解放先が判明して、タリス先生が動いて、そして私の正体がバレた件
一
八日目の朝、桐子は授業の前に鏡を見た。
毎朝の確認作業だ。
顔は人間だった。黒髪、二十代、少し小柄。
ただ、目の色が——昨日より少し、青みが強い気がした。
(気のせいやと思いたい)
人化の維持限界が近づいているサインだと、アルジェに教わっていた。精霊力の消耗が蓄積すると、人化の「解像度」が落ちていく。細部から崩れ始める。目の色、爪の形、声のわずかな低さ——
(昨夜、精霊力炉の部屋に入ってた時間が響いてる。あの空間、精霊力を引っ張られる感覚がきつかった。体内の精霊力がいつもより多く消耗した)
(残り八日。持つか? 持たせる。持たせるしかない)
ルディアが後ろからひょいと顔を出してきた。鏡に二人の顔が並ぶ。
「何してるの、鏡に向かって真剣な顔して」
「確認していました」
「何を?」
「顔が正常かどうか」
「——普通に失礼な自己評価だね?」
「そういう意味ではないです」
(そういう意味やねんけど、説明できへんので黙っておく)
「冗談だよ」とルディアは笑った。「でも最近顔色悪いのは本当だから、今日は朝ごはんちゃんと食べようね」
(……食べるふりをちゃんとしろということやな。気にかけてもらえてるのはありがたいけど、食べるふりにこんなに気を遣われる日が来るとは思わんかった。前の世界での私に教えてあげたい。でも何も解決しない情報やな)
二
朝食の席で、ルディアがそっと折り畳んだ紙を桐子に渡した。
「お父さんから、追加の手紙」
桐子は紙を開いた。
内容は短かった。
「帝国魔法管理局が、先月、北部国境沿いの廃村を複数購入している。理由は不明。関連部署への問い合わせは全て「機密事項」として返答がない。気をつけろ」
(北部国境沿いの廃村を購入。「機密事項」として返答拒否)
桐子は紙を読み返した。
(精霊力炉が収集した精霊力を「どこかに送り出している」とタリス先生が言ってた。その送り先が——)
「ルディア」と桐子は小声で言った。「北部国境の地理を、知っていますか」
「少しは。お父さんが昔、北部に赴任していたことがあって。なんで?」
「廃村の場所と、精霊力の流れが繋がっているかもしれません」
ルディアが少し考えた。
「北部国境って、敵国のヴァルガ帝国と接してる地域だよ。最近また緊張してるって聞いてた」
(ヴァルガ帝国。敵国との国境に廃村を購入。精霊力炉が稼働している。繋がった)
(精霊力を送り出してる先が、国境の向こう側——あるいは国境地帯の廃村の何かに繋がってるとしたら)
(これ、帝国内部の問題やない。外国が絡んでる)
桐子の頭の中で、ピースが一枚、重なった。
(精霊力を国境越えに送り出すシステムを三年かけて作った。でも誰が得をする? ヴァルガ帝国が精霊力を受け取って何に使う? 精霊力は軍事利用できる——百年前の戦争がそれを証明してる)
(つまりこれは、帝国内部の誰かが、敵国と共謀して——)
ソルに伝える必要がある。
桐子は食堂の向こう側を見た。
ソルが一人でパンを食べていた。その横に、今日は見慣れない学生が座っていた。ソルと何か話している。
(あの学生——昨夜の四人の一人や。気配が一致する)
(第三の勢力の一人が、ソルに接触してる)
桐子は立ち上がった。
「ちょっと待って、朝ごはんまだ——」というルディアの声を背中に聞きながら、食堂を横切った。
(食べるふりをする必要がなくなった。怪しまれるかもしれへんけど、今はそれどころやない)
「ソル、おはようございます」と自然な声で言いながら、隣の席に座った。
ソルが桐子を見た。目が一瞬、「気づいているか?」と問いかけた。
桐子は微小に頷いた。
「あ、キリアじゃん」とその「学生」が言った。「同じクラスだよね。ガリンっていうんだけど、よろしく」
「キリアです。よろしく」
(ガリン。年齢が合わへん。二十代後半か三十代前半。精霊力の抑制が人工的や。訓練を受けてる)
(でも一流やない。私が感知できるレベルで気配を残してる。昨夜の四人の中では、おそらく下の方の実力や)
