第一章 42話 「首狩りの悪魔 墜落編 5」
焦燥感が不意に全身を貫き、雷は愛美を置いて走り出した。
「雷くん!? どうしたの?」
いつもならば立ち止まる彼女の呼びかけも、今は耳に入らない。嫌な予感と悪寒が止まらず、必死で走る。距離で言えばそこまで長くはないが、動悸がひどく、心臓が今にも口から飛び出しそうなほどだった。
慣れ親しんだ迷宮のような小道をいくつも抜け、やがて川辺の道へと躍り出る。
(予感は、的中した)
ひどく冷静に、そんな思考が雷の脳裏をよぎる。生臭い血の匂いが、思考にまとわりつくようで、言葉がうまく出てこなかった。
(でも、こんなのって……!)
駄目だった。それを認識してしまえば、もう戦うことなどできない。それを理解していたからこそ、叫ぶ。走る。
「ッッ! ファルシオン!!!!」
絶叫し、すっかり相棒となった曲剣を虚空から引き抜く。そして血の滴る鎌を引きずり、静かに佇む首無しの悪魔へと肉薄する。対する悪魔も雷の姿を認めた瞬間に殺気を迸らせた。
この悪魔とは、狭い場所で戦うべきだ。自分がそう言ったという事実すら、頭から抜け落ちている。
「真雲......雷!!! 殺ス!!! アメリノタメニ!!」
「黙れ悪魔!! お前が、お前が!!!」
まばたき一つの間の後、2つの刃が交わり、火花が散る。
「なんでだ! なんでお前はそうまでして!」
鎌の先端が、雷の左腕をかすめる。だが、彼の剣戟は止まらない。むしろ勢いを増し、悪魔を追い込んでいく。長柄の武器は、懐に入られれば弱い。その点でいえば、完全に間合いの内側の雷の猛攻をいなしきっているサイズの技術は称賛に値するだろう。
怒りと疑問を込め、雷はただがむしゃらに剣を振るう。
「なぜことごとく僕から奪っていく? ……ああ、そうか、そうだな!」
一呼吸で、三連撃。全魔力を剣先に込め、加速させる。全身の筋肉が悲鳴を上げても、激情で強制的に稼働させ、敵の腹に一撃を与える。常人ならば一瞬で疲労が蓄積し、立つことすらままならないその荒業は、愛美の血によって強化された再生能力によってかろうじて可能となる。
そして、答えのない質問に自分自身で答えを設定する。
「お前は所詮、悪魔だったな! 人間とはわかり合えない、絶対悪だった!!」
「雷くん、落ち着いて! わたしも支援するからっ!」
いつもの温厚な雷とはかけ離れたその姿に愛美は怯えながらも優しく声をかけ、魔法を発動する。
「『偽・束魔狼鎖』!!」
宵月愛美。圧倒的な魔法の才を持つ彼女の使用可能な魔法の中で最も強力な、束縛魔法。首狩りの悪魔との初戦では見切られ、発動前に潰されたものの、雷の猛攻によってそれは叶わない。
数本の鎖が召喚され、悪魔へと殺到する。しかし……
「っ、雷くん!?」
周りに意識を一切やっていない雷はさらに攻撃を加速させる。だが、その猛攻は同時に彼を援護するはずの鎖を断ち切った。
結果、悪魔を束縛するはずの魔法はほぼ機能せず、かろうじて残った一本の鎖も鎌の回旋によって弾かれてしまた。
怒り。憎悪。それらは人に、力を与える。だが同時に、それらは人から理性を奪う。戦いにおいて最も重要なのは、感情に身を任せることではなく、感情に呑まれぬようにすることなのだ。
しかし、まだ少年である雷に、昂ぶった思考でそれが理解できるはずもなく。
(もっとだ。もっと速く、強く!)
