地下の全貌と、幼竜の重さと、最悪のタイミングで全部バレた件
一
決行日の朝、桐子は授業中ずっと、地下の間取りを頭の中で描き続けていた。
確認できているのは、階段を降りた先の倉庫廊下と、突き当たりの二重錠の部屋だけだ。しかし廊下の途中に、もう一本の分岐があったことを思い出していた。最初の夜、暗くてよく見えなかった。二度目の夜は、ソルとの逃走で確認する余裕がなかった。
(分岐の先に、何がある。わからんことが多すぎる。でも今夜やるしかない)
錬成魔法入門の授業で、教員のヴァルタ先生が何かを話しかけてきた。
「キリア、聞いていたか?」
「すみません、もう一度お願いできますか」
隣でルディアが小さく笑った。
(笑わんといて。でも聞いてへんかったのは事実やから反論できへん。授業中に別のことを考えるのは研究者の悪い癖や。自覚はある)
授業が終わって廊下に出たところで、ルディアが囁いた。
「大丈夫? 今日ずっと上の空だった」
「わかりましたか」
「わかるよ。考え事してる顔してた」
「夜のことを整理していました」
「私も考えてた」とルディアは言った。「お父さんからの返事、昨日来た」
(来た!)
「内容は?」
「帝国魔法管理局の人事について。三年前に大きな異動があって、その時に局長が変わったって。前の局長は突然辞任して、後任は——」ルディアは少し声を落とした。「ドーゲル・ハインという人物。元は帝国軍の魔法部隊出身だって」
(軍の出身者が、魔法管理局のトップに。三年前に)
「三年前の局長交代と、実験記録の開始が一致します」
「私もそこが引っかかった」
(繋がった。三年前に局長が変わって、同時に地下の実験が始まった。偶然やない)
「ドーゲル・ハイン」と桐子は頭に刻んだ。
(この名前、覚えておく。全部の糸がここに繋がってる可能性がある)
ソルにはすでに昨日の夜、今日の深夜三鐘が決行だと伝えてある。ソルは「準備は完了した」とだけ言った。
(問題はない。問題はないはずや。でも——何か見落としてないか、ずっと気になってる。研究者として「何か見落としてないか」という問いを消せへん)
桐子は自分にそう言い聞かせながら、午後の授業に向かった。
二
消灯の鐘が鳴った。
ルディアが布団に入った。しかしいつもより寝付きが悪いことは、桐子には気配でわかった。
(この子も緊張してるんや。当然やけど)
それでも一鐘が鳴り、二鐘が鳴る頃には、ルディアの呼吸が眠りの深さになっていた。
桐子はそっと起き上がった。
(今夜は服ではなく、動きやすい格好を事前に選んでいた。鞄に必要なものを入れてある。精霊力を収めた小さな灯り石が二つ。ソルに借りた錠解析用の道具。そして——小さな毛布を一枚、折り畳んで入れてあった)
(理由は、言わなくてもわかる)
扉を開けて廊下に出ようとした時、後ろで音がした。
振り向くと、ルディアが起き上がっていた。
「——やっぱり起きてた」と桐子は言った。
「最初から行くつもりだった」とルディアが言った。「キリアに止められても、別で動くつもりだったし、それより一緒にいた方がいいでしょ」
(この子、本当に真っ直ぐやな。止める言葉を考えたけど——こういう目をしてる時のルディアは、止められへん。それは三週間一緒にいてわかってきた)
「危ない」
「知ってる」
「本当に、何があるかわからない」
「だから一人で行かせられない」
(……負けた)
「——わかりました。ただし、私の指示に従ってください。何があっても」
「わかった」
二人で廊下に出た。
三
男子棟の連絡廊下の角で、ソルが待っていた。
