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監視者がいるし、ドラゴンの長が動くし、私はそろそろ色々と限界な件


 監視者の存在に最初に気づいたのは、ルディアだった。


 入学から五週目の火曜日、精霊力制御実技の授業が終わった後のことだ。


「ねえ」と、帰り道にルディアが桐子の袖を引いた。「さっきから、つけられてる気がする」


 桐子は歩みを緩めずに、さりげなく周囲を確認した。


 廊下に、学生が十数人。教員が二人。それから——


 いた。


 石柱の陰に、さりげなく立っている人物。学生の格好をしているが、年齢が合わない。二十代後半から三十代前半に見える。在校生ではない。


 精霊力を感知した。


(この人物から、精霊力の気配が人工的に抑制されてる。意図して消してる。訓練を受けた人間や)


「気のせいじゃないです」と桐子は小声で答えた。


「やっぱり! いつから?」


「私が気づいたのは今ですが、もっと前からかもしれません」


「誰?」


「わかりません。ただ、精霊力を意図して隠している。訓練を受けた人間です」


 ルディアが少し青い顔をした。しかしすぐに平静を取り戻した。


(この子の立ち直りの早さ、本当に優秀やな。びびった後すぐに冷静になれるのは、才能や)


「どうする?」


「今日は普通に行動します。気づいていることを悟られない方がいい」


(観察対象に「観察されてる」と気づかれた瞬間、行動が変わる。フィールドワークの基本や)


 その夜、ソルに伝えた。


 ソルは黙って聞いてから、「一人じゃないかもしれない」と言った。


「複数いる可能性?」


「先週、俺も似たような気配を感じた。別の人物だと思う。体型が違った」


(複数。組織的な監視や。個人の行動やない)


 桐子は頭の中で状況を整理した。


 学校内に、少なくとも二人の監視者がいる。おそらく学生に偽装している。監視対象は——自分たちか、もっと広いのかは不明だ。


「地下の調査が、気づかれている可能性がありますか」とソルが言った。


「低いと思います。あの夜、痕跡は最小限にしたので。ただ——」


「ただ?」


「タリス先生に接触していることは、見られているかもしれません」


(研究室への訪問は、授業後に一人で歩いてる場面やから、尾行してたら普通に気づかれる)


 ソルが少し眉を寄せた。


「先生は大丈夫か?」


「先生は十五年、この問題を抱えていた人です。監視には慣れているかもしれない」


「楽観的すぎないか?」


「そうかもしれません」


(でも先生を心配する前に、先生が既に対策を取ってる可能性も考えるべきや。あの人、思ってる以上に慎重やから)


 桐子はしばらく考えた。


「監視者がいるということは、逆に言えば——誰かが、この学校で何かが動き出すことを警戒している。学校に全く疑いがないなら、監視する必要はない」


「つまり、向こうも焦っている?」


「少なくとも、安心はしていない。それは、私たちにとって有利な情報です」


「どう有利なんだ?」


「焦っている人間は、ミスをする」


(これは前の世界での経験則や。締め切りに焦ってる研究者が一番データの扱いが荒くなる。それと同じや)


 ソルが、少しだけ口の端を上げた。


(この人が笑顔に近い表情をするの、珍しい。素が出た瞬間やな)




 監視者の存在を踏まえた上で、三人は行動パターンを変えた。


 まず、三人で一度に集まることをやめた。情報共有は二人ずつ、時間と場所を変えて行う。桐子とソル、ソルとルディア、ルディアと桐子、という形で順繰りに。


(研究チームの情報管理と同じや。全員が同じ場所に集まると、一網打尽にされるリスクがある。分散させることで、一人がやられても全体が潰れない)


 タリス先生への接触も、頻度を落とした。授業の質問という体を維持しつつ、内容を精選する。


 ルディアは図書室での文献調査を続けた。消えた論文の代わりに、別の資料から情報を拾い集める作業だ。


(ルディアの情報収集能力、改めてすごいな。人懐っこい性格を活かして、司書の老人からさりげなく情報を引き出すのが特に上手い。あれは訓練してできるもんやない、天性の才能や)


