第一章 38話 「首狩りの悪魔 墜落編 1」
風が、音もなく二人の間を吹き抜け、少女の長い黒髪を乱す。少女は慌てて髪を押さえ、それを見守る少年を振り返ると照れくさそうに笑った。
隣で鼻歌を歌いながら歩く少女、愛美を見て、少年、雷は思わず笑みをこぼしていた。色々あったが、結局彼女の笑顔を見ている時間が彼にとって一番幸せな時間だった。
たとえ彼女が雷に対して特別な感情を抱いていなかったとしても、今はそれはどうでも良いと思える程度には、心には幸福が満ち溢れていたのだ。
「ね、雷くん」
「何?」
「今度また、デート行こ?」
「えっ!?」
そう、思えていたはずなのに、愛美の一言で心が揺らぐ。
(違う、そんなんじゃない。愛美が、自分で言ってたじゃないか)
どうしようもなく湧き上がる期待を抑え込んで、愛美に向き直る。
「うん、行こう。首狩りの悪魔を倒したら、きっと」
雷の返答に、愛美は頬を赤らめ、明るく微笑んだ。その顔が、雷には何よりも眩しく輝いて見えた。しかし、その想いを愛美に伝えることが、彼にはどうしてもできなかった。
拒絶されるのではないか、という恐怖。それが心の奥底まで根を張って、抜けようとしなかった。否、それだけではないことは彼自身理解している。彼女の信用をそうやって利用しようとしている、という罪悪感が、刺さって抜けない棘のように存在していた。
それほどまでに、彼は心優しい少年であったのだ。
「雷くん? 大丈夫?」
上の空だった意識が、愛美の言葉で現実に引き戻される。見れば、すぐそこに愛美の顔があった。雷よりも頭一つ分背が低い彼女は、どう頑張っても雷を見上げるかたちになる。
しかし、それが愛美の可憐な外見と合わさることで、形容しがたい破壊力を生んでいた。心拍数が一瞬で上昇し、耳の内側でドクドクという音が鳴り響き始める。
(最近僕、おかしいかもしれない)
彼自信がそう感じてしまうほど、意識の全てが愛美でいっぱいだった。今までも彼女への好意はもちろんあったが、近頃、特に梅雨の廃屋の事件以来、気持ちが抑えられなくなってきている。
小さな顔。華奢な肩に、小さな手。思わず守ってあげたくなるような、その外見。しかし、悪魔との戦闘において守られるのは、むしろ雷の方である。
重症を負ったときも、人が人形のように操られるのを目の当たりにしたときも。彼女が絶望し、
...ただ、愛美とともに行動するだけの自分に、本当に彼女を守る資格があるのか。そう、自身の心に問う。
高校生として、想い人に想いを伝えるという目標を抱くのは何もおかしなことではない。しかし、その結果が本当に愛美を傷つけることにつながってしまわないと言い切れるのか。
今の雷には、何一つ自信を持って答えることのできない問いばかりであった。
「大、丈夫。ちょっと疲れただけだと思う」
そうして、また愛美に嘘をつく。
「そっか...でも、無理はしちゃ駄目だからね!」
何の疑いもなく、再び笑顔を見せる愛美。その純粋さが、今はただ苦しかった。
いつものように、愛美は歩きながら、明るく今日の出来事について雷に語る。いつもはあっという間に感じられる、分かれ道までの時間が、いつもよりもほんの少しだけ長く感じられた。
手を振り、愛美と別れて家へと向かう。
迷宮のような道を、いつも通りに歩く。やがて見えてきた家には、いつも通り何の変化も...
いや、あった。人影が、家の前に立っていた。振り向いたその人物の顔を見て、雷の口から思わず声が漏れた。
「雷! ただいま。ずいぶん大きくなったな!」
「...父さん、おかえり」
少々照れくさそうに手を振り、近づいてきた父に抱きしめられる。少し前までの雷なら、突き放していたかもしれない。しかし、今はもうそんな元気もなかった。
そうは言っても、長い間父と離れていた少年にとって父が帰ってきたことはたまらなく嬉しかった。
「雷、一つ聞きたいんだけどな...」
父は雷から離れると、にやりと笑って言った。
「さっき一緒に歩いてた子、彼女か?」
「...は?」
せっかくの感動も、全身に重くのしかかる疲れも、その一言で何処かへと吹き飛んでいってしまった。
父が帰ってくることは、どうやら母のみが知っていたようで、雷が彼の父とともにリビングへ入っていくと、舞衣はぽかんと口を開けて固まった。
「ははは! サプライズ大成功だな!」
愉快そうに笑う父。その声と、その表情で次第に過去の思い出が色づき始める。どちらかと言えば物静かな雷とは正反対で、彼の父、真雲翔は陽気な人間である。
顔立ちは整っており、純也ほど人間離れはしていないが、運動もかなりできる。その上に社交的で評判も良く、職場でもかなりモテるらしい。
本当に完璧に近い人間なのだが、唯一の欠点がデリカシーの無さという、致命的なものなのだ。
「舞衣は彼氏できたのか? 雷には彼女ができたみたいだが」
「え、嘘! お兄ちゃん!?」
「いないって!」
なぜか動揺している舞衣にあわてて首を振り、父を睨む。
しかし、
(ああ、駄目だ)
父の顔を見ているうちに、雷はなぜか笑ってしまった。
(家族って、暖かいな)
先程まで心に根付いていた悪魔との戦いへの恐怖と、愛美との関係の崩壊に対する不安が、するすると解けていった。
気づけば、舞衣も笑っている。雷の父は、よく笑う人である。そして、その笑いは他人の心を不思議と軽くする。デリカシーの無さという致命的な欠点を抱えながらも彼に人望があるのは、その天性の才能があるからなのだ。
家の明かりが消えるまで、家の中には何度も繰り返し、明るい笑い声が響いていた。