「ソルって物知りそうだから聞いてたんだけどさ」とガリンが続けた。「先生の出欠確認って、体調不良でも厳しい?」
「普通に欠席届を出せばいい」とソルが答えた。
「そっかー。あと、地下の倉庫って使えたりする? 資料を保管したくて」
(地下の倉庫、と言った。これは探りや。昨夜地下に誰かが入ったことを把握してて、それが私たちかどうかを確認しに来てる)
「倉庫は申請が必要だと思います。教員に確認してみては?」と桐子は言った。
「あー、そうかー。難しいね」
ガリンがすぐに立ち上がった。
「じゃあまた。二人ともよろしくー」
去っていく背中を見送った。
(いなくなった。でも情報は取れた。昨夜の件に気づいてて、探りを入れてきた。証拠はないから直接的な行動には出てへん)
「昨夜の四人の一人だな」とソルが静かに言った。
「そうです。地下のことを探りに来た」
「俺たちが入ったことに気づいているか?」
「確信はしていないと思います。探りを入れているということは、まだ把握しきれていない」
「第三の勢力は、俺たちを監視しながら、同時に地下の装置も監視している」
「二方向を同時に見ている。リソースが分散している」とソルが言った。「——好都合だ」
「同意します」
(焦ってる人間はミスをする。分散してる勢力は連携が甘くなる。そこが付け入る隙や)
ソルが少し間を置いた。
「キリア、一つ確認がある」
「はい」
「俺の正体について、何か感じているか?」
(来た。この質問、いつか来ると思ってた)
桐子は少し考えた。
(感じていること、というのはある。ソルの物事の判断の基準が、一般市民のそれとは少し違う。知識の範囲が広すぎる。帝国の行政構造についての理解が深すぎる。そして時折、言葉を選びすぎる場面がある——まるで、うっかり本当の立場を口にしないように、気をつけているかのように)
「何かは感じていますが」と桐子は言った。「詮索するつもりはありません。私も、言えないことがありますから」
ソルが桐子を見た。
「——公平だな」
「お互い様です」
(お互い様、か。私はドラゴンで、あなたは——何者か。でも今はそれより、目の前の問題や)
少しの間があった。
「信頼している」とソルは言った。短く、しかし真剣に。
「私もです」と桐子は答えた。
(こういう会話、前の世界では苦手やった。研究の話以外で人と向き合うのが得意やなかった。でも今は——自然に言えた。ドラゴンになって、人間に戻って、なんか変わったんかな私も)
三
午後、タリス先生の研究室に向かった。
ルディアのお父さんからの情報——北部国境の廃村と帝国魔法管理局の動き——を先生に伝えた。
先生は話を聞きながら、少しずつ顔色が変わっていった。
「北部国境か」と先生は言った。
「心当たりがありますか?」
「——ヴァルガ帝国との間に、三十年前に締結された「精霊力不可侵協定」がある。互いの国境地帯での精霊力兵器の開発・使用を禁止する条約だ」
(精霊力不可侵協定。それを破ろうとしてる者がいる)
「その協定が、破られようとしている可能性がある?」
「条約を破れば、開戦理由になる。ヴァルガ帝国側から見れば——大量の精霊力を武器として送り込まれれば、それに対して軍事的に応じる大義名分ができる」
「つまり、精霊力炉の目的は——」
「戦争を、引き起こすことかもしれない」
部屋が静かになった。
(戦争。帝国内部の誰かが、敵国と共謀して、戦争を引き起こそうとしてる。なんのために? 権力か? 帝国を混乱させて、その隙に何かを得ようとしてる者がいるということか)
(精霊力でエネルギーを補って生きるドラゴンにとって、精霊力が戦争の道具にされる世界は——存在そのものへの脅威や)
桐子は窓の外を見た。帝都の空は今日も青い。何も知らない学生たちが中庭を歩いている。普通の学校の午後だ。
「先生」と桐子は言った。
「なんだ」
「動いてほしいんです。今日、今すぐ」
先生が桐子を見た。
「タイムリミットが」
「ある、と言っていたな」