「書架の整理をしている司書のおじいさんが教えてくれたんだけど」と、ある日ルディアが言った。「三年前に、書架の一部が「帝国令」で封鎖されたんだって。魔法理論の古い論文が何十冊も、一夜で持ち出されたって」


「三年前。また三年前ですね」


「そうなの。しかも封鎖を命じたのは、学校じゃなくて帝国の方からだって。司書のおじいさん、悔しそうだったよ。長年管理してきた書架を、説明もなく持っていかれたって」


(司書のおじいさんの悔しさ、わかる。研究者として、データを無断で持ち去られる理不尽さは骨身に染みる)


「帝国の、どの部署からの命令かわかりますか?」


「それは教えてもらえなかった。というか、おじいさんも知らないみたい。書類には「帝国魔法管理局」とだけあって、担当者名はなかったって」


(帝国魔法管理局。覚えておく。この機関が、三年前から動いてる)


「ルディアのお父さんは、魔法管理局と関わりがありますか?」


 ルディアが少し顔を曇らせた。


「宮廷魔法師は、管理局と連携することがあるって聞いたことある。でも、詳しくは知らない。今度の休日に帰省したら、それとなく聞いてみる」


「直接聞かない方がいいかもしれません」


「わかってる。私もそこまで鈍くないよ」


 ルディアが少し拗ねたような顔をしたので、桐子は「すみません」と言った。


(この子に「鈍くない」って言わせてしまった。反省や。ちゃんと信頼してるのに、言葉の選び方が悪かった)




 月に一度のガレアスとの密会は、帝都の外れにある古い礼拝堂で行われる約束になっていた。


 入学から五週目の土曜日、桐子は単独行動の許可を得て——休日の外出は申請制だが、理由は「帝都の見学」と書いた——礼拝堂に向かった。


 監視者への対策として、少し遠回りをした。市場を抜け、路地を二本折れて、人の流れに乗ってから離れる。


(尾行があれば気づけるはずや。精霊力の感知を続けながら歩いて……気配なし。セーフ)


 礼拝堂の中はひんやりしていた。石造りの天井が高く、古い魔法灯が数個だけ灯っている。


 ガレアスは、一番奥の長椅子に座っていた。


「遅い」と言われた。


「遠回りしました」


「尾行は?」


「なかったと思います」


「思います、では困る」


「なかったです」


(「思います」と「なかったです」の違いを指摘してくるガレアスは、細かいようで実は正確な情報管理を求めてる。確証のない情報と確認済みの情報は分けて報告しろということや。わかってる、わかってるけど毎回ちょっとしんどい)


 ガレアスが桐子の顔を見て、少し表情を変えた。


「疲れているな」


「そうですか」


「目の下が暗い。人化の維持が負荷になっているか?」


「それもありますが、主に情報量の問題です」


(学校の精霊力が少し薄くなってきてるのは事実やけど、それより頭の中が忙しすぎる方がきつい。考えることが多すぎて、脳が休まる時間がない)


「報告しろ」


 桐子は報告した。


 地下の収集装置。閉じ込められた妖精とドラゴンの幼体。三年間の実験記録。帝国上級術師の関与。タリス先生の証言と十五年前の論文。消された書架。帝国魔法管理局。監視者の存在。


 ガレアスは途中で一度も口を挟まなかった。


(この人、聞き上手や。余計な反応をしない。報告する側が自分のペースで話せる。これも一種の訓練か、それとも性格か)


 報告が終わると、しばらく黙っていた。


 それからゆっくりと口を開いた。


「——想定より、深い」


「私もそう思います」


「帝国の上層部が関わっているとすれば、一学生の調査で止められる話ではない」


「わかっています。ただ、証拠が必要です。証拠があれば、動ける人間が増える」


「タリス先生がその一人か?」


「先生は、帝国内部への告発ルートを持っているかもしれません。ただ、証拠がなければ動けない状況です。先生を動かすために証拠が必要で、証拠を取るために地下に入る必要がある」


