第一章・異世界エルメアへ(その6)
四人で夕方の森の中の道を歩き始めてからも、智美の表情からはなかなか不安の色が消えなかった。その顔をメリルが空を飛びながらきょとんとした顔でのぞき込むと、智美も少し気分が落ち着くような気がした。
「ありがとう…メリルってかわいいよね」
さらにメリルは、智美の周りを飛び回りながら、智美の背負っているランドセルをしきりに眺めて、ところどころ小さな指でつついたりしていた。メリルにとって、特にランドセルが興味を引いたようだった。
「どうしたの? ランドセルが気になるの?」
それを見てフィリアも笑顔を浮べた。
「メリルもすっかり智美のことが気に入ったみたいね」
やがて木々が開け、その先に町が見えてきた。
「……わあ」
智美は思わず声を漏らしていた。
智美の目の前に広がるアウラムの町は、夕暮れの中に包まれようとしていた。石畳の道には馬車や荷車が行き交い、その両側には赤茶色の屋根を乗せた木組みの家が建ち並んでいた。煙突からは夕食の煙が立ち上り、露店では店じまいの準備が始まっていた。通りでは買い物に出かけた女性たちがうわさ話に花を咲かせており、ところどころから子どもたちの笑い声も聞こえてくる。
その景色を見て、智美は少しだけ安心した。この世界は、呪装のような恐ろしいものだけではなく、ちゃんと人が生きている場所なのだ。そしてそこで暮らす人々の表情も、智美の暮らしていた日本と変っていないと智美は感じていた。
町の入口近くまで来たところで、ピートが足を止めた。
「じゃあオレはここで」
「え?」
智美が振り返ると、ピートは親指で町の奥を指した。
「オレ、この町の冒険者ギルドでおかみをやってるラミーのところで暮らしてるんだ」
「ラミー?」
「うん。面倒見のいい人でさ」
ピートは少し笑う。
「困ってる子どもとか見ると、放っとけない性分なんだよ。昔は冒険者として、いろんなところに出かけたりもしたらしいけどね」
フィリアが小さくうなづく。
「ラミーさん、よく迷子とか旅の子どもを助けてますもんね」
「だからさ」
ピートはあらためて智美に目を向けた。
「トモミも何か困ったことがあったら、ラミーに相談するといいよ」
その言い方はぶっきらぼうだったが、どこか優しかった。
智美は少し緊張しながらも頭を下げる。
「……ありがとう、ピート」
ピートは照れくさそうに頭をかいた。
「別に。まあ、また会うだろ」
そう言って軽く手を振ると、ピートは夕暮れの町の中へ駆けていく。革靴の足音が石畳に響き、やがて人混みの中へ消えていった。
智美はその背中を見送りながら、ふと思った。
自分はこの世界に来たばかりなのに、もう何人もの人に助けられている。
フィリア。
ピート。
サラ。
不安はまだ消えないし、雅人と結以の行方もわからない。けれど完全に一人ではないのだと、そのことが少しだけ智美を勇気づけていた。そして智美は、ピートの話していたラミーってどんな人なのだろうと思い始めていた。
「行きましょう、トモミ」
フィリアが微笑むと、智美も力強くうなづいた。
その向こうでは、夕暮れのアウラムの灯りが少しづつ灯り始めていた。
アウラムの通りは夕暮れを迎えて、喧噪に包まれつつあった。冒険者たちが町へ戻り、酒場からは笑い声が漏れている。
その通りの一角に、冒険者ギルドはあった。木造の大きな建物の入口の扉には、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。
「ただいまー」
ピートが扉を開けるとカウンターの奥から、すぐに声が飛んできた。
「ピート!」
現れたのは、栗色の長い髪を後ろで束ねた女性だった。
年齢は二十代後半くらいだろうか。動きやすそうな服装の上にギルド用のエプロンを着けてはいるものの、その立ち姿には普通の町娘とは違う雰囲気があった。
彼女がラミーだった。鋭い観察眼に無駄のない身のこなし。それだけで彼女は、冒険者として多くの危険を見てきた者の空気を漂わせていた。
ラミーはカウンターから出てくると、ピートの肩を掴む。
「あそこの森に呪装が出たそうじゃないか」
その声には明らかな心配がにじんでいた。
「魔法使いのサラ様に助けてもらえたから良かったものの、あまり危ないところには行くものじゃないよ」
「いや、それなんだけどさ!」