「精霊力炉の稼働限界と——それとは別の理由で。あと八日です」
「八日で、何をしろというんだ」
「学長に話してほしいんです。先生が持っている証拠と、今日私が話した情報を全部。学長を信頼できると言っていましたね」
「信頼できると思っている、だ。確証はないと言った」
「わかっています。でも先生、一人で動けない状況が続く限り、あの地下の装置は動き続けます。あの部屋の中の個体たちは——」
桐子は言いかけて、止まった。
(感情が来てる。抑えろ。人化が——)
(大丈夫。静かな怒りや。爆発させへん。ただ、先生に伝えたい)
「——連れ出したのか」と先生は静かに言った。
「……はい」
先生が長い間、黙っていた。
研究室の時計が、静かに刻んでいた。
「学長への面会申請を、今日中に出す」と先生は最後に言った。「面会は明後日以降になるだろうが——動く。お前の言う通り、これ以上待てない」
「ありがとうございます」
「感謝は後でいい」と先生は言って、初めてほんの少し表情を緩めた。「証拠になりそうなものを、全部整理しておけ。学長への説明に使う」
「ルディアのスケッチがあります。ソルが錠の解析記録を取っています。私の観察記録もあります」
「三人で入ったのか」
「……はい」
「呆れた学生たちだ」と先生は言った。
(声は呆れてたけど、顔はそうでもなかった。この先生、感情が顔に出えへんようで、たまに出る。それがわかるようになってきた。三週間、通い続けた成果や)
四
事態が動いたのは、翌日の夕方だった。
自習時間に図書室で三人揃って——偶然を装って、三か所に分かれて座りながら、実際は情報を共有しつつ——作業をしていた時、ルディアが手元の本のページを見ながらさりげなく呟いた。
「ねえ、誰かに見られてる」
桐子は本から目を上げずに感知した。
図書室の奥、書架の影に誰かいる。
(気配の特徴を読む。監視者でも、ガリンでもない。学校の人間や。精霊力の抑制がない。ただ、気配を消そうとしてる。うまくはない)
何気ない動作で書架の方向に視線を向けた。
一瞬、目が合った。
フィン先生だった。
禿頭に白い顎鬚の、自然精霊学の先生。いつもの穏やかな先生が、書架の影でこちらを見ていた。
目が合った瞬間、先生は慌てたように視線を外して、手元の本をめくるふりをした。
(……)
(先生、見張り方が下手すぎる)
(体が書架からはみ出てるし、手元の本は逆さまやし、なんで隠れようとしてる人間が一番目立つ位置にいるんや。研究者として観察は専門のはずやのに)
桐子はそっとソルに目配せした。
ソルがフィン先生の方を確認して、小さく眉を上げた。「何あれ」という顔だった。
(二人の意見が一致した。あれは確かにおかしい)
図書室の閉館時間まで、フィン先生はずっとそこにいた。
(……先生、本当にずっとおった。体力があるのか、使命感があるのか。多分後者や)
五
翌朝。
自然精霊学の授業の後、フィン先生が「キリア、残りなさい」と言った。
他の学生が出ていってから、先生はしばらく黒板の文字を消す作業を続けた。
(間があるということは、言葉を選んでる。この先生にしては珍しい。普段は思ったことをそのまま話す人やのに)
それから振り向いて、桐子を見た。
「昨日は図書室で失礼した」と先生は言った。
「いえ」と桐子は答えた。「なにか、ご用でしょうか」
「——うまく言えないのだがな」と先生は頭を掻いた。「お前たちが、何かを調べているのはわかっとる。タリス先生とも話しているようだし」
「勉強熱心なだけですが」
「そういうことにしておく」と先生はあっさり言った。
(この先生、素直やな。誤魔化しに乗ってくれた)
「ただの一点だけ聞かせてくれんか」
「はい」
「精霊力が、この学校で薄くなっとるのに、お前は気づいているか?」
「……気づいています」
(気づいてます、どころやない。私にとっては食事が薄くなってるのと同じことやから、毎日肌で感じてる)
