第一章・異世界エルメアへ(その5)
森の中には、焼けた金属のような匂いが漂っていた。呪装の残骸は地面に散らばり、赤い光を断続的に明滅させている。
智美はその前に呆然と立ち尽くしていた。手には、まだ赤い宝石の埋め込まれた剣が握られている。
けれど智美自身、自分に何が起きたのか理解できていなかった。
(私が……倒したの……?)
ついさっきまで、学校帰りで友達と話していた、普通の小学生だったはずだ。それなのに今、自分は人間ほどもある機械の怪物を斬り倒している。
智美の指先が小さく震えた。もはや智美には、自分の身に何が起きているのかすらわからなかった。
「……」
そのときだった。
「ギ……ギギギギ」
きしむような音を立てて、茂みの中から一体の呪装が智美たちに近づいてきた。
「またかよ…いいかげんにしつこいな」
ピートが舌打ちした。智美があらためて剣を握り直した、そのときだった。
呪装の背後から明るい閃光が照らされて、呪装が一瞬動きをひるませた。智美たち三人も、何が起きたのかと思ってきょとんとしたが、どうやら呪装の背後から何者かが光の矢のようなものを浴びせたようだった。
次の瞬間、接着剤のようなドロドロした液体がみるみるうちに呪装を包み込んでいき、やがてその液体は固まって呪装の動きを完全に封じ込めた。
智美が呆気に取られていると、フィリアが驚いたように声を上げた。
「この相手を魔法の液で固めて動けなくさせる魔法は、高等な魔法使いでないと使えませんね」
しかしみんなが戸惑う間もなく、そしてその立ちすくんだままの呪装の背後から、静かな足音が聞こえてきた。
カツ、……カツ。
その規則正しい足取りを聞いて、フィリアがぱっと顔を上げる。
「……!」
木々の間から、一人の女性が姿を現した。長い銀色の髪に、深い青を基調にしたローブ。手には細身の杖が握られており、その先端には透き通った宝珠が埋め込まれている。
年齢は、地球で言えば二十代くらいだろうか。落ち着いた雰囲気をまとった、美しい魔法使いだった。そしてその傍らでは、メリルが羽根を羽ばたかせて飛んでいた。
彼女は周囲の呪装の残骸を見渡し、最後に智美へ視線を向ける。その瞳が、わずかに細められた。
「……メリルがいきなり私のところに来て、危険があったことを知らせたので、駆けつけてみたのですが」
静かな落ち着いた声だった。だがその中には鋭い観察眼が感じられる。
「こういうことでしたか。この呪装は、私が魔法を使って動かないようにしておいたけど、間に合って良かったわ」
「お師匠様! ありがとうございます」
フィリアがほっとしたように駆け寄る。
「サラ様!」
ピートも安堵した顔を見せた。
サラはまずフィリアの無事を確かめるように軽く頭を撫でた。
「フィリア、あなたが結界を張って、すぐにメリルに頼んで助けを呼んだのは適切な判断だったわ。この呪装は、子どもが立ち向かえるような相手ではないわね」
サラに褒められて、フィリアは照れくさそうな顔をした。そこでサラは、あらためて智美に目を向けた。
智美は思わず身構えた。自分でもわからない力、突然現れた剣、そして呪装を切り裂いた異常な身体能力……警戒されてもおかしくない。
だがサラは、すぐには何も言わなかった。ただ静かに、智美の持つ剣をじっと見つめている。
やがて彼女は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
その一言には、驚きと、何かを悟ったような響きが混じっていた。そしてサラは、あらためて智美に目を向けた。
「あなた、名前は?」
「……吉永、智美です」
智美が緊張しながら答えると、サラはゆっくりとうなづいた。
「私はサラ。この近くのアウラムの町で魔法使いをしています」
そして彼女は、智美の目をまっすぐ見つめた。
「トモミ。あなたはおそらく、この世界に偶然迷い込んだだけではありません」
「え……?」
智美は思わず息を呑んだ。森を吹き抜ける風が、木々を揺らした。
サラの表情は真剣だった。その目は、智美の背後にある“何か”を見ているようだった。
