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第55話『水曜日/エンキ ④-1』

 シヴァさんはあれ以上、何も詮索(せんさく)しないでくれた。

そのお礼という訳ではないけれど一つだけ伝えておかなければならないと気付く。


「ご指摘の通り、招かざる客が来る……という可能性があるんです。ですがいわゆるストーカーのような異性間のトラブルではありません」


「……そうか」


「一人で対処できるはずの事です。そうしなければ、きっと私は同じ事になってしまう。自分を信じられないまま生きていくのは(つら)い。だから──」


「そうだな」


かつて夜歩きしていた自分を思い出す。

母は公園にいる私に、何度も何度も「帰ってきて」と電話をかけてきた。

あの時は自分を子供扱いするなと鬱陶(うっとう)しがっていたけれど……。

ようやく今、それではいけないのだと分かる。


大人になるというのは相手の心を(おもんぱか)るということが欠かせない。

あの頃の私はどうしようもなく未熟だった。


シヴァさんはさっき私のためにこの体勢をとったと言っていて、それはこういう事だったのだろう。

意味も無く涙が流れる顔を──見られずに済んで良かった。


時計の針が十一時を指す頃、私は「それでは帰ります」と言って玄関を(くぐ)った。

快適で涼しい部屋とは異次元のように不愉快な熱風。


早くも暑さにうんざりしていると、彼が「これ持ってけよ」と小さな何かを差し出すので、手の平に乗せてもらう。

──家の鍵、だった。


「困った時でも……辛い時でも。シンドイ時は、いつでもウチに来い」


どこまでも優しい声。

私を温かく迎え入れてくれる家族。

ああ、これこそがきっと私の欲していた物。


「ありがとう」なんて普通の言葉では、感謝しきれなくて……。

私はただ涙を(こら)え、それを握りしめる事しか出来なかった。


振り返ってもまだ見送ってくれている彼の姿は、夏の陽射しのせいで輪郭(りんかく)がはっきりと見えない。でも、見守ってくれる存在がいる心強さが私に勇気をくれるらしい。


次に父が訪れた時にこそ、負ける訳にはいかない。話をしたいというのなら対峙(たいじ)してやると決意した。


◆◆◆◆


 翌日、水曜日。

カフェのバイトが終わって帰宅した夕方、六時前にインターフォンが鳴った。

父が来たかと思ってドアスコープを(のぞ)くと(またた)くような銀髪が見えて驚く。


「エンキさんいらっしゃい。随分早いですね?」


「…………本当はもっと早く来たかったんだけど。日和(ひより)ちゃんは夜を想定してるだろうなって思ってたから……。これでも、遅くにしたつもりなんだ」


クーラーの効いた部屋に通せば、「都合悪くなかったかな?」と心配そうに訊かれたので、ちょうどバイトから帰った所だから問題ないと答える。


冷たい麦茶をグラスに注ぎ隣り合ってソファに座る。

エンキさんの空気がかつてないほど重く、オシリスさんの手紙に自分を追い込んでると書いてあった事を思い出した。

まだ無理をしているのだろうかと目を()れば、彼の方から切り出す。


「ごめんね、僕は日和(ひより)ちゃんがなぜ選ばれたのか……完全ではないにせよ、知ってたんだ」


「ああ、《(けが)れ無き罪人》ってやつですか」


自分で言うと結構痛い。

しっくりくる気がする所も含めて。


「その呼び名の時点で訳アリなのは分かるからね。たまたま耳にしただけだったんだけど……。詳細は七人全員、聞かされてない。だから僕は、君を探っているところがあった」


そこまで暗い声を出さなくても、という程に苦しそうな声だ。

背筋を伸ばして座っている姿も、どこか裁かれるのを待っているような雰囲気で。

私は別に怒ってなどいないのでフラットな調子で応える。


「エンキさんからは特に観察というか、分析というか。そういう視線を感じた事はありました。こちらを理解しようとしてくれている、と思っていただけですけどね」


あとは《知識の神様》だからかな、とか。

本能でそうせざるを得ないのだろうな、とか。


「そっか……。君はどう見ても優しくて可愛い、善良な女の子だったからさ。余計に謎を知りたくなって見つめていたら──すぐに……恋、してた」


「あはは、過去形。そういうの率直で良いですね」


強がりではなくハッキリ言われる方が好きなので笑ったのに。彼は悲しそうな声で言う。


「いや、そうじゃなくて……。ああ、言い方が駄目だな。とにかく、日和ちゃんにもっと寄り添うべきだったって後悔してるんだ」


「必要ありませんよ。もうおかしな自己暗示はしませんから」


澄んだ水色の瞳が弱り切った顔のエンキさんを余計に悲愴に見せている。

とはいえ、やつれ具合が聖域で再会した頃よりはマシになっていたので訊いてみた。


「良かった。この間よりは顔色が良いですね」


「そりゃ、君にまた逢えたからでしょ」


苦笑い半分、からかい半分といった表情に少し切なくなる。

あえて雑談を軽く振ってみたものの、やっぱり元気がないままだ。


窓の外を見れば、夏なだけあってまだ明るいけれど、もう夕食の準備をしよう。

エンキさんも食べたら気分転換になるかもしれない。そう考えて立ち上がりかければ、遠慮がちに声をかけられた。


「ねえ、海に行かない? 日和ちゃんに見せたい景色があるんだ」


「ん? 今からですか? 水着、持ってないんですけど」


「そんなもの着られたらマトモに話が出来なくなるから……。そのままで良いよ」


少し笑いを取ろうとしてくれているのか、あえて深刻そうに言われた。

まあ、私も水着は下着と何が違うのか分からない。エンキさんは、

「転移するから靴と……ああ、羽織るものもあった方がいいかも」

と言うので、適当なシャツを手にした。


洗面所に水を貯めた彼は、聞き取りづらい言語で呟いている。

これもアラビア語なのかな、なんて考えていると霧がかったように視界がボヤけて──。


私は岸壁(がんぺき)の上、(こけ)むした場所に立っている。

目の前に広がる海は青でもなく、緑でもなく。

(にご)ってはいないけれど、澄んでもいない……(おぼろ)がかったような不思議な水。

そこに沈み始めたオレンジの夕陽は、これ以上に似合う色彩など無いと言わんばかりに調和している。


「ここ……日本ですか?」


「ううん? ペルシャ湾。僕のホームタウンってこっちだから」


(こと)()げに言われた。これだから神様は。


それにしても暑い……ここ、日本以上かも。ショートパンツで良かった。Tシャツをお腹からバタバタ豪快に(あお)いでいたら、

「それやめて!? この周りだけ少し涼しくするから!」と頬を染めた彼に怒られた。


こういうやり取りは、かつてを思い出させるから──。

あの還らない日々に少しだけ、胸を締め付けられた。

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