「わしも気づいとる。三年前からだ。自然精霊学の観点から見れば、これは由々しき問題でな。動植物への影響が出始めとる。中庭の花壇、最近元気がないだろう? 花の色が薄くなっとる」
(そういえば、入学式の頃に咲いていた薄紫の花が、最近見当たらない。あれも精霊力が薄くなった影響か)
「わし自身は魔法の理論には疎くてな。ただ生き物への影響については人一倍わかる。妖精族が近くにいると精霊力が活性化するのを長年観察してきたし、逆に精霊力が薄い環境では彼らがどうなるかも——」
先生が言葉を切った。
「——先生」と桐子は言った。「妖精族について、詳しいですか」
「それが専門だからな。四十年、研究してきた」
「妖精の種族の中に、精霊力が著しく高い個体がいますか。成体で、通常の妖精の数倍の精霊力を持つような」
先生の顔が変わった。
(この反応、知ってる。研究者として、自分の専門分野の核心に触れられた時の反応や。この先生、あの精霊媒体の妖精のことを知ってる可能性がある)
「——何を見た?」
「見た、というより——会いました。昨夜から、元気が出てきています」
先生が椅子に座った。ゆっくりと、重力に従うような動きで。
「精霊力が著しく高い妖精というのは、精霊族の中で「精霊媒体」と呼ばれる特別な個体でな。百年に一人生まれるかどうかの稀少な存在だ。精霊力の循環を安定させる働きを持っていて——精霊力炉のような装置に閉じ込めれば、強制的に精霊力を増幅させるための触媒として使われる可能性がある」
(触媒。精霊力炉の出力を安定させるために、精霊媒体の妖精が使われてた。だから他の妖精と精霊力の質が違ったんや。あの個体は、装置の核心部分にいた)
「先生、私から一つお願いがあります」
「聞こう」
「あの妖精を、診てもらえますか。状態を確認してほしい」
先生が桐子をしばらく見た。
「——場所を教えてくれるか」
「今夜、部屋に来てください。二〇八号室です」
「女子寮に教員が深夜に来るのはルール違反だぞ」
「寮則第四十二条に「緊急かつ教育的必要性がある場合は寮監の許可を要するが、当該許可を事前に得られない緊急時はこの限りでない」とあります」
先生が目を丸くした。
「……寮則、全部暗記しとるのか」
「入学前に読みました」
(入学前に全部読んで、抜け穴を全部把握したんやけど、それは言わへんでおく)
「変な子だな」と先生は言ったが、顔は笑っていた。「わかった、今夜行く」
六
フィン先生が部屋に来たのは、消灯後の一鐘頃だった。
三人が部屋にいた。ルディアとソルと桐子。ソルは非常時ということで女子棟への立ち入りを桐子が判断した。
(寮則第四十二条、二回目の活用。「緊急かつ教育的必要性」という解釈はだいぶ強引やけど、今はそれどころやない)
先生は妖精と幼体を見た瞬間、ひゅっと息を吸った。
妖精媒体を丁寧な手つきで調べた。精霊力の状態、翅の張り、目の色。
「回復しとる」と先生は言った。「精霊力収集式から離れて、自然の環境に戻っているからだ。ただ、完全回復には——まだ時間がかかる」
「この学校にいる限り、精霊力の薄さが回復を遅らせますか」
「そうだ。本来は精霊力の豊かな自然の中に置かねばならん」
(学校の精霊力が薄い限り、この子たちの回復も遅れる。私自身の人化の消耗も続く。精霊力炉を止めるのが最優先や)
次に先生はドラゴンの幼体を見た。
幼体はちょうど目が覚めていて、先生の禿頭をじっと見つめていた。
「幼竜か」と先生は静かに言った。「こんな小さい子が——」
ここで幼体が突然、先生の禿頭めがけて小さな前肢を伸ばした。
つんつん、と叩いた。
「あっ、こら」とルディアが慌てた。「ごめんなさい先生、悪意はないと思うんですけど」
「かまわん、かまわん」と先生が穏やかに笑った。「好奇心があるということは、元気が出てきた証拠だ」
幼体がもう一度、つんつんした。
「つるつるしてるのが不思議なんでしょうね」とルディアが言った。
「わしも長年そう思っとる」と先生が言った。
(……この光景)
(深刻な状況の真っ只中に、禿頭をつんつんしてるドラゴンの幼体と、穏やかに笑ってる老先生と、うろたえてるルディアがいる)