ルディアの姿を見て、一瞬眉を寄せた。
「来た」
「止められなかった」と桐子は言った。
「止める気がなかったんじゃないか?」
「……半分はそうです」
(正直に言うと八割はそうやったけど、半分にしておく)
ソルが短く息を吐いて、「行くぞ」と言った。
三人で地下への扉に向かった。
桐子が先頭で精霊力の感知を続ける。ソルが後方を担当する。ルディアは中間で、できる限り精霊力の痕跡を消して歩く。
(ルディアの気配消しの精度、二週間でだいぶ上がった。この子の習得速度、改めてすごいな)
地下への扉の前に立った。
ソルが錠に手を当てた。
今夜は二週間前より早かった。一分かからずに三層が解除された。
(さすがや。完全に習熟してる)
扉が開く。
三人で地下に降りた。
四
倉庫廊下の薄暗さの中、桐子は前回見落としていた分岐を確認した。
廊下の中ほど、右側に折れる通路がある。幅は本廊下より狭い。先は暗くて見えない。
「こっちも見る必要がある」と桐子は小声で言った。
「どちらを先に?」とソルが聞いた。
「分岐を先に確認します。突き当たりの部屋の前に、全体の構造を把握しておきたい」
(全体像を把握してから動く。フィールドワークの基本や)
三人で分岐を入った。
通路は短かった。五メートルほどで、また扉が現れた。
錠がなかった。
(錠なし? 地下の奥に錠のない扉がある。これはどういうことや)
桐子とソルが目を合わせた。
桐子が扉に手を当てた。精霊力を感知した。この扉の向こうには——精霊力の気配は薄い。生き物もいない。ただ、機械的な何かが動いている気配がある。
(機械的な動き。定期的なリズムがある。これは——)
ゆっくりと扉を引いた。
部屋に入った瞬間、三人とも息を呑んだ。
広かった。
突き当たりの部屋の倍以上ある。石造りの空間の中央に、見たことのない構造物が鎮座していた。
高さは二メートルほど。複数の金属の筒が複雑に組み合わさって、中心部に向かって収束する形をしている。筒の表面には細かい術式紋様が刻まれていて、全体がかすかに青白い光を放っていた。
光は脈打っていた。
規則的なリズムで、まるで呼吸するように。
(……これが、精霊力炉や)
「これが」とルディアが呟いた。
「精霊力炉だ」とソルが言った。声が低かった。「動いている」
(動いてる。稼働中や。三年前から動き続けてる装置が、今この瞬間も脈打ってる)
桐子は構造物に近づいた。感知を最大にして、内部の精霊力の流れを読もうとした。
流れは——複雑だった。
(取り込んで、圧縮して、変換して、どこかに送り出してる。送り出してる先は、上の方向や。建物の上部に、術式の管のようなものが伸びてる。さらにその先——帝都の外まで繋がってるかもしれへん)
(ドラゴンの精霊力感知でこれだけ複雑に見える装置を、人間が三年前に設計したんか。いや、百年前の設計図があるって言ってたな。それを改良したんや)
「ルディア、これを記録できますか」と桐子は言った。
「術式紋様のスケッチなら。少し時間がかかるけど」
「お願いします。ソルは出口の警戒を」
「わかった」
ルディアがスケッチを始めた。素早い手で、正確に術式を写し取っていく。
(この精度、さすが魔法師の家系や。術式を読み取る目が違う)
桐子は精霊力炉の観察を続けた。
脈打つリズムが、一定ではないことに気づいた。ほんの少しだが、乱れている。
(三年動かし続けて、ガタが来てるんかもしれへん。設計上の限界に近づいてる? それとも、送り出してる量が増えすぎて、制御が追いつかへんようになってる?)
