう言いながらも、お互い向かい合って椅子に座ったまま次の話を探せない。
彼は自分からあまり話題を振るタイプでは無かったように思う。
今まで私は何をしゃべっていただろうか。
言い淀んでいると、彼の方から口を開いた。
「其の本、悲しい内容だったのか?」
「まだ半分しか読んでいませんが、おそらくはそうでしょう。主人公の主婦がいわゆる《信用ならない語り手》のようですね。彼女の視点は欺瞞に満ちている、その独白は事実と違うはず」
それがなぜ涙に繋がるのか。
伏羲さんは問わないけれど、真っすぐな赤い瞳がそう尋ねているのは明白だった。
「……自分と似ていると思ってしまったんです。日本で流行した《自認》なんとかっていう、キャラクターに自分との些細な共通点を見出して投影する行為──。やってみると興味深いですね、刺さってしまった」
作り笑いを浮かべても、伏羲さんは表情を変えずに硬いままだ。
安心させるために私は更に言う。
「主人公は自分だけを褒め称えて、周りはみんな馬鹿だと思ってるんです。家族の心を理解しようともせず、決めつけばかりを描写していて。そういう所が私と似てるなって」
彼の眉が少しだけ苦し気に顰められてしまい、慌てて言い訳をする。
「自分を憐れんでいる訳ではないんです、ただ、」
「──其方の手紙を受け取ってから我は考えた。何かに苦しむ姿を見ていながら、何故気付けなかったのかと」
「あはは。いかに神様であっても、そう簡単には分かりませんよ、あんなこと」
「笑わずとも良い」
「………………」
強く、それでいて悲しい声で言われた。
私はそんなに痛々しいのだろうか。
「涙を流した事にも、そうまで言葉を尽くさずとも良い」
「理由を訊いたのは伏羲さんですよ」
つい反発してしまうと小さな溜息をつかれた。
(生意気を言ってしまって申し訳ないです。今までと違いすぎて、やっぱり戸惑わせてるのかも)
ぼんやり思っていると、伏羲さんは机に置いてある紙に何かを書き込みだした。
そういえば赤い花が芳しい。
牡丹はあまり香らないと聞いた事があるのに。
飾ってあるのは芍薬かもしれないな、と気づく頃。
部屋の中にじわじわと何かが浮かび上がって来る。これは──。
「ベッド、ですか。ええ……?」
「下心では無い、少し横になって休め。疲れた顔をしている」
起きたばかりですけど、と言っても「我は近づかぬから」と言って聞いてくれない。
渋々といった形で天蓋つきの中華風ベッドに滑り込む。すると体がギシリと軋んだ。
本人が思っていたよりもずっと、くたびれていたらしい。
伏羲さんの方が正しかったと認めるのが、ほんの少し癪で。
子供っぽいと分かっていながらも飾られたカーテンをあえて引いて、お互いの視線を遮る。
ふわりと甘く華やかに香る花が、私を眠りに誘ってくれるだろうか。