(なんか、力が抜けた。いい意味で。こういう瞬間が、世界の終わりみたいな問題の隣にちゃんと存在してる)
(笑ったら人化が揺らぐかもしれへんから、笑わへん。でも笑いたい。これは「大きな喜び」に分類されるのか「静かな温かさ」に分類されるのか際どいライン)
「フィン先生」とソルが言った。「この子たちを、安全な場所に移す必要があります。この学校の外に」
「タリス先生には話しているのか?」
「学長への面会を昨日申請すると聞いています」
「わしからも動こう」と先生は言った。「学長とは旧知でな。わしから話を通せば、面会が早まるかもしれない」
「お願いできますか」
「これだけのものを見てしまっては、動かないわけにはいかんだろう」と先生は幼体を見ながら言った。
「研究者の性分というもので」
(研究者の性分、か。その言葉、わかりすぎるくらいわかる)
幼体がまたつんつんした。
「——わかった、つるつるだ。認める」と先生は幼体に向かって真顔で言った。
ルディアが噴き出した。
ソルが珍しく、口の端を上げた。
桐子は笑わなかった。
(笑ったら人化が揺らぐので)
(でも正直に言うと、笑うのを我慢するのに今夜一番エネルギーを使った。研究者として本末転倒すぎる告白や)
七
翌日の昼過ぎに、タリス先生から桐子に伝言が来た。
授業の休憩中に、廊下で先生とすれ違いざまに言われた。
「今日の午後三鐘、学長室へ来い。フィン先生も来る」
それだけだった。
(フィン先生が動いてくれた。学長への面会、早まった)
桐子はソルとルディアに伝えた。二人も同席するかどうかを確認したが、タリス先生の伝言には「お前」とあった。
「大丈夫か?」とソルが聞いた。
「大丈夫です。ただ——」
「ただ?」
「学長が何を知っているか、まだわかりません。もし予想外の方向に転んだ場合は——ソル、即座に動いてください」
「何を?」とソルが言った。
「あなたが持っている連絡手段を使って」
ソルが、一瞬だけ目を細めた。
「——俺が、特別な連絡手段を持っていると思うのか?」
「思います」と桐子は静かに言った。「確認はしません。ただ、いざとなれば使えるものは使った方がいい」
(これは勘やない。観察の結果や。ソルの判断の速さ、情報の深さ、この状況への対処の的確さ——全部が「準備してきた人間」のそれや。そして「学外との連絡手段を持っている」という推測は、かなり高い確度がある)
ソルが少し間を置いた。
「……善処する」と言った。
(善処する、か。否定はしなかった。肯定もしなかった。この人らしい答えや)
八
午後三鐘。
学長室の扉は、重い木製だった。
ノックして、入った。
学長室は広かった。整然とした書棚、大きな執務机、窓から帝都が見える。学長が机の向こうに座っていて、タリス先生とフィン先生が両側に立っていた。
「キリア、だったかな」と学長が言った。
「はい」
「座りなさい」
桐子は椅子に座った。学長はしばらく桐子を観察するような目で見ていた。
(この目、入学式の時に感じた「知ってる人の目」や。タリス先生とは違う種類の鋭さがある)
「タリスとフィンから話を聞いた」と学長は言った。「地下に何があるかは——私も知らなかった」
「本当にですか」と桐子は言った。
タリス先生が眉を上げた。
(学長に直接問い返すのは失礼かもしれへんけど、今は確認が必要や。ここで誤魔化されたら全部狂う)
学長は怒らなかった。
「本当だ。三年前に帝国から「研究施設を設置する」という通達が来た時、詳細は開示されなかった。国家機密という扱いで、立ち入りを禁じられた。疑問はあったが——私の立場では、帝国の命令を無下にはできない」
「疑問を持ちながら、見過ごしていた」
「そういうことになる」と学長は言った。声に、苦さがあった。「それが今の状況を招いた一因でもある。申し訳なかった」
(学長が学生に謝罪する。これは建前やない。本気で後悔してる顔や)
「キリア」と学長は続けた。「お前が持っている情報を、全部話してほしい」
桐子は話した。
