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第56話『水曜日/エンキ ④-2』

 じりじりとまだ強い太陽を避けるため持ってきたシャツを羽織る。どうやったのかは謎なものの本当に周囲が涼しくなって、ほんの少し汗ばむ程度になっていた。


「ここって泳いでも大丈夫でしょうか?」


「その恰好のまま入る気? 僕が色々と大変でしょう? ……水温がぬるいお風呂くらいだから、やめた方がいいと思うな」


「じゃあ後でもいいから足くらいは()けたいです」


我儘を言えば「分かったよ」と微笑まれた。

人間の世界のはずなのに、どこか神秘的で優しさを感じる風景。

波の音はとぷ、とぷ、と静かで自分の呼吸の方が耳に響くくらいだ。


「思っていた海とは結構違いますけど、心が落ち着く……私、ここが好きみたいです」


正直な感想を口にすると、隣に座るエンキさんは正面の景色を見つめながら言った。


「ここは川の水……ティグリスとユーフラテスの淡水が混ざり合う場所なんだ」


「ああ、それで曖昧な雰囲気になっているんですね」


何もかもを受け入れてくれそうな(ふところ)の広い海。エンキさんによく似ているのは、やっぱり故郷だからか。


彼はさっき私に謝ってくれたけれど、あんな事で嫌える訳も無いのに。

三か月の間、どうしようもなく暗い気持ちになると思い浮かべるのは、いつもこの人だった。


自分を削ってでも人類を助ける世話焼きで。

ユーモアがあって、リアクションが大きくて。

彼の笑顔を思い出せば、ほんの少し明るい気持ちになっていた。


そんなエンキさんは私の方を見て言う。


「あのさ、さっき君に恋してたって言ったけど……。僕は前の日和ちゃんだけを好ましいと思ってるわけじゃない」


どう応えるべきか分からず、私は海から目を離さないまま「そうですか」と生返事をする。

彼はどこか必死な様子で唇に手をやったり、髪をかき上げたりしながら言葉を重ねていく。


「君はあの子を別人格かのように思ってるんだね。でも、そうじゃないって僕は知ってる。──初めて二人で会った日に、怒って、泣いて……。それって、この間の日和ちゃんと変わらないでしょう」


「……………………」


「お母さんがどんな人かは知らないよ。でも、君の思う通りの人だとしたら、ああはならないんじゃない?」


「想定外のシチュエーションだったので、母らしい振る舞いの判断を(あやま)ったんでしょうね」


さらりと言い返すと、彼は「手強いなあ」と苦笑い。

熱い風に吹かれて、彼の少し短い銀髪が夕陽のオレンジに染まる──。

一瞬だけ、その色も似合うなと思った。


◆◆◆◆


 真っ暗になる前に海に入りたいと言えばエンキさんは困ったような顔で笑って、


「はいはい、お姫様」


と言いながら、不思議な力でふわりと崖下に降ろしてくれた。


海に足を(ひた)せば本当にぬるい。

蹴り上げてわざとエンキさんに水をかけると、どういう訳か彼は一切濡れず。

弾かれるように少しだけ私に返って来た。

口を尖らせると、ちょっと勝ち誇った顔で言われる。


「言ったでしょ、《水の神》でもあるって」


大人気(おとなげ)ない。……おじいちゃんのくせに」


私があえて意地悪な声で言えば、

「今のは効いたよ!?」とさめざめ泣かれる。


時々忘れてしまうけれど(うるわ)しいという言葉の似合う姿。長い睫毛(まつげ)を揺らす彼の表情は、いつだって綺麗だ。


そうしている内、(ゆる)やかに時間をかけて太陽が沈み終わる。波がほとんど揺れないためか黒一色となる水面(みなも)