「地下の錠は、まだ解けていないか」


「ソルが引き続き解析中です。もう少しで解けると言っています」


(ソルの名前を出した。ガレアスが「ソルとは誰だ」と聞いてくるかと思ったけど——)


「もう一つ聞く」とガレアスが言った。「ドラゴンの幼体は、何頭いた?」


「一頭だけ確認しました。ただ、部屋が一つとは限らない。地下の構造を全部は確認できていません」


「個体の特徴は?」


「猫くらいの大きさ。鱗の色は——暗くて判別が難しかったですが、深い青か緑のような色に見えました」


 ガレアスが少し目を伏せた。


「ガレアスさん」


「……ヴェルドラの孫の幼体が、二ヶ月前から行方不明になっている。鱗の色は青緑だ」


(ヴェルドラの、孫)


 桐子は、息を吸った。


(あの幼体が、あの老竜の孫やったんか。だから——)


「だから」とガレアスは静かに言った。「ドラゴンの長たちが、動こうとしている」




 その言葉の意味が、桐子には即座に理解できた。


「動く、というのは——帝都に向けて?」


「ヴェルドラが、直接乗り込もうとしている。孫の行方を知る者を見つけるまで、帝都を探し回ると言っている」


(あの老竜が帝都に乗り込む。それがどういう事態になるか——)


「それは——」


「止めようとしている者もいる。しかし、老竜の怒りを完全に制御できる者はいない」


(当然や。孫が閉じ込められて精霊力を吸い出されてると知ったら、制御できるドラゴンの方が少ないやろ。私でも多分——いや、私は今その子の近くにいるから余計に、あの状況を知った上で「待て」と言えるか自信がない)


「老竜が帝都に乗り込めばどうなるか」


 精霊力制御に優れた魔法師が集まっているとはいえ、ヴェルドラほどの老竜に対して、人間の軍隊で対抗するのは難しい。それ以前に、ドラゴンが人間の都市を攻撃したという事実が広まれば——


「人間とドラゴンの関係が、取り返しのつかないことになります」と桐子は言った。


「わかっている。だから、お前に言っている」


「私に、何ができますか」


「証拠を持って帰ってこい」


 ガレアスの声は静かだったが、底に重さがあった。


「ヴェルドラの孫がそこにいるという確実な証拠と、誰が何の目的でやっているかの証拠。それを持ち帰れれば、ヴェルドラを止めることができる。帝国側との交渉のテーブルを作ることができる」


「タイムリミットは?」


「老竜が我慢できる限界が——二週間程度だとアルジェが言っていた」


 二週間。


(ソルが錠を解析して、地下の構造を全部確認して、証拠を集めて——)


(二週間。できへんことはない。でもギリギリや)


「わかりました」と桐子は言った。


「急ぐあまり、人化が解けるような事態は絶対に避けろ。お前がドラゴンだとバレれば全てが終わる」


「わかっています」


「本当にわかっているか? お前は興奮すると解けそうになる」


(……耳が痛い。自然精霊学の授業の話、なんで知ってるんやろ。いやガレアスが知ってるわけないけど、なんか見透かされてる気がして怖い)


「……気をつけます」


「もう一つ」


「まだありますか」


「アルジェが、近くにいる」とガレアスは言った。「何かあった時のために。帝都の北門の外に、人の姿でいる。いざとなれば頼れ」


(アルジェが近くにいる。それだけで、心強さが段違いや)


「ガレアスさん」と桐子は立ち上がりながら言った。


「なんだ」


「地下の幼体が、本当にヴェルドラの孫だとしたら——できる限り、早く連れ出します」


 ガレアスは答えなかった。


 ただ、いつもより少しだけ柔らかい目をしていた。


(この人がこういう目をする時、余計なことは言わへんのや。言葉より目で伝える人やな。そういうとこ、嫌いやない)




 礼拝堂を出て、帝都の通りを歩きながら、桐子は考えた。


 二週間。


(ソルへの連絡、ルディアへの連絡、タリス先生への接触、地下への再入室、証拠の確保、そしてヴェルドラへの報告——全部のスケジュールを頭の中で組み立てながら歩いてると、前から来た人とぶつかった)


