第一章・異世界エルメアへ(その1)
ゴールデンウィークを過ぎた五月の抜けるような青空からは、すでに汗ばむほどの陽気が降り注いでいた。校庭の木々も若々しい緑に染まり、その梢をなでるそよ風が心地よく感じられた。それは何の変哲もない、初夏の一日に過ぎなかった。
小学校の五年二組の教室は、この日の授業が終って先生も職員室に引き上げ、児童たちも帰宅の準備を始めてあわただだしい喧噪のひとときを迎えていた。児童たちは皆、放課後の遊びや習い事などの話で持ちきりだった。その中で、吉永智美も教科書やノートをきちんとまとめて赤いランドセルにしまい、帰宅の途につこうとしていた。
智美の装いは、スカートの裾にフリルのついた淡いブルーのワンピース。彼女が背負っている赤いランドセルも、ランドセルの色がカラフルになった昨今ではかえって目立っていたが、智美本人はむしろこの赤いランドセルが気に入っていた。
そのとき、智美の背後から声をかける者がいた。
「智美、一緒に帰らない?」
智美に声をかけた、黒髪を肩まで垂らしたおとなしそうな見た目の、少し控え目な感じのする少女の名は真城結以。彼女はラベンダー色のランドセルを背負い、服装も同じ系統の色のカーディガンにスカートと上品で落ち着いた装いでまとめている。
結以に声をかけられて、智美も笑顔でそれに応えた。
「宿題多かったねえ…」
智美が不満そうな顔をすると、結以がそれをなだめた。
「そうよね。算数のプリント三枚はちょっと多すぎるよ」
「でも結以ってやっぱりすごいじゃない。ほとんど答え合ってたんだから。でも結以は今日は塾がないから一緒に帰れるよね」
そんな話をしながら、二人が教室を後にしようとしたときだった。
「あの…」
教室の窓際の方から、そっと呼び止めるような声が聞こえた。
智美と結以に声をかけたのは、二人と同じクラスの幡川雅人。雅人はさらに遠慮がちに言葉を続けた。
「…ぼくも一緒に帰っていい?」
その雅人の控え目な表情を見て、智美と結以はお互いに顔を見合わせた。
雅人はクラスの男子の中でも、どちらかと言えばおとなしい方だった。休み時間も教室の片隅か図書室で本を読んでいることが多く、男子グループの騒ぎの中に加わることはあまりない。
雅人の顔を見るなり、智美は元気よく声を上げた。
「雅人、何遠慮してるのよ。いいに決まってるじゃない。雅人はもっと元気出した方がいいよ」
その智美の言葉を聞いて、雅人は少し安心したように表情をゆるめた。このように智美と雅人の関係は、弱気で遠慮気味な雅人を活発な智美がリードすることもしばしばだったが、そのたびに結以はそれをニコニコしながら見守っていた。
三人が並んで教室を出たときには、廊下に夕方前の光が差し込み、窓ガラスがオレンジ色に染まり始めていた。
「そういえばさ」
結以がふと思い出したように雅人に話しかけた。
「昨日のゲーム、あのボス倒せた?」
「あーっ、……まだ」
「えっ、雅人まだなの?」
「だ、だって強いんだよ、あれ……」
結以がきょとんとしていると、雅人は困ったように笑った。
智美はそんな二人のやりとりを聞きながら、なんとなく楽しい気持ちになっていた。
智美と雅人、結以の三人は、家も近所で幼稚園の頃からの知り合いどうしであり、登下校の時も一緒になることが多かった。結以もどこか内向的でおとなしく、女子たちのグループに積極的に関わる方ではなかったが、むしろそれだからこそ雅人とも気が合うのかもしれない。
しかし智美は、そのような結以や雅人に対しても持ち前の明るく元気な性格で親しく接していた。こうやって学校が終って、ただ友達と一緒に帰るだけの、特別な日でも何でもない時間こそが、智美にとってかけがえのないひとときだった。そのときの智美は、自分が雅人や結以といつまでも一緒にいられるように感じていた。
三人が校舎の玄関で上履きをスニーカーに履き替え、校庭に出ると夕焼けが広がり始めた空の下、サッカーをしている男子たちの声が響いていた。そこで智美はふと夕空を見上げた。
「今日はあったかいね」
「もうすぐ夏だもんね」
結以も空を見上げながら、ふと息をついた。その視線の向こうには、青空の中に夕焼けに染まり始めた雲が浮んでいた。
そのときだった。
——キィン。
智美の耳の奥に、金属が擦れるような妙な音が響いた。
「……え?」
智美が立ち止まる。それは智美がこれまでに感じたことがなかったような、全身がぞくりとするような感触だった。
結以も顔をしかめていた。
「今、なんか聞こえなかった?」
智美が不安げな表情で問いかけると、結以も明らかに動揺の色を浮べていた。
「う、うん……」
雅人も不安そうに周囲を見回している。
しかし三人が本当に息を飲んだのは、次の瞬間だった。校庭の空間が、水面のようにぐにゃりと歪んだ。
「え……」
それでも三人が驚きうろたえる余裕はなかった。夕焼けの景色の真ん中に、黒い亀裂のようなものが走り、みるみるうちに広がっていった。そしてその奥に、見たこともないような風景が広がった。
――夕暮れとも違う奇妙な光に照らされた、遠くに浮ぶ巨大な塔。
智美がぞくりとしながら息を呑むと、次の瞬間に強烈な風が吹き荒れた。
「きゃっ!」
「智美!!」
結以が叫ぶと同時に、雅人も何か言おうとした。だが三人の声は風にかき消された。
世界が白く染まり、三人は思わず目がくらんでしまった。そして三人の身体は、光の渦の中へと呑み込まれていった。