どこからが海なのかすらも分からなくなり、あらゆる境界線が溶け合うよう。


そのせいか自分は今、どこに立っているんだろうと急に不安になった。

私はふらふらと砂地に座って、独り言のように呟く。


「私、公務員になる夢もまやかしでした。家庭教師のバイトも辞めちゃって……どんな職業なら向いてるんだろ」


「そうだねえ。やってみないと適正なんて分からないらしいよ」


エンキさんが珍しく伝聞調なのは、神様といえど就職したことは無いせいか。

少し愉快な気持ちになって、


「神公認の罪人な私は、エントリーシートに犯罪歴を書くべきですかね」


なんて笑うと、切なそうな声で言われる。


「そんな風に言わないの……。そもそも大小こそあれ、罪を犯さない人間なんていない。だから、」


「自分を許せと? いずれそうしたいですが、まだ早いでしょう」


「そうじゃない、そうじゃないよ」


彼を大切に想っているはずなのに。

こんな風に悲しい声をさせたい訳じゃないのに、私はいつもこうだ。


「君は自身に欠陥があるかのように言うよね」


「あるでしょ。私は母を、あの男の元に置いたまま独立する気でした」


あの日記にあった「日和はきっとお金のない母おやをすてられなかった」という一文。

父のグロテスクな所業のくだりではなく、ここを読んで私はトイレに駆け込んだ。

ふと気付けば砂を握りしめていたらしく、手の中が少し痛い。


「僕は……この世に生きるものすべて、長所も短所も無いと思ってる」


「──どういう意味です?」


「今の日和ちゃんは、とても気が強いね。だから頼もしいし、怖くもある。賢いから魅力的だけど、(ずる)さも感じる。良い面だけの個性なんて、無いよ」


小狡(こずる)いのバレちゃいましたか」


ふふっと笑えば、


「妙に色っぽいからね。まだ二十歳(はたち)なのに……末恐ろしい」


大袈裟に呆れるエンキさんは体ごと私の方に向き直った。


「人間はこの海みたいに曖昧で分けられない。そして自身が認めたくない個性にこそ、一番大事なものがあるはずなんだ。否定ばかりしないで……お母さんを演じるくらい壊れた日和ちゃんの何かを、愛してあげてよ」


「そんな無茶な」


バッサリと切り捨てるしかなかった。

そして自分の脚を引っかきながら、ちょっとせせら笑う声で言ってしまう。


「エンキさんは《知識の神様》なのに、説得がまあまあ下手ですね?」


辛辣(しんらつ)ぅ……。まあ、まだ出来ないって言うなら、それでもいいよ」


意外にもアッサリと引き下がってくれたので、その瞳をまじまじと見つめる。

星灯りだけだから、いつもの澄んだ水色はハッキリとは見えない。

彼は私の長い髪を手に取って口づけた。

そして目を逸らさずに言う。


「僕が愛するから」


「な、にを…言ってるんです?」


どうしてそうなるのか。

頭がいつものように巡らない。

私の声は、みっともなく(かす)れる。

なのに彼は、変わらず分からないことを言う。


「君が受け入れられない君を、僕が愛する。恋してた、って過去形にしてたのは、そういうつもりだったんだ」


彼の少し高い声が、静かな海にハッキリと広がる。何もかもが入り混じる景色の中で、ここだけが鮮明に思える程に。


「恋は……未知に対して(いだ)くもの。今はもう、日和ちゃんのことを分かってきたつもりだから。愛しいと、思っているから」


「私──まだ、その恋すら出来ていないのに。……どうすればいいのか」


「今は傍にいさせてくれたらいいよ。たとえ人類が滅亡したって、ずっと待ってる」


そんな風に言ってくれたくせに、エンキさんは私を強く引き寄せた。

自分とは全然違う、筋肉の厚みと骨の硬さばかり感じさせる彼の身体。


本当に私は狡い。

恋すら出来ていないなんて半分は言い訳だ。

こんなにも優しい神々に惹かれない、そんなことが──。ある(はず)も無いのに。

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