「あ、ごめんなさ——」


 顔を上げた。


 監視者だった。


 火曜日に石柱の陰にいた、あの人物だ。


(うわ)


 向こうもこちらを認識した、と瞬時にわかった。目が合った。一秒、互いに動かなかった。

(表情を変えるな。動揺を見せるな。学校の外で偶然ぶつかっただけの学生として振る舞え)


 向こうが先に視線を外した。何事もなかったような顔で、脇を通り抜けていく。


 桐子は歩みを止めずに、ただ前を向いた。


(見られた。外で。学校の外での行動を把握されてる)


(礼拝堂には気づかれてへんはずや。尾行はなかったから。でも帝都に出たこと自体は把握されてたかもしれへん)


(問題は、どこまで知られてるか、や)


 帰り道に、桐子はもう一つのことを確認した。


 市場を抜ける時、屋台の隙間からさりげなく後ろを確認した。


 監視者が、遠くからついてきていた。


(やっぱり、外出を追ってた)


(さっきの「偶然のぶつかり」も、偶然やない。位置を確認しに来たんや)


 桐子は市場の人混みに紛れた。屋台を三つ曲がり、路地に入り、少し走り、別の通りに出た。


 精霊力の感知を後方に向け続けた。


 追跡が、途絶えた。


(撒けた。でも——帝都での行動は今後もっと慎重にせんとあかん。礼拝堂の場所が知られてたら、ガレアスも危ない。次の密会場所は変えた方がいいかもしれへん。ガレアスに伝えておく必要がある)


 遠回りをもう一度して、学校に戻った。




 その夜、桐子はソルに二週間のタイムリミットを告げた。詳細は伏せたが、「外部に関わる者がいて、それ以上待てない事情がある」とだけ言った。


 ソルは一瞬目を細めたが、詳細を聞かなかった。


(この人、いつも「聞かない判断」が的確や。どこでその判断力を身につけたんやろ。ますます謎な人物や)


「錠の解析は、あと三日で終わる」と言った。


「確実に入れますか」


「確実とは言い切れないが、七割以上の確度はある」


「では、入室は五日後にします。準備を整える時間も必要なので」


「何の準備だ?」


「中の個体を連れ出す可能性に備えた準備です」


 ソルが黙った。少し考えてから言った。


「——連れ出すのか?」


「弱っています。あのまま放置すれば、どうなるかは——わかりますよね」


(精霊力でエネルギーを補って生きてるドラゴンの幼体が、精霊力を吸い出され続けたら。答えは一つしかない)


「わかる。ただ、連れ出すには別の問題がある。檻の錠だけじゃなく、部屋ごと術式で囲まれている。部屋の外に出た瞬間に、警報が鳴る可能性がある」


「その警報の仕組みを調べてもらえますか」


「調べる。ただし、これは完全な保証ができない。やってみなければわからない部分がある」


「わかりました。やるしかないです」


(やるしかない、というのは感情論やなくて、純粋に合理的な判断や。リスクを取らへんことのリスクの方が大きい)


 ルディアへの伝達は翌日の朝、桐子からした。


 ルディアは話を聞いて、少し黙った。それから言った。


「私ね、お父さんに手紙を書く」


「今は——」


「大丈夫。帝国魔法管理局について、直接聞かない。ただ、最近の管理局の人事異動について教えてほしいって聞く。娘が学校で授業の一環として帝国機関を調べているって体で」


(うまい。直接的な質問やなく、周辺情報を集める。研究者的なアプローチやな)


「……うまくいきますか」


「お父さんは私のことを過保護なくらい心配してる。私が頼めば、できる範囲で答えてくれる」


「危なくなったら、すぐ手を引いてください」


「それ、私のセリフにしようと思ってたのに」とルディアは言って、少し笑った。


(この子のこういうとこ、好きやな。真剣な場面でもちゃんと笑える)


(……人化が揺らぐほどやないけど、温かい気持ちになった。こういう感情は「大きな喜び」に分類されへんからセーフや)




 五日後の夜に向けて、三人の準備が進んでいた。


 しかし三日目に、想定外のことが起きた。


 タリス先生が、桐子を呼んだ。


 いつもと違った。いつもは桐子の方から研究室を訪ねる。今回は授業の終わりに先生が「後で来なさい」と短く言った。


(先生の方から呼んでくる。何があった?)


