第一章・異世界エルメアへ(その7)
サラのアトリエは、町外れの小高い場所に建っていた。
外見は石造りの家だったものの、智美が一歩その中に足を踏み入れると、そこに満ちている不思議な空気に思わず息を呑んだ。
古びた本がずらりと並ぶ壁一面の本棚。
壁にかかった魔法の文様を織り込んだタペストリー。
乾燥させた薬草。
ガラス瓶に入った色とりどりの液体。
そして机の上や棚には、智美には用途のわからない魔法道具が並んでいた。
「わぁ……」
智美は思わず辺りを見回す。まるで物語の中の魔法使いの家そのものだったが、フィリアは慣れた様子で薬草やキノコの入った籠を台所へ運んでいる。サラもその籠を見て薬草やキノコの種類を確かめながら、少し考えるようなそぶりをした。
「フィリアが森で薬草やキノコを摘んできてくれたおかげで、魔法薬の調合ができそうだわ。でも町の近くの森にまで呪装が出るようじゃ、子どもだけで森に行かせるのは考え直さなきゃいけないわね」
そしてサラは智美の方に目を向けると、小さく微笑んだ。
「空き部屋があるから、今日はそこを使うといいわ」
「え……でも」
智美は戸惑う。いきなり知らない子どもを泊めるなんて、普通なら警戒するはずだ。
だがサラは落ち着いた声で言った。
「あなたは別の世界からここに来て、今晩泊まるところもないんでしょ? こんな小さな子どもを危険な夜の森に放り出すわけにはいかないわ」
その言葉には妙な説得力があった。智美は思わず声を上げていた。
「ありがとうございます」
サラは微笑を浮べると、そのまま二階へ続く階段を指差した。
「お礼なんかいいのよ。フィリア、案内してあげて」
「はい、お師匠様」
フィリアに連れられ、智美は二階へ上がった。メリルも飛びながら智美について行った。
そしてフィリアは二階の廊下の突き当たりにある、小さな部屋の扉を開けた。
「ここです」
部屋の中には、木製の机と椅子、小さな棚、そしてきちんと整えられたベッドが置かれていた。窓には薄いカーテンが掛かっており、夕暮れの赤い光が静かに差し込んでいる。
「使ってない部屋なんですけど、ちゃんと掃除はしてありますから」
フィリアが少し照れくさそうに言う。
「……ありがとう」
智美が小さく頭を下げると、フィリアは柔らかく笑う。
「そんなに遠慮しなくてもいいですよ。もし私とピートが森の中でトモミに会ってなかったら、呪装に襲われていたかもしれないから…。何かあったら呼んでくださいね」
フィリアはそう言って部屋を出ていった。扉が静かに閉まると、部屋には智美とメリルだけが残された。
「……」
智美はふと息をついて、ゆっくりと赤いランドセルを下ろした。メリルはそれを興味深げに眺めていた。その瞬間、どっと疲れが押し寄せる。ベッドに腰かけると、柔らかな感触が身体を包んだ。
今日一日で、あまりにも色々なことが起きすぎていた。
異世界。
森。
妖精。
呪装。
剣。
そして雅人と結以の行方。
智美はうつむき、自分の手を見る。あのとき剣を握った感触が、まだ残っている気がした。智美はそばにいるメリルにそっと話しかけた。
「私……どうなっちゃうんだろう。お父さんとお母さん、それに弟の悟史…心配してないかな」
メリルは不安の色を浮べた智美の顔を、じっと見つめていた。
窓の外では、アウラムの町の灯りが少しづつ夜に溶け込んでいく。遠くから人々の話し声や、食器の触れ合う音、犬の鳴き声も聞こえてきた。そんな“普通の生活の音”が、逆に智美の不安を浮び上がらせる。
ここは知らない世界だ。家族もいないし学校もない。
それに――。
「雅人……結以……」
ぽつりと名前をつぶやく。二人も無事だろうか。怖い思いをしていないだろうか。そのことを考えると、胸が締めつけられた。
智美はそっとベッドへ倒れ込み、天井を見上げた。
知らない木の天井。知らない世界の夜。
けれど疲労は限界だった。智美が不安を抱えたまま、静かに目を閉じようとしたときだった。
ドアの向こう側でフィリアの声がした。
「トモミー、ごはんできましたよ」
控えめなノックの後、フィリアが扉を少し開けて顔をのぞかせた。智美ははっとして身体を起こす。
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「疲れてますよね」
フィリアは心配そうに笑った。
「でも温かいうちに食べたほうがいいですよ」
智美は小さくうなづき、フィリアの後について一階へ降りた。メリルもきょとんとした顔で、飛びながら智美について行った。
食卓には湯気の立つスープと焼きたてのパン、それに野菜料理が並んでいた。薬草のような香りのするスープだったが、口に入れると優しい味が広がる。
「おいしい……」
智美が思わずつぶやくと、フィリアが少し嬉しそうな顔をした。
「それ、お師匠様の得意料理なんです」
サラは向かい側で静かに紅茶を飲んでいる。その紅茶も、異世界の香料でも入っているのか、ひときわ香りが高かった。