精霊力炉の存在と構造。収集した精霊力の送り先が北部国境方向である可能性。帝国魔法管理局の三年前の人事異動。ドーゲル・ハインという名前。廃村の購入。精霊力不可侵協定。
学長の表情は、話が進むにつれて変わっていった。
最後に桐子が言った。
「ただし、これを動かしている者の中枢が誰なのかは、まだわかりません。帝国魔法管理局のトップが関与している可能性はありますが、その背後に誰がいるのかは——」
「それについては」と学長が言った。「私にも、心当たりがある」
全員が、学長を見た。
「帝国の内部で、ここ数年、権力の均衡が崩れ始めている。皇位継承に絡む動きが、複数の方向から起きている。その中の一つが——おそらく、これと繋がっている」
(皇位継承)
桐子は何も言わなかった。
(ソルのことを思った。ソルが「特別な連絡手段を持っている」と思った根拠に、もう一つ加わった。皇位継承に絡む動きの中にいる人間が、この学校に調査に来ていたとしたら——)
(でも今は、その話は後や)
「学長」と桐子は言った。「あと七日です」
「七日で何が起きる?」
「詳細は言えませんが——外部の勢力が、動き出します。その前に、帝国側から動いてほしい」
「外部の勢力とは」
「言えません」
学長が桐子を見た。長い間、見た。
(この沈黙、圧がある。でも目を逸らしたらあかん。ここで引いたら信頼を失う)
「——お前は、人間か?」
部屋が、静かになった。
タリス先生が、息を呑む気配がした。
(来た。この質問、いつか来ると思ってた。でも学長から来るとは思わんかった。タリス先生でもフィン先生でもなく、学長から)
桐子は答えなかった。
「答えなくていい」と学長は静かに言った。「ただ、一つだけ言わせてもらう。私は長年この学校で教えてきて、色々な学生を見てきた。お前のような精霊力の感知精度を持つ人間には、会ったことがない」
「……」
「それと、お前の精霊力の色は青だ。人間の魔法師の色ではない」
(鋭い。タリス先生も気づいてたけど、学長は最初から気づいてたんやろな。入学式から、ずっと)
「この学校は、色々な者に開かれているべきだと、私は思っている」と学長は続けた。「何者であっても、学ぶ意志がある者には」
(これは——許容してくれてる、ということか。詳細を聞かずに、受け入れてくれてる)
(なんで)
(……理由は後で考える。今は言葉を受け取る)
「——ありがとうございます」とだけ言った。
九
学長室を出た。
廊下を歩きながら、桐子は頭を整理した。
(学長は気づいている。確信まではないやろうけど、ほぼわかってる。そして——追及しなかった。受け入れてくれた)
(信頼されたのか、様子を見られてるのか、判断がつかへん。でも今は、動いてもらう方が優先や)
廊下の角を曲がったところで、人とぶつかった。
「あ、ごめん、キリア?」
ガリンだった。
(また出てきた。今度はどんな探りや)
「大丈夫ですよ。どこかへ?」
「ちょっとそのへん散歩。キリアこそ、こんなとこで何してたの」
「教員へ質問がありまして」
「えー、真面目だね。俺、授業の質問とか行ったことないよ」
「そうですか」
(この人の「真面目だね」という言葉、額面通りに受け取るわけにはいかへん。何かを探ってる)
「ところでさ」とガリンが言った。「最近、なんか変なこと気になってない?」
「変なこと?」
「なんか、精霊力が薄くなってる気がしてさー。俺、感知は得意な方じゃないけど、さすがにこれはわかるなーって」
「そうですね」と桐子は言った。「入学した頃より薄い気がします。帝都の位置的なものでしょうかね」
「あー、そういうこともあるか」とガリンは言った。「じゃ、またね」
(去っていった。精霊力が薄くなってることを、この人も把握してる。第三の勢力も、精霊力炉の影響を認識してるということや)
(そして——第三の勢力の目的が、少しずつ見えてきた気がする。向こうも精霊力炉を問題視してる。ただし装置を作った側の人間やない。ということは——止めようとしてる側か?)
