第一章・異世界エルメアへ(その2)
智美が意識を失ってから、どのくらいの時が経っていただろう。智美がそっと目を開けると、そこは深い森の中だった。辺りを見渡すと高い木がそびえ、周囲には見たこともないような花が咲いていた。さらに森の湿気やしっとりするような木の香りを含んだ、ひんやりとした冷気が智美を包んでいた。
「ここ…どこ」
智美が思わず身の周りを見回すと、智美は雅人や結以と一緒に校舎を出たときと変らない装いをしていた。淡いブルーのワンピースに背中には赤いランドセル、そして空色のスニーカー。自分の姿が変っていなかったことに、智美は少し安堵の念を抱いた。
しかしそこで智美は、さっきまでそばにいたはずの雅人と結以の姿がないことにすぐに気がついた。智美は感覚的に確信していた…雅人と結以も、この世界のどこかに来ているということを。
「雅人…結以…どこにいるの」
智美が不安にとらわれて、表情を曇らせたときだった。森の中の道を近づいてくる足音があったので、智美は思わず身構えた。
しかしここで茂みの中から姿を現したのは、智美と同じくらいの歳の冒険者風の装いをした少年と、いかにもファンタジーの魔法使いのような恰好をした、ローブを身にまとい手に小さな杖を持った少女の二人だった。そしてその魔法使いの少女の傍らには、七色の羽根をした妖精が羽根を羽ばたかせて飛んでいた。
少年は智美の姿を見るなり、物珍しいものでも見るようなきょとんとした顔をして智美に話しかけた。
「お前…なんか見慣れない恰好だけど、こんな森の中で何してるんだ?」
魔法使いの少女も、戸惑うような視線を智美に向けていた。
「あなた…もしかして別の世界から来たの?」
二人に尋ねられて、智美はようやくためらいがちに口を開いた。
「私…吉永智美といいます。本当に別の世界から来てしまったみたいです」
智美が答えると、魔法使いの少女は顔に笑みを浮べた。
「あなた…トモミっていうんだ。私はフィリアっていいます。この近くにあるアウラムの町で魔法使いサラ様の下で、見習いとして働いています。この森には薬草やキノコを摘みに行っていたのです」
フィリアに続いて、そばにいた冒険者風の少年も気さくそうに智美に話しかけた。二人ははじめこそ智美の身なりを少し警戒したものの、様子から智美に悪意はないことに気がついたようだった。
「オレはピートっていうんだ。アウラムの町の冒険者ギルドのところに世話になってる。フィリアが森に薬草やキノコを摘みに行くって言ったんだけど、女の子一人だけで森の中に行くのは危険じゃん? だからオレもついて行ったんだけど…フィリアの師匠のサラ様は賢い魔法使いだから、そこでいろいろ話聞いてもらえるよ」
フィリアとピートが自分に対しても警戒することなく気さくな態度で接しているのを見て、智美はいきなり右も左もわからぬ異世界に飛ばされて、そばに雅人や結以もいないことへの不安を少し和らげることができたような気がした。それは子ども同士の勘のせいかもしれなかった。
そこで智美はフィリアの傍らを飛んでいる妖精に目をむけた。智美の目をまず引いたのは、妖精の背中に生えている七色をした昆虫のような羽根だった。智美は絵本の中で見たような妖精の姿を、まさか自分自身の目で見ることになるなんてと思っていた。
しかし智美はその妖精があどけない表情で自分の姿をしげしげと眺めるのを目にすると、この世界に来てからずっと感じていた緊張感や不安が少しだけやわらいだような気がして、少し表情をほころばせた。すると妖精は羽根を羽ばたかせてフィリアの懐に飛び込み、フィリアもを両手でそれを抱きとめた。
智美がもの珍しげにそれを見ていると、フィリアが妖精を手で抱いたまま智美に話しかけた。
「この妖精はメリルっていうの。私たち魔法使いの使い魔になっているのよ。この子もあなたのことがちょっと気になってるみたいね」
フィリアは淡い色のローブの裾を整えながら、智美をじっと見つめていた。柔らかそうな金色の髪に、大きな瞳。手に持った小さな杖の先には、薄青い石がはめ込まれている。
一方のピートは、軽い革鎧に短剣を提げた冒険者風の格好だった。茶色の髪を無造作に揺らしながら、どこか人懐っこそうな顔をしている。ピートは不思議そうな顔で智美に尋ねた。
「別の世界……って、本当にそんなことあるんだ」
「はい…私だって自分がいきなり別の世界に来てしまうなんて、思いもしなかったけど」
智美が小さくつぶやと、フィリアが真剣な顔でうなづいた。
「異世界から人が来るのはすごく珍しいことです。でも、昔から時々あるってサラ様が言ってました。空間の歪み……とか」
「まあオレは難しいことはわかんないけどさ」
ピートが肩をすくめる。
「でもトモミ、見るからにこの辺の人じゃないし」
「そんなに変かな……」
智美は自分の服を見下ろした。淡いブルーのワンピースに赤いランドセルといういでたちは、この森の中では明らかに浮いていた。
ピートは少し不思議そうに、智美の背中のランドセルに目を向けた。
「その背中に背負っている四角いの、カバン?」
「う、うん。ランドセルっていうの」
「へぇー」
ピートは智美のランドセルに、あらためて興味深げに目を向けた。ピートは珍しいものを目の前にするとじっとしていられない、好奇心旺盛な性格なのだということがこの態度からも見てとれた。
だが次の瞬間、智美の表情がまた曇った。
「……雅人と結以、どこ行っちゃったんだろう…」
フィリアが首をかしげる。
「マサト? ユイ?」
「うん。私の友達で、さっきまで私と一緒にいたの。たぶん、二人ともこの世界に来てると思う。でも、どこにいるかわからなくて……」
その声は不安で震えていた。
するとピートが、少しだけ真面目な顔になる。
「大丈夫だよ」
「え……?」
「この辺で人が倒れてたりしたら、町の人が見つけることも多いし。アウラムには旅人だって結構来るからさ」
フィリアも智美をの不安をほぐそうとするかのように、優しくうなづいた。
「サラ様なら、何かわかるかもしれません」
智美は二人の顔を見た。
異世界の日の光もささないような深い森の中で、本当なら怖くて泣き出していてもおかしくなかった。けれどフィリアとピートは、智美を“変な子”として突き放さなかったことが、今の智美にはとてもありがたかった。
「……ありがとう」
智美が小さく頭を下げると、ピートは照れくさそうに鼻をこする。
「まあ困ってるなら助けるのは普通だろ」
「それじゃ、まずは私がお世話になっているサラ様のアトリエに行きましょう」
そう言ってフィリアが、森の奥へ続く道を指差した。
木漏れ日が差し込む細い道。
智美が一度だけ後ろを振り返ると、自分が現れた場所には、もう空間の歪みも光も残っていなかった。ただ静かな森だけが広がっている。
智美は胸の前で小さく手を握った。
(雅人……結以……)
二人も無事でいて。
そう願いながら、智美はフィリアとピートの後を追って森の中の小道を歩き始めた。メリルも虹色の羽根を羽ばたかせて空を飛びながら、フィリアの後について行った。