(どちらにしても——これは、タイムリミットが近いということを意味してる可能性がある)
五分でルディアのスケッチが完了した。三枚。
「もっと時間があれば」とルディアが言った。
「十分です。行きましょう」
五
突き当たりの二重錠の扉の前に立った。
ソルが解析済みのパターンを流し込んだ。
一層目。二層目。三層目。
かちり、かちり、かちり。
扉が、開いた。
においが来た。前回と同じ。精霊力の濃縮した、しかし歪んだ匂い。
(この匂い、何度嗅いでも慣れへん。精霊力でエネルギーを補ってる体として、本能的に「これはおかしい」と感じる匂いや)
三人で入った。
前回と同じ光景——ではなかった。
(檻が、増えてる)
桐子は目を見開いた。
前回確認した時は一つだった中央の檻が、今は三つに増えている。増設されたのか、あるいは前回見えていなかったものがあったのか。
(増えてる。三年前から始まった実験が、規模を拡大してる。収集量の数値が右肩上がりやったのは、対象を増やしてたからや)
三つの檻の中に、それぞれ何かがいた。
一番左——妖精が二体。前回確認した個体と、もう一体。新しく捕まえてきた個体だろう、こちらは前回よりわずかに状態が良かった。
真ん中——こちらも妖精が一体。しかし——
(この妖精、違う)
桐子は目を細めた。
体が少し大きい。成体に近い年齢だろう。そして精霊力の気配が違う。妖精にしては、異様に濃い精霊力を持っている。
(なんやこの個体。精霊力の質が、他の妖精と根本的に違う。もっと純粋というか、凝縮されてるというか——)
右端——
(いた)
青緑の鱗を持つ、小さな体。
二ヶ月前に比べて、さらに小さく見えた。違う、痩せたんや。鱗が浮き出て、体の輪郭がはっきりしすぎている。呼吸は——浅い。弱い。
(ヴェルドラの孫。ここにいる。ここに、ずっとおったんや)
桐子の胸の中で、ドラゴンの本能が低く唸った。
(怒り。純粋な怒りが来てる。感情を出したら人化が揺らぐ。わかってる。でも——)
(落ち着け。今は動く時や。怒りは後でいい)
錠だ。
桐子は幼体の檻の錠に手を当てた。
「一番複雑な構造だ」とソルが隣に来て言った。「設計図なしには——」
「感じています」と桐子は言った。「少し、時間をください」
目を閉じた。
精霊力を指先に集めた。錠の内部構造を、精霊力で「読む」。術式の層が、何層重なっているか。それぞれの層が、どんなパターンで噛み合っているか。
(複雑や。ソルが言った通り、設計者しか開けられない構造に近い。でも——)
(完璧やない)
(どんな精密な術式にも、作った者の癖が出る。設計者の思考パターンが、術式の構造に滲む。それを読めれば、鍵の代わりになる)
桐子は読み始めた。
層を一つずつ辿る。パターンの癖を探す。
(この設計者は——几帳面や。正確やけど、少し融通が利かない。複雑な構造を好むけど、根幹はシンプルな思想で組まれてる)
(核心は、一つの術式パターンを複数の層に繰り返し使ってることや。変奏してるけど、基本形は同じ)
基本形を逆方向に流す。
かちり。
一層目が外れた。
「——キリア?」とソルが言った。声に、驚きが混じっていた。
「続けます」
(二層目。三層目。四層目。指先が少し熱くなってきた。精霊力を集中させすぎると体内の温度が上がる。人化の維持に支障が出る前に終わらせなあかん)
五層目。
(最後の層は——少し違う。他の層と設計思想が異なる。後から付け足した部分やろ)
(後付けの層には、前の層との接合部に微細な隙間が生じやすい。その隙間を——)
流し込んだ。
かちり、かちり。
錠が、外れた。
「……」
(できた。でも達成感より先に、扉を開けなあかんという焦りが来る。今は喜んでる場合やない)
ルディアが小さく息を呑む音がした。
桐子は檻の扉を引いた。
中に手を伸ばした。
幼体が——反応した。
桐子の手に、小さな頭が当たった。怯えているのか、精霊力を使う余裕すらないのか、身を縮めていた。しかし桐子の精霊力の気配を感じたのだろう、少しだけ体の力が抜けた。
(同族の気配や。わかるやろ。安心せえ)
桐子はゆっくりと幼体を両手で持ち上げた。
重さが——なかった。
いや、あった。確かにある。しかし思っていたより、ずっと軽かった。
(こんなに軽くなってしまったんか)