 桐子は昼食を挟んで研究室に向かった。


 先生の顔が、いつもと違った。疲れているというより——怯えているように見えた。


(タリス先生が怯えてる。十五年間この問題を追ってきた人が、怯えてる。それだけで、何か深刻なことがあったとわかる)


「座りなさい」という言葉もなく、先生は立ったまま小声で言った。


「昨日、研究室を誰かに漁られた形跡がある」


 桐子は立ったまま答えた。


「何かを取られましたか」


「わからない。見たところ、重要なものは置いていない。しかし——」先生は声をさらに落とした。「私の引き出しに、こんなものが入っていた」


 小さな紙を差し出した。


 桐子は受け取って、読んだ。


 「深追いするな。次は消す」


(……)


(脅迫状や。直接的な。「次は消す」——行方不明になった魔法師の話を、先生から聞いてた。だから「消す」という言葉が何を意味するか、先生も私も、わかってる)


 桐子は紙をそっと返した。


「いつからこういうことが?」


「初めてだ。これまでは、行動を監視されている気配はあったが、直接的な脅迫は——初めてだ」

「向こうが焦っているんだと思います」


「なぜ今、焦っているのか」


「心当たりはありますが、今は言えません。ただ——先生に、お願いがあります」


「聞く」


「五日後の深夜、地下に入ります。その際、もしもの時のための退路が必要です。先生に、それを手伝ってほしい」


 タリス先生が桐子を見た。


「どういう手伝いだ?」


「万が一、警報が鳴った場合——五秒だけ、校舎の精霊力感知系統を乱してほしい。五秒あれば、対応できます」


「それは——」先生は少し黙った。「技術的には可能だ。だが、発覚すれば私が疑われる」


「疑われます。そのリスクは承知の上でお願いしています」


「——なぜ私を信頼できると思っているのだ?」


「信頼しているから、ではないです」と桐子は正直に答えた。「先生が十五年間、この問題を追ってきたことを知っているから、です。先生には、動く理由がある」


(感情的な信頼やなくて、行動の一貫性から来る信頼や。十五年間ブレなかった人が、今更寝返るとは考えにくい)


 タリス先生が、長い間黙っていた。


「——わかった」と先生は言った。「五日後の深夜。三鐘を合図にする」


「ありがとうございます」


「ただし」と先生は続けた。「絶対に、警報を鳴らすな。私の手伝いは最終手段だ。それが必要にならないように動け」


「最善を尽くします」


「最善で足りなかった場合の話をしている」


「——肝に銘じます」


 先生が少し息を吐いた。


「お前は本当に、どこから来た子どもなのだろうな」と小さく言った。


(どこから来た、か。エルダ州から、とは今は言えへんな。もっと遠いところから、というのが正直なとこやけど、それも今は言えへん)


 桐子は答えなかった。




 五日後まで、あと二日。


 桐子は夜、布団の中で天井を見上げながら、全体の状況を整理した。


 準備は整いつつある。ソルの錠解析がほぼ完了している。タリス先生が協力を約束してくれた。ルディアがお父さんへの手紙を送った。


 しかし不確定要素が多すぎる。


(地下の部屋が一つとは限らない。警報の仕組みが不明な部分がある。監視者が学校内に複数いて、深夜の動きに気づく可能性がある)


 そして——


(人化が、最近少しずつ揺らいでいる)


 自覚していた。


 入学した頃より、今の方が人化の維持が難しくなってきている。


(逆のはずなのに、と最初は思った。慣れれば安定するはずや。でも——精霊力が、薄くなってるんや)