感情に任せ、攻撃を続ける。敵の後ろにあるモノを認識しないよう、意識の全てをこの戦いに向ける。そうでもしていなければ、血の匂いと絶望に飲み込まれてしまいそうだった。
「お前さえ、いなければ!」
悪魔の鎌を大きく弾き、その隙に大きく上段に振りかぶる。だが、忘れてはいけない。
……怒りや憎しみは、人から理性を奪う。
武器ばかりに気を取られていた雷は、腹に悪魔の蹴りを食らい、盛大に吹き飛ばされた。電柱に激突し、意識は真っ白に染まる。
「死ヌノハ、オ前ダ!」
悪魔の鎌が、雷の首を刈り取ろうと迫る。
「だめ〜〜っ!!!」
悲痛な叫び声とともに愛美は魔法を展開し、雷の前に体を投げ出した。巨大な鎌が彼女の体に触れるまでのあまりに短い時間。それが、雷の目にはひどく遅く、長く映った。
強固なはずの魔法の障壁が一瞬で砕かれ、その小さな体から鮮血が飛び散る。愛美の血が顔にかかり、その非現実的な温もりが雷の意識を引き戻した。
「愛美っ!!」
痛みを忘れ、雷はファルシオンを逆手に持って飛び出す。すでに平衡感覚も狂っており、真っ直ぐに敵の方向へと走り出せた事自体が奇跡と言ってもいいだろう。まさに気迫のなす技。しかし、動けたからと言ってまともに戦えるとは限らない。
鎌が唸りを上げて迫るが、今の彼にそれを回避する手段はない。
「が、はっ……」
体を大きく切り裂かれ、雷が吐血する。しかし、
「ガアアアアア!!」
悪魔もまた苦悶の声を上げる。それもそのはず。ちょうど刺し違える形で、雷の刃は首のない悪魔の体を貫いていたのだ。
悪魔は体をよじり、雷を容易くはねのけると、その体に剣を刺したままどこかへと走り去った。
「愛美……」
出血とともに力の抜けていく体を引きずるようにして、彼は愛美の体を抱きしめた。怒りはすっかり消え失せ、体を空虚な絶望のみが満たしていく。
「ごめん、僕が守るって言ったのに。守れなかった」
すでに意識のない愛美に治癒魔法をかけながら、ぽつりと呟く。返り血を浴び、意識を失っていてなお、その顔はとても可憐で、そう感じてしまう自分に嫌悪感を覚える。
愛美は守る資格を肯定してくれた。自分は彼女に、守ると誓った。その結果はどうなったか。彼は彼女を守れず、……自身の家族すらも今まさに失おうとしている。
彼女の頬に残る涙をそっと拭い、そしてずっと目を背けていた現実へと目をやる。
血溜まりの中に、倒れる男が一人。よく見知った顔には血の気がなく、シャツはどす黒く染まっている。
「父、さん……!」
誰もいない路地裏に、何一つ守れなかった少年の絶叫が響き渡った。
悪魔との戦いを、どこか物語の一節のような、輝かしい正義の戦いだと、彼は今まで心のどこかでそう思っていたのだ。しかし、真実は違う。
この戦いは、血の契約によるもの。決して情け容赦などない、殺し合いなのだ。
そしてこの度の敗北は、その事実を少年の体に嫌というほど刻み込むこととなった。
◇
「ッハハハハ! ああ、待ち望んでいた時が来た……!」
金髪の悪魔は絶叫する少年を鴉の目を通じて確認し、哄笑する。忌々しい少年の心を折り、二度と立ち上がれないようにどん底へと突き落とす。そんな自己中心的な、強欲な願望は今叶った。
「私のものだ。私だけのものだ! 奪えるはずがないだろう!」
虚空に手を伸ばし、まるでここにいない想い人を抱きしめるかのように丁重に空を抱く。整った顔には恍惚とした夢遊病者のような表情を浮かべ、その相貌を飽くことなき強欲で濡らしながら狂気を吐き続ける。
「ぁあ、欲しい……欲しいぃ……! 貴女の手が、髪が、唇が、私を見つめるその眼差しがっ……!欲しくてたまらないのですよ! 愛美、嗚呼、可愛い愛美。貴女が目覚めるのが待ち遠しい! あの少年の隣にいる貴女を奪いたいと何度思ったことか……!」
狂気。そう言い表すより他にない。
気色の悪い微笑みを浮かべ、涎を垂らし、目を充血させてなお彼は美しかった。いや、美しくないはずがない。強欲の化身たる彼が最も美しく輝く時は、まさに今この瞬間、自身の欲望を溢れさせる時であるのだから。
「16年! 私たち悪魔にとってあまりにも短いはずのその時間。貴女を失ってからと言うものの、たったの16年は、私にとって永遠にも等しい長さとなりました……」
誰に語るともなく、マモンは独白を続ける。まるで、そこに彼女が立っているとでも言わんばかりに。
「さあ、早く目覚めてください! 早く貴女の体をこの腕で抱きしめたい! これだけ待ったのですから、お会いする時少々はしゃいだとしても許していただけるでしょう?」
刻印の刻まれた金の瞳を爛々と輝かせながら、どこか高いビルの屋上で。マモンは狂気に身を躍らせ続ける。その嗤いは風に吹き流され、誰に聞かれるでもなくかき消されていった。
雲が流れ、月光が世界を照らし出した時。その屋上にはすでに、誰もいなかった。