(精霊力を吸い出され続けて——精霊力でエネルギーを補って生きるはずの体が、そのエネルギー源を奪われ続けて——本来の重さを失ってしまったんや)
(……怒りが来る。抑えろ。人化が揺らぐ前に抑えろ)
「——鞄を」と桐子は言った。
ルディアが近づいて、鞄から折り畳んだ毛布を取り出した。ルディアは幼体を見て、一瞬だけ唇を固く結んだ。
(ルディアも、言葉が出えへんみたいや。当然やな)
それから丁寧に、毛布を広げて桐子に渡した。
幼体を毛布で包んだ。
小さな体が、桐子の腕の中で微かに震えた。
(震えてる。怖いんか、寒いんか、それとも——もう体を震わせるだけの精霊力しか残ってへんのか)
(早く、安全な場所に連れて行かなあかん)
六
他の檻にも手を伸ばした。
妖精たちの檻の錠は、幼体の檻より構造がシンプルだった。二層か三層。さっきの経験が活きて、二分かからなかった。
妖精が三体、解放された。
左の二体はすぐに桐子の手のひらに乗った。弱っているが、意識はある。
真ん中の一体——精霊力が濃い個体は、最初は桐子を警戒した。しばらく桐子の精霊力の気配を確かめてから、ゆっくりと近づいてきた。
(この個体の精霊力、やっぱり異質や。近くで感じると余計にわかる。なんやろ、この純粋さ。精霊力そのものを体に宿してるみたいな感じがする)
「ルディア、妖精を持てますか」
「持てる」とルディアが即座に答えた。小さな手を差し出すと、妖精二体が乗り移った。「軽い——大丈夫、落とさない」
「ソル、出口の状況を」
「今のところ、異常なし」とソルが扉の外を確認しながら言った。「ただ、早くした方がいい。時間が経つほどリスクが上がる」
「わかりました。今すぐ——」
その瞬間だった。
精霊力の感知に、何かが引っかかった。
階段だ。
地上から、複数の気配が降りてくる。
一人ではない。
(数えろ。二人、三人——四人。全員、精霊力を抑制してる。訓練を受けた者たちや)
桐子はソルを見た。ソルも感じていた。目が合う。
「何人だ?」とソルが低く言った。
「四人。早い」
「警報が鳴ったか?」
「鳴っていない。なら——」
別の理由で来ている。
(監視者や。外出した時に桐子を追ってた人物——あるいは別の監視者が、今夜の動きを察知した。どこかで情報が漏れたか、あるいは最初から今夜を狙ってたか)
「逃げ道は?」とルディアが落ち着いた声で言った。顔は青かったが声は静かだった。
(ルディア、冷静や。さすがや)
桐子は頭の中で間取りを展開した。
地下への入り口は一つだ。今まさに、そこから四人が降りてきている。別の出口は——
(ない)
ない。
(確認してへんかった。地下に別の出口があるかどうかを。完全に見落としや。フィールドワークとして最低の準備不足や、私)
(後で自分を責めるのは後でいい。今は選択肢を整理する)
桐子は深呼吸をした。
一、戦う。人化の状態での戦闘能力は、人間の魔法師と大差ない。四人相手に三人で戦うのは厳しい。ソルとルディアを危険に晒す。
二、隠れる。精霊力収集式が張られた部屋の中で隠れれば、精霊力の気配が収集式にかき消されて感知されにくくなる可能性がある。でも相手も訓練を受けた者たちや、直接来れば終わりや。
三、交渉する。相手が誰かによる。
四——
「ソル」と桐子は言った。
「なんだ」
「錠を、元に戻せますか」
「え?」
「この部屋の扉と、二重錠を——元に戻す。我々がここに入った痕跡を消す」
「中の個体は?」とソルが言った。
「連れて出ます」
「でも扉を元に戻したら、こちらが部屋の前にいる状態になる。見つかる」
「分岐通路に隠れます。精霊力収集炉の部屋には錠がなかった。入って、扉を閉める」
「精霊力炉の部屋に入ったら、中の精霊力に引っ張られないか?」とルディアが言った。
「弱っている個体への影響がある。ただ、短時間なら大丈夫なはずです」
(短時間、という部分が確信ではない。でも今は動くしかない)
「やります」とソルが言った。
二十秒で扉を施錠し直した。ソルの仕事は正確だった。
(ソル、手が震えてへん。こういう場面での判断力と実行力、本当に並の学生やない)
桐子が精霊力の痕跡を可能な限り消す。廊下の空気を読んだ。自分たちの気配の残滓が、かすかにある。完全には消せへん、でも薄めることはできる。
三人で分岐通路を曲がった。
精霊力炉の部屋に入り、扉を静かに閉めた。
暗闇と、精霊力炉の青白い脈動光の中で、三人は息を殺した。