ピートは逆に興奮した様子だった。
「ちょっと不思議な女の子が現れて、剣で呪装をバッサリやっつけたんだよ!」
そのピートの言葉を聞いて、ラミーは眉をひそめた。
「……女の子?」
「オレたちと同じくらいの歳でさ! 見たことない服着てて、背中には赤いカバンみたいなものを背負ってて!」
ピートは身振り手振りを交えて話し始めた。
「最初は普通の子だったんだけど、急に剣が現れて、光に包まれて――そしたら呪装を一瞬で!」
興奮のせいで息が上がっている。
「本当にすごかったんだって! なんか、なかなか面白いことになってきたじゃん!」
だがその言葉を聞くと、ラミーの表情が厳しくなった。
「……面白いこと?」
静かな声だった。しかしその一言で、ピートの勢いが少し止まる。ラミーはピートの顔をしっかり見据えながら、ゆっくりと言った。
「これは遊びじゃないんだよ」
ギルドの空気が少し静まる。周囲にいた冒険者たちも、ラミーの声に耳を向けていた。
「呪装は、人を傷つける」
ラミーの目は真剣だった。
「一歩間違えば死ぬことだってあるんだ」
その瞳には、過去に見てきたものの重みがあった。仲間を失ったこともあるのかもしれない。町が襲われたこともあったのかもしれない。
ピートは少し気まずそうに目を逸らす。
「……わかってるよ」
「だったら、これ以上危ないことに首を突っ込むんじゃない」
ラミーはため息をつき、最後に少しだけ柔らかい声になる。
「私は父さんからあんたのことを預かっている以上は、あんたを危険な目に遭わせたくないんだよ」
ピートはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……はいはい」
だがその目には、まだ消えない好奇心の光が残っていた。
“剣で呪装を倒した不思議な少女”。
その存在が、この町に何をもたらすのか。ピート自身にも、まだわからなかった。
ギルドの喧騒は、夜が近づくにつれて少しずつ落ち着いていった。依頼帰りの冒険者たちは酒場の席へ散り、受付の灯りだけが静かに揺れている。
「じゃ、おやすみー」
ピートは軽く手を振ると、ギルドの二階へ続く階段を駆け上がっていった。
その足音が遠ざかるのを聞きながら、ラミーは小さくため息をつく。
「……ほんとに」
呆れ半分、心配半分の声だった。
「そりゃあ、あの子は冒険者の息子だからねぇ」
カウンターに肘をつきながら、ラミーは苦笑する。
「血は争えないというか、やんちゃで向こう見ずで、面白そうなものを見たらじっとしていられないのは親譲りかもしれないけどさ」
近くで帳簿を整理していた年配の冒険者が笑った。
「父親のドミニクにそっくりだな、ピートは」
「ほんとだよ」
ラミーは肩をすくめる。
ピートの父親のドミニクは長年各地を旅する冒険者だった。危険な遺跡、呪装討伐、護衛依頼…。ひとところに留まらず、何かあればふらりと旅に出る。そのせいで家を空けることもしょっちゅうだった。
そしてピートは幼い頃に母親を亡くしている。だからドミニクがいない間は、ラミーが親代わりのように面倒を見てきた。食事を作り、服を破ったら繕ってやり、怪我をすれば叱り、無茶をすれば頭を抱える。
気づけば、ラミーにとってもピートは放っておけない存在になっていた。
「まったく……」
ラミーは窓の外を見る。
日はとっぷりと暮れて、夜のアウラムにはぽつぽつと灯りがともり始めていた。
だが彼女の頭に残っていたのは、ピートの話だった。
異世界から来た少女。剣を操り、呪装を倒した子ども。しかもサラが関わっている。
「……異世界から来た、剣を操って呪装を倒した女の子、ねぇ」
ラミーはぽつりとつぶやく。その瞳に、少しだけ鋭い光が宿った。
ただの作り話だとは思えなかった。ピートは話を盛ることはあっても、本気で怖がったことや驚いたことについては嘘をつかない。つまり、その少女は本当に存在する。そして今、サラのもとにいる。
「どんな子なんだろうね」
ラミーは腕を組む。
もし呪装の動きが本当に活発になっているのなら、町にも影響が出るかもしれない。そんな時期に現れた、“異世界の子ども”。偶然とは思えなかった。
ギルドの窓を夜風が揺らす。ラミーは静かに目を細めた。
どこかで、何かが動き始めている。そんな予感がしていた。