(まだ断定できへん。でも可能性として頭に置いておく)
十
その夜、部屋でルディアと話していた時だった。
幼体が毛布から這い出てきて、桐子の膝の上に乗っかった。
「あ、また膝派になってる」とルディアが言った。「今日はキリアの番だ」
「番、というシステムはいつできたんですか」
「勝手に決めた。昨日は私の膝で一時間寝てたから、今日はキリアので」
(そんなシステムが。知らんかった)
幼体はしばらくしてごそごそと動き、桐子の服の隙間に頭を突っ込もうとした。
「——何してるんや、お前」
(「お前」という呼び方、これも関西弁混じりになってる。ドラゴン語に方言はないやろうけど、私の内側から出てくる言葉は関西弁になるらしい)
桐子が小声でドラゴン語で言うと、幼体が顔を上げた。
その顔が——にたっとした。
(笑った。この子、笑った? ドラゴンの幼体が笑うかどうかは知らんけど、明らかに意図的な顔やった)
「もしかして笑った?」とルディアが言った。
「……気のせいだと思います」
(気のせいやない。絶対笑ってた。でも認めたら「かわいい」ループが始まるので気のせいということにする)
幼体が再び服に頭を突っ込もうとした。桐子は阻止した。幼体が不満そうな声を出した。
「名前、つけてあげた方がいいと思うんだけど」とルディアが言った。
「本名があるはずです。ここを出たら、わかります」
「じゃあそれまでの仮名。なんかない?」
桐子は幼体を見た。青緑の鱗。好奇心旺盛な目。禿頭をつんつんして、服に潜ろうとする。
(名前か。仮名とはいえ、適当につけるのも申し訳ない気がする。でも——)
(ミトとかは? 由来はない。でもこの子の雰囲気に合ってる気がする)
「——ミトとかは?」
「ミト! いいじゃん、かわいい」
ミトが顔を上げた。
(呼ばれたことがわかったのかどうかは不明やけど、反応はした。気に入ってくれたならよかった。いや気に入ったかどうかも不明やけど)
「よかった、気に入ってもらえたみたい」とルディアが言った。
「気に入ったかどうか、根拠がないですが」
「直感だよ直感」
ルディアが少し真剣な顔になった。
「でねキリア、一個だけ言っていい?」
「どうぞ」
「今夜、学長室で何があったかは詳しく聞かない。でも——キリアが人間じゃないこと、私は前から薄々わかってたよ」
(……来た。この話、いつか来ると思ってた。でも今日来るとは)
桐子の動きが止まった。
「精霊力の色は青だし、錠を感覚で解くし、ドラゴン語話せるし、ミトに懐かれてるし」とルディアは続けた。「あと、感情が高ぶる時、たまに手の甲がきらっとする気がしてた」
(手の甲がきらっとする。あの自然精霊学の授業の時、ルディアは手元を見てへんかったと思ってたけど——見えてたんや。この子の観察眼、私の下を行くと思ってたけど、全然そうやない)
(どうする。否定するか、認めるか)
(いや——ルディアは「だから何?」って言うために話してくれてる。攻撃的な確認やない。これはそういう話や)
「——気づいていたなら」
「だから何? っていう話だよ」
ルディアがまっすぐ桐子を見た。
「キリアがキリアだってことは変わらないじゃん。一緒に地下に入って、一緒に考えて、私が眠れない夜に話してくれた、それが全部本物だったでしょ」
「……そうです」
(そうや。全部本物やった。私にとっても、本物やった)
「なら十分」
(この子、本当に真っ直ぐやな。見返りを求めへん。条件をつけへん。ただ事実を見て、判断して、受け入れてくれた)
(……人化が揺らぎそうになってる。でもこれは「大きな喜び」やなくて——もっと深いところの、静かな感情や。安心、とでも言うのか。久しぶりに、誰かに本当の自分を受け入れてもらえた感覚)
(落ち着け。揺らがせへん。大丈夫や)
「ルディア、いつか話します。全部」
「知ってる。約束したもんね」
ミトが桐子の膝の上で丸くなり始めた。
部屋は静かだった。
外の帝都の夜が、窓から見える。
(七日後のことを考えた。ヴェルドラに報告する。証拠を持って。タリス先生と学長が動いてくれる。フィン先生がいる。ソルが——何かを持ってる)
(全部が揃うかどうかは、まだわからへん)
(でも、一人やない。最初にガレアスに助けられた夜から、ずっとそうやった。一人では、ここまで来られへんかった)