(精霊力炉の引力を感じる。体内の精霊力を引っ張られてる感じがする。人化への負荷が上がってる。長くは持たへん)
(でも今は——我慢するしかない)
七
足音が廊下を来た。
桐子は扉の隙間から感知を続けた。四人が倉庫廊下を歩いている。ゆっくりした足取りだ。
(急いでへん。探してるというより——確認しに来た、という動きや。事前に情報があって、動きを把握してる)
一人が分岐通路の入り口で止まった。
(感知してくる。この人物の精霊力感知能力、高い。並の訓練受けた人間やない)
幼体が、腕の中で動いた。
小さな鳴き声が——出そうになった。
(あかん)
桐子は幼体を胸に引き寄せて、自分の精霊力を幼体の周りに薄く張った。
(ここは安全や。鳴かんでいい。静かにしてくれ)
ドラゴンの言語で、気配として伝えるように。
幼体が、動きを止めた。
(伝わった。この子、ちゃんと受け取れる。精霊力をほとんど失ってても、同族の気配は感じ取れるんや)
分岐通路の入り口で止まっていた人物が、また動き出した。
廊下の突き当たりに向かっている。
二重錠の扉の前で、全員が止まった。
精霊力の動きが、活発になった。錠を確認している。
(ソルの偽装、バレるな。バレるなよ——)
三十秒ほどして——足音が遠ざかった。
再び廊下を戻ってくる。ゆっくりと。
分岐通路の前を通り過ぎた。
階段を上がっていく。
足音が消えた。
(……行った?)
桐子はさらに一分待った。
精霊力の感知から、四人の気配が完全に遠ざかったことを確認した。
「——行けます」と小声で言った。
(精霊力炉の引力から離れる。体内の精霊力の消耗、思ったより大きかった。でも今は動くことが優先や)
三人で分岐通路を出た。倉庫廊下を進んで、地下への扉を解錠して、地上に出た。
廊下は静かだった。
三人とも、何も言わなかった。
女子棟まで戻って、部屋の扉を閉めた瞬間、ルディアがふうと長い息を吐いた。
「——心臓、止まるかと思った」
「お疲れ様でした」と桐子は言った。
「キリアはなんで平然としてるの」
「平然としていません。ただ、今はまだ終わっていないので」
(平然としてへん。精霊力炉の部屋に入った時の消耗が、じわじわ来てる。人化の維持が、今夜は少し重い)
八
ソルは部屋まで来ていない。男子棟に戻った。合流は明日だ。
ルディアが毛布を広げると、妖精二体が手のひらから這い出てきた。弱ってはいるが、地下の部屋よりは状態が良さそうだ。
「かわいい……けど、この子たち、どうするの?」
「明日、対処を考えます。今夜は体を休めさせてあげてください」
桐子は幼体の毛布を開いた。
青緑の小さな目が、半分開いていた。
意識がある。
(意識がある。よかった)
桐子と目が合った。
幼体の口が、わずかに動いた。音にはならなかった。
(何かを言おうとしてる。言葉はまだ出えへんけど、何かを伝えようとしてる)
「大丈夫」と、桐子は小さなドラゴン語で囁いた。「もう大丈夫や」
幼体の目が、ゆっくりと閉じた。
眠った。
(眠れた。それだけで十分や。今夜は眠れたらいい)
桐子はしばらく、その重さを感じていた。
軽い。本当に軽い。でも確かに、手の中にある重さだ。
(この子を守る。それだけは、絶対や)
九
夜が明けた。
問題は山積みだった。
妖精三体とドラゴンの幼体を部屋に隠していられる時間は長くない。ルディアと相談して、当面は部屋の押し入れの奥に毛布ごと入れておくことにした。
(押し入れの中。八歩四方の部屋の押し入れの中に、ドラゴンの幼体と妖精三体がいる。異常な状況やけど、今は他に選択肢がない)
朝食の席で、ソルと目が合った。
ソルが小さく頷いた。昨夜の四人について、独自に調べているということだろう。
(この人、一晩で動ける。さすがや)
一時間目の魔法理論基礎の授業中、タリス先生が一度だけ桐子を見た。
昨夜、三鐘に精霊力感知系統を乱す準備をしていたはずだ。しかし結果的に、その手伝いは必要にならなかった。先生は何も聞かなかった。ただ授業を続けた。
(先生、察してくれてるんやな。余計なことを聞かへん。ありがたい)
授業後、桐子が一番後に教室を出ようとした時、先生が声をかけた。
「少し残れ」
他の学生が全員出ていってから、先生は言った。
「昨夜、学校の精霊力感知系統に、短時間の乱れがあった。私が仕掛けたものではない」
(先生が仕掛けてへんのに乱れた?)