「特別なものじゃないけどね」
けれど、智美にとっては十分すぎるほどありがたかった。異世界に来てからずっと張り詰めていた身体が、温かい食事で少しづつほぐれていく。智美がこの世界で口にした食べ物は、ピートから分けてもらったルーフの実だけだったが、智美は異世界に来てからというもの、不安のために空腹を感じる余裕すらなかった。しかしいざ温かい食事が空腹を満たしていくと、体の中に生き生きとした五感が蘇ってくるように感じていた。
智美が食事を終える頃には、ほんの少しだけ元気も戻っていた。だが、頭の奥に引っかかっているものは消えない。
智美は意を決して口を開く。
「……呪装って、何なんですか」
食卓の空気が少し静かになった。フィリアも真面目な顔になる。メリルも場の空気が重くなったことを察したのか、少し表情を曇らせた。
サラはしばらく黙っていた後に、やがてゆっくり話し始めた。
「エルメアでは、昔から人の心には“影”があると言われているの」
「影……」
その言葉を聞いただけで、智美は背筋にぞくりとするものを感じた。
「誰でも、不安になったり、傷ついたりするでしょう?」
サラの声は静かだった。
「苦しいことを全部前向きに受け止められる人なんていない。恐怖も、怒りも、孤独も、本来は人間の自然な感情よ」
智美は黙って聞いている。
「でも、遺跡から流れ出る力は、その“影”を増幅させてしまう」
サラは窓の外の夜を見つめた。
「心が深く傷ついた人間は、ときに呪装へ変質することがあるの」
そこで智美の手が止まった。
「……人間が?」
フィリアが小さくうつむく。
「はい……」
「完全に理性を失い、感情を閉ざし、苦しみすら感じなくなった存在。それが呪装よ」
部屋の空気が急に冷たく感じられた。
智美は昼間見た呪装の姿を思い出す。
赤く光る目。
きしむ金属音。
まるでロボットのような身体。
だが、あれが元は人間だったかもしれない――。
そう思った瞬間、智美は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「どうして……そんなことに」
サラは静かに答える。
「人の心は、壊れることがあるから」
短い言葉だった。けれどそこには、長い年月を生きてきた者の重みがあった。
「呪装になると、痛みも恐怖も感じなくなると言われているわ。だから自分から呪装化を望む者すらいる」
「そんな……」
智美は言葉を失う。感情を失い、苦しみを感じなくなること。それは本当に“救い”なのだろうか。
「でもね」
サラの目が智美を見る。
「感情を失うということは、人間であることを失うということでもあるの」
静かな言葉だった。
その瞬間、智美は昼間、自分が感じた恐怖を思い出していた。呪装を見た時の、本能的な嫌悪感。あれはきっと、“人間ではなくなったもの”への恐れだったのかもしれない。
メリルも智美の顔色が青ざめていることに気づき、心配そうな表情で智美を見つめていた。そこでサラは少しだけ声を和らげた。
「安心して」
サラは静かに言う。
「さっきあなたが戦った相手は、人間の持つ負の感情が具体化したものよ。もともと人間だったわけじゃないわ」
智美はほっと息をついた。知らないうちに、人間を斬ってしまったのではないか。そんな恐怖が胸の奥にあったのだ。
「……よかった」
フィリアも小さく頷く。
「森に出る呪装の多くは、そういう“自然発生型”です」
しかし智美の心の中には、もう一つの疑念が芽生えていた。不安や孤独、恐怖という、誰の心のなかにもある「負」の感情が呪装を生み出すという先ほどのサラの説明が、智美の脳裏から消えなかった。
雅人はクラスの中では、どちらかというと内気で気が弱い少年だった。そのためにクラスの男子から「弱虫」とからかわれたこともしばしばある。そして結以も、クラスの中では友達とのおしゃべりに積極的に関わるよりも、一人でいることが多かった。智美はそのようなクラスの中でも孤立気味の結以のことを気にして自分から声をかけたりもしていたが、そこで智美の心の中で不吉な予感がますます強まっていった。
――もしあの二人の心に呪装がとりついていたら…。
そこまで来て智美は、自分はなんてことを考えているのかと思ってはっとした。たしかに智美はあの二人には気が弱い面もあることは理解していたとはいえ、そのようなことは決して想像したくなかった。智美は身震いがするのを必死で抑えようとした。
――そんなことがあるわけない。
智美は強引にでもそう思い込むことで、心の奥につのる不安を無理やり打消そうとした。その智美の様子を見て、フィリアまでもが不安そうな顔をした。
「トモミ、どうしたの? さっきからなんか落着きがないけど」
そこで智美はあわてて、フィリアに対して首を横に振った。
「いや…なんでもないの。気にしないで」
智美の言葉を聞いても、フィリアの怪訝そうな表情は消えなかった。