 学校全体の精霊力が、少しずつ減っている。地下の収集装置が稼働し続けているせいだ。精霊力が薄くなれば、人化の維持に自分の体内の精霊力をより多く使わなければならない。補充の効率が下がってる上に、消費が増えてる。


(二週間で証拠を持ち帰らなければならない理由は、ヴェルドラの我慢の限界だけやなかった。自分自身の限界も、近づいているかもしれへん)


(それは——ガレアスには言わんかった。言ったら絶対に「帰ってこい」って言われる。でも帰れない。あの幼体を置いて帰れない)


「キリア、眠れてる?」


 ルディアの声がした。


「眠れています。ルディアこそ」


「ちょっと考えすぎてて」


「何を?」


「手紙、ちゃんと届くかなって。お父さん、最近帰りが遅いって聞いてたから」


(ルディアも不安やったんや。自分の心配ばかりしてたけど、この子も抱えてるものがある)


 桐子は少し考えた。


「ルディア」


「うん?」


「一つ聞いていいですか」


「なに?」


「ルディアは、なんでそんなに怖くないんですか」


 しばらく間があった。


「怖くないわけじゃないよ」とルディアが言った。「すごく怖い。監視者がいるって聞いた時、少し足が震えた」


「それでも動けるのは?」


「うーん」とルディアは少し考えた。「お父さんが「気をつけろ」って手紙を送ってくるとき、裏には「何かが起きている」って意味があるでしょ。お父さんが戦ってる問題を、私だけ知らないふりをして授業受けてるのが——なんか、ずっと座りが悪かったんだよね」


(お父さんが戦ってる問題。家族がいるから動ける、ということか)


(私には、前の世界に家族がいた。今は会えへん。でも——ドラゴンとして、エルダリアのことを「自分の世界」として感じ始めてる。この世界の精霊力の乱れは、私自身の問題でもある。それが、私が動ける理由かな)


「……そうですか」


「キリアはなんで動けるの?」


 桐子は答えを探した。


(正直に言えば——地下で見た幼体のことが、頭から離れないから、や。小さな体が、冷たい檻の中で、精霊力を吸い出されながら弱っていく。ドラゴンになった自分が、それを見捨てて帝国の上層部の問題だからと手を引くことは——できない)


「放っておけないから、です」


「シンプルだね」


「複雑に考えるより、シンプルな方が動けるので」


(これは本当のことや。研究者として論理的に考えることと、シンプルな動機で動くことは、矛盾せえへん。むしろシンプルな動機がある方が、論理的な判断が揺らがへん)


「——私もそうする。放っておけないから動く。それだけ」


 短い沈黙があった。


「ありがとう、ルディア」と桐子は言った。


「なんで?」


「話せて、良かったと思って」


(こういうことを言うのは、人間の頃の私にはできへんかった。研究のことしか頭になかったから。でも今は——この子のこういう言葉が、ちゃんと嬉しい)


(嬉しい、でも人化が揺らぐほどやない。大丈夫や。これは「大きな喜び」やなくて、「静かな温かさ」や。セーフ)


 またしばらく間があった。


「私もだよ」とルディアは言った。「おやすみ、キリア」


「おやすみ」


 寝息が、しばらくして聞こえてきた。


 桐子は目を閉じた。


(二日後の深夜、地下に入る)


(ヴェルドラの孫がいるなら、必ず連れ出す)


(証拠を取る)


(タリス先生とソルとルディアを、巻き込んでいる。これ以上は傷つけたくない)


(全部、うまくいく保証はない)


(でも——)


(ドラゴンに転生して、魔法学校に入って、監視者に追われて、帝国の陰謀に辿り着いた。それでも今、自分の力でここまで動けてる)


(人間だった頃の桐子は、もっと小さく生きてた。会議室で一番後ろの席から黒板を眺めながら、世界は自分には少し大きすぎると思ってた)


(今は、世界の大きさを怖いとは思わへん)


(大きいなら、大きいぶんだけ——面白い)


 桐子は、静かに、眠りに落ちた。

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