「乱した目的は?」
「昨夜、地下で何かが起きていたとすれば——感知系統を乱しながら確認に来た者がいた、ということになる」
(自分たちを守るために感知系統を乱した者がいた? いや違う——)
「昨夜、四人が地下に降りてきました。監視者たちです。その際、精霊力感知系統を乱したのは——その四人の誰かが、自分たちの動きを感知されないようにするためだったのかもしれません」
先生が眼鏡を外した。
「つまり、昨夜地下に降りた四人は——学校側の者ではなかった可能性がある」
「学校側なら、感知系統を乱す必要はない。自分たちが設置したシステムなんやから」
(あ)
(「なんやから」って言ってもた。関西弁が出た。先生、気づいたかな)
先生が少し首を傾けたが、言葉を選んで続けた。
「——第三の者がいる」と先生は言った。
「そう思います」と桐子は言った。(関西弁は聞き流してくれた。助かった。気をつけなあかん)「地下の装置を作って運用している者と、それを監視している者と——それから、もう一つの勢力」
「何が目的の第三の者だ?」
「まだわかりません」と桐子は答えた。「でも——昨夜、私たちが地下に入ったことを察知して確認に来た、という可能性もある」
(そして——その第三の勢力が、私たちの動きを把握してるとしたら。情報が漏れてるか、あるいは最初から監視されてたか)
先生が桐子を見た。
「——精霊力炉が完成していたとは」と最後に言った。声から力が抜けていた。「では、あと何ヶ月もしないうちに——」
「先生、「あと何ヶ月」というのは?」
先生が顔を上げた。
「精霊力炉は、稼働しながら自己強化される構造を持っている。三年動かし続けたとすれば——設計上の出力限界に近づいているはずだ。出力限界に達した時に何が起きるか」
「百年前と同じことが、起きる?」
「百年前の精霊力炉は、実験段階で稼働させたため、制御に失敗して暴走した。今回のものが改良版だとすれば、制御された状態で出力を最大化させることが目的かもしれない」
「制御された暴走、ですか」
(制御された状態で、周囲の精霊力を根こそぎ吸い尽くす。百年前は事故やった。今回は——意図的にやろうとしてる。ターゲットがある)
「精霊力を大量に取り込んで、集積して、解放する。その解放先が——」
「どこだと思いますか」
先生が窓の外を見た。
帝都の空が広がっていた。
「——それが、わかれば」と先生は静かに言った。「全部わかる」
(全部わかる。でも今はまだわからへん。でも——近づいてる。確実に近づいてる)
十
昼食後、桐子はソルと図書室の隅で短く話した。
「昨夜の四人について」とソルが言った。「帝国の制服ではなかった。ただ、動き方が軍の訓練を受けた者に近かった」
「帝国魔法管理局の前のトップが軍の出身です」と桐子は言った。「ドーゲル・ハイン。三年前に就任している」
「三年前に実験が始まった」
「そして三年前に書架が封鎖された」
「——全部、一人の人間が動かしている可能性がある」
「ただし」と桐子は続けた。「昨夜の四人は、装置を作った側ではないかもしれない。第三の勢力だという可能性がある」
「どういうことだ?」
「感知系統が、外部から乱されていた。タリス先生が確認した。装置の設置者側なら、乱す必要はない」
(そしてその第三の勢力が、昨夜私たちと同じタイミングで動いた。偶然か? それとも——私たちの動きを把握してて、同じ目標に向かって動いてるのか?)