そこで智美は、思い切って地面に転がる呪装の残骸を見つめながら尋ねてみた。智美がサラに尋ねたいことなどいくらでもあったが、まずは身の周りの状況を整理するのが第一だった。
「この怪物みたいなのは……何ですか?」
先ほどまで動いていたそれは、今では壊れた機械の塊のように沈黙している。だが見ているだけで、まだ胸の奥がざわついた。
サラは静かに答える。
「この『呪装』は、人間の心の中に潜む負の感情……」
その言葉と共にサラは、杖を軽く握り直した。
「恐怖や不安。苦痛や絶望。憎悪や嫉妬、孤独や劣等感……そういった感情が形を取って暴れ出したものなの」
智美は思わず息を呑んだ。
「感情が……?」
「ええ」
サラはうなづいた。
「もちろん普通の感情だけで、すぐ呪装になるわけではないわ。けれど遺跡から流れ出る力が、人の心の闇に反応してしまうの」
フィリアが少し不安そうにつぶやく。
「だから昔から、この森の遺跡は危険だって……」
「そう」
サラは森の奥へ目を向けた。
木々の向こうにあるさらに深い場所に、その遺跡が眠っている。
「本来、呪装はもっと森の奥に現れるものよ」
だがサラの声は重かった。
「これがこんな町の近くまで現れるということは……封印された遺跡の活動が活発になっているみたいね」
風が吹き抜ける。
智美は無意識に自分の胸元を押さえた。恐怖、不安、孤独、劣等感…。サラが口にした感情は、智美にも覚えがあるものばかりだった。誰にでもある感情が怪物になる。この世界は、そんな恐ろしい場所なのか。
「……じゃあ」
智美は恐る恐る尋ねる。
「私がここに来たのも、その遺跡と関係あるんですか?」
サラはしばらく黙っていた。そして、まっすぐ智美を見つめる。
「あなたがこの世界――エルメアに来たのは、決して偶然ではないわ」
智美の心臓が小さく跳ねた。
「え……」
「そして、その剣も」
サラの視線が、智美の手にある剣へ向けられる。赤い宝石は、夕暮れの光を受けて静かに輝いていた。
「普通の人間には扱えないものよ。そもそも呪装をこれだけ剣で斬り倒すなんて、よほどの腕利きの剣士でもない限りできることではないわ」
フィリアとピートも息を呑む。その中でサラは静かに続けた。
「おそらくあなたには、“呪装に対抗する力”が宿っている」
「私に……?」
智美は戸惑わずにはいられなかった。そんな大それたことを言われても、実感がなかった。ついさっきまで、自分は日本のどこにでもいるような普通の小学生だったのだ。
だがサラは真剣だった。
「そしてもし、あなた一人だけではなく、共にこの世界へ来た者たちがいるなら――」
その瞬間、智美の脳裏に雅人と結以の顔が浮かんだ。智美はますます心臓の動悸が高まるのを感じていた。
「その子たちもまた、この世界に深く関わる存在かもしれないわ」
サラの話を聞くと、智美には森の空気が急に冷たく感じられた。まるでエルメアそのものが、静かに目を覚まし始めているようだった。
サラは一呼吸おいて、静かに空を見上げた。
木々の隙間から見える空は、すでに夕暮れの色に染まり始めている。赤紫色の雲がゆっくり流れ、森の影は長く伸びていた。
「……そろそろ日が暮れるわね」
サラがみんなに声をかけた。
「こんなところで立ち話もなんだし、ひとまず私のアトリエに戻りましょう」
フィリアがほっとしたように胸を撫で下ろした。
「はい、お師匠様」
そしてサラはピートにも目を向けた。
「ピートももうそろそろ冒険者ギルドに帰らないと、ギルドのみんなが心配してるんじゃないかしら」
ピートもサラにそう言われると、軽く舌を出してちょっと気まずそうな顔をした。
智美も小さくうなづく。
正直、あの呪装が現れた森にいつまでもいたくはなかった。日が傾いて森の闇が少しづつ濃くなっていくのを眺めながら、智美は呪装は人の心の中の負の感情が形を取ったものだという、先ほどのサラの説明を思い出していた。智美はこの森を覆おうとしている夕闇が、あたかも自分の心の奥底にもある負の感情を鏡のように映し出しているようにも思えて、思わず肩をすくめてしまった。