ミトの小さな呼吸が、掌に伝わってくる。
(この重さを守る。それだけは絶対や)
十一
そして六日目の夜。
予想外のことが起きた。
ガリンが、突然ソルに接触してきた。
ソルから桐子への伝言は短かった。
「——俺の正体が、バレた。本名で呼ばれた」
(本名で呼ばれた? ということは——)
その夜遅く、図書室で三人が集まった。
ソルが静かに言った。
「ガリンは第三の勢力の人間だ。そしてその勢力は——俺が誰かを知っている」
「どこまで知っているんですか」とルディアが聞いた。
「皇子だということを、知っていた」
ルディアが目を丸くした。
「皇子?」
(来た。ついに来た。この瞬間、いつか来ると思ってた)
「——第三皇子だ。本名はソルガーヌ・ヴァルティア」
(第三皇子。ソルガーヌ・ヴァルティア。——全部、繋がった。判断の速さも、情報の深さも、帝国の行政構造への理解も、全部説明がつく)
(私が「特別な連絡手段を持ってる」と思ったのも、正解やった。皇子が持ってへんわけがない)
桐子は何も言わなかった。
(驚いてる。驚いてるけど——ソルはソルや。一緒に地下に入って、一緒に考えて、「悪くなかった」と言った人間や。それは変わらへん)
「なぜここに?」
「兄上——第一皇子の命で、調査に来ていた。帝国内部で何かが動いているという情報があって、その実態を掴むために」
「第三の勢力というのは」
「第一皇子派閥の、情報部門だと思われる。俺の安全確保のために動いていた可能性が高い」
「あなたを守るために、監視していた?」
「そういうことになる。——皮肉なことに」
(見守ってた、というより、把握してた。皇子が危険な場所に潜り込んでるから、距離を置いて監視してたんやな)
桐子は整理した。
(第三の勢力の正体は、第一皇子の情報部門。ソルを守るために動いてた。そして精霊力炉に関わってる勢力は——帝国内部の別の誰かや)
「第一皇子派閥と、精霊力炉を動かしている勢力は別ですね」
「そうだ。精霊力炉に関わっているのは——兄上の情報によれば、帝国内で力を伸ばしている別の派閥がある。その派閥が、外部の国と繋がって動いている可能性がある」
「その派閥とは」
ソルが少し間を置いた。
「——まだ確定していない。だから俺は調査に来ていた」
(まだわからへん。でも——皇位継承に絡む、帝国内部の別の派閥。学長が言ってた「権力の均衡が崩れ始めてる」という話と一致する)
「ガリンに、何を話しましたか」
「俺が把握している情報を、概要だけ。詳細はお前たちに関わるため、伏せた」
「ガリンの反応は?」
「——驚いていた。精霊力炉がここまで進んでいるとは思っていなかったようだ」とソルは言った。「それと、一つ伝言がある」
「なんですか」
「「あと六日待てる」と言っていた」
(ヴェルドラのタイムリミットと、第一皇子情報部門の動きが、同じ六日に収束しようとしてる)
(これは偶然やない。第一皇子の情報部門も、同じタイミングで動こうとしてる。つまり——向こうも証拠が揃いつつある)
「ソル」と桐子は言った。
「なんだ」
「あなたの本名を、これからも「ソル」と呼んでいいですか」
ソルが少し面食らったような顔をした。
(予想外の質問やったか。でも、これは聞いておきたかった。名前って大事やから)
それから、少しだけ力が抜けた表情になった。
「——ああ」と言った。「その方がいい」
「わかりました」
(ソルはソルや。それだけでいい)
「キリア」
「はい」
「お前も、いつか本当のことを話せる日が来るか?」
(ルディアにも同じことを聞かれた。この二人、似てるところがある。真っ直ぐに聞いてくるところが)
桐子は少し考えた。
「……絶対に来ます」とだけ答えた。
(絶対に来る。この問題が解決して、ヴェルドラの孫を返して、精霊力炉が止まって——その後に、ちゃんと話せる日が来る。来させる)
ルディアが「私への約束もあるからね」とそっと言った。
(知ってます。ちゃんと覚えてます)
図書室の魔法灯が、静かに灯っていた。
(六日後。全部動き出す)
(怖くないかと言えば嘘やけど、やる理由は最初からずっと変わらへん)
(放っておけないから、動く)
(それだけや)