ソルが少し考えた。
「では昨夜の四人は——装置を監視している者たちとは別の、もう一つの勢力だということか」
「そうなります。この問題に、少なくとも三つの勢力が絡んでいる可能性が出てきました」
「装置を作った者、監視する者、そして——」
「第三の者が何を目的にしているかは、まだわかりません。ただ——学校内に協力者がいるかもしれない」
ソルが眉を寄せた。
「根拠は?」
「昨夜の四人が学校に入れた。深夜に外部の者が学校に入るには、内部に協力者がいなければ難しい」
「——学校内の誰かが、第三の勢力と繋がっている」
「可能性として」
(可能性として、や。まだ断定できへん。でも頭に置いておく必要がある)
ソルが黙った。
「誰が、と思う?」とソルは言った。
「今は絞り込めません。ただ——学長は外せません。学長がどちら側にいるかによって、全てが変わる」
「タリス先生はどう思っている?」
「先生は学長を信頼していると言っていました。ただ確信はない」
ソルが少し天井を見上げた。
「——学長に話すか?」
「まだです。証拠が必要です。ただ、タイムリミットが近づいている」
「何のタイムリミットだ?」
(言うべきか。詳細は言えへんけど、ソルには大枠を知っておいてほしい)
「外部で、この問題を知っている者たちがいます。その者たちが動き出す前に、証拠を揃えて交渉の場を作る必要がある。そのための時間が——」
「あと何日だ?」
「九日です」
ソルが桐子を見た。
「——お前の「信頼できる筋」というのは、人間じゃないな」
(……この人、やっぱり鋭い)
桐子は答えなかった。
ソルはそれ以上聞かなかった。
「わかった」と言った。「九日で動く」
(ありがとう。詳細を聞かずに受け入れてくれる。この人のこういうとこ、信頼できる理由の一つや)
十一
その夜、部屋に戻ると、ルディアが押し入れの前でしゃがんでいた。
「どうしたんですか?」
「この子」とルディアが言った。
押し入れの扉が少し開いていた。中を覗くと、幼体が目を開けていた。
毛布から半身を出して、ルディアの手のひらに頭を乗せていた。
「目、覚めたの? さっき。で、なんか私の手をちょんちょん触ってきて」
(目が覚めた。よかった。精霊力吸収式から離れて、少し回復してきてるんかな)
「かわいい、ってわかってる。わかってるけど、言わずにはいられない。かわいい」
幼体の青緑の目が、桐子を見た。
桐子はしゃがんで、目の高さを合わせた。
「気分はどうや」とドラゴン語で言った。
(「どうだ」やなくて「どうや」が出てしもた。ドラゴン語に関西弁のイントネーションが乗ってるのか? いや関係ないか)
幼体がわずかに反応した。
「ここは安全や。もう少し眠れ」
幼体がまた目を閉じた。
「なんて言ったの?」とルディアが聞いた。
「安全だと教えました」
「ドラゴン語?」
「——まあ、そんなところです」
(「まあそんなところです」って言い方、だいぶ誤魔化してる。でもそれ以上は今は言えへん)
ルディアが桐子を見た。
「キリア、いつかちゃんと話してくれる?」
(この子、真っ直ぐに聞いてくる。逃げ場がない。でも——いつかは話せる日が来てほしいと、自分でも思ってる)
「いつか」と言った。
「約束?」
「——約束します」
ルディアが少し微笑んだ。
「なら待つ」
(ルディアの笑顔、本当に眩しいな。こういう感情は「静かな温かさ」に分類する。人化が揺らぐほどやない。セーフ)
桐子は立ち上がった。
九日間、やれることを全部やる。
タリス先生を動かす。証拠を揃える。第三の勢力の正体を掴む。精霊力炉の解放先を特定する。
そして——ガレアスとヴェルドラに報告する。
腕の中の、幼体の重さを思い出した。
軽かった。
それでも確かに、手の中にあった重さだ。
(この子を、ちゃんと帰す。ヴェルドラの元へ、ちゃんと帰す)
(それだけは、絶対や)




