地下で見つけたものと、見つかってしまったことと、色々ごまかすのにも限界がある件
一
地下に下りる日は、入学から四週間目の金曜日の深夜に決めた。
理由はいくつかある。金曜の夜は翌日が休日のため、学生の就寝が遅く、深夜の人の動きが読みにくいという側面もあるが——逆に言えば、教員側も油断しやすい。巡回のパターンが週末仕様になる可能性が高かった。
もう一つの理由は、ソルが二重錠の解析をほぼ終えていたからだ。
「パターンは三層構造だった」とソルは前日の夜に言った。図書室の隅で、周囲に人がいないことを確認しながら。「一層目は標準的な精霊力照合錠。二層目は術者の魔力紋認証。三層目は——」
「三層目は?」
「時間鍵だ。特定の時間帯にしか解除できない構造になっている」
(時間鍵。なるほど、巧妙やな。常時解錠可能にしてしまうと管理者自身も外から入れなくなるから、定期メンテナンス用の時間窓を設けてあるんや。でもそれが逆に弱点になってる)
「その時間帯というのは」
「深夜の二鐘から四鐘の間だけ、三層目の鍵が緩む。おそらく定期的なメンテナンスのための仕様だと思う」
「つまり管理者がいる」
「いる。そして定期的に中に入っている」
(管理者がいて、定期的に扉を開けている。中に何かを閉じ込めていて、世話をしているのか、あるいは別の目的で入っているのか。いずれにせよ、管理者が扉を開ける時間帯と自分たちが調査に入る時間帯を、うまくずらす必要がある)
「管理者が入るのはいつだと思いますか」
「わからない。ただ、時間鍵が緩む二時間の中のどこかだ。前半に管理者が来るとすれば、後半に入るべきだし、逆もある」
「賭けですね」
「調査とはそういうものだろう」
(この人もそういう考え方をするんや。研究者みたいな言い方やな。背景が気になるけど、今は聞くべきやない)
「深夜の三鐘を回ったら入る。それでいいですか」
「ああ」とソルは言った。「合図は?」
「廊下で精霊力を一瞬だけ灯す。ルディアが起きないように、本当に一瞬だけ」
「わかった」
二
金曜の深夜。
十二鐘が鳴り、一鐘が鳴り、二鐘が鳴った。
ルディアの寝息が一定になってから三十分待って、桐子はそっと布団を出た。
(この子、今夜もよく寝てる。健康的やな。私も昔はこんなに眠れてたんやろか。研究者時代の自分には聞けへんけど)
服のまま寝ていた。靴も、枕元に置いておいた。
足音を最小限にして扉を開ける。廊下に出る。石造りの廊下は冷たい空気を溜め込んでいた。
(夜の精霊力、昼間より濃い。気のせいかもしれへんけど、感知しやすい気がする。人間の活動が少ない分、精霊力の流れが安定するんかな)
壁際を歩く。魔法灯は最小限の光量で、廊下は薄暗い。
男子棟と女子棟の間の連絡廊下——表向きは異性立入禁止だが、夜間の巡回ルートから外れているとソルが調べていた——を通って、校舎中央部へ向かう。
中央廊下の角で、精霊力をほんの一瞬、親指の先ほどだけ灯した。
十秒後、足音がして、ソルが現れた。
二人は無言で頷いた。
(余計なことを喋らない人でよかった。こういう場面で「準備はいいか?」とか聞いてくるタイプやったら少し困ってた)
地下への扉まで、廊下を進む。
桐子は歩きながら感知を続けた。人の気配、精霊力の動き、足音の反響。教員の巡回は——今のところ、検知範囲にない。
地下への扉の前に立った。
ソルが錠の前にかがんだ。手を近づけて、精霊力を静かに流し込む。繊細な作業だ。桐子は周囲の警戒を担当しながら、ソルの作業を横目で見ていた。
(丁寧な操作やな。力で押し込むんやなく、錠の構造を読みながら解いてる。この人、感知と制御のバランスがいい)
一層目が解除される。
二層目。ソルの手が、わずかに震えた。精霊力の紋様を偽装しているのだろう。事前に二週間かけて準備したとソルが言っていた。
かちり。
二層目が解除される。
三層目。時間鍵。これはソルの精霊力操作では解けない。時間帯が来れば自然に緩むだけだ。
桐子は錠に手を当てた。感じた。確かに——緩んでいる。三鐘を回って、少し経っている。今がその時間帯だ。
(よかった。タイミング合ってた)
そっと、引いた。
かちり、と音がして、扉が開いた。
三
地下の廊下は、上よりも暗かった。
石壁が両側に迫っていて、天井が低い。魔法灯はなく、桐子とソルは互いの精霊力を最小限に抑えた小さな光を足元に灯して進んだ。
(精霊力の濁り、上より強い。地下に近づくほど強くなってる。発生源はやっぱりこの地下にある)
倉庫の棚が並んでいる。先日確認した通り、薬草の瓶や鉱物の標本、古い術具。本物の倉庫として機能はしているらしい。
(表向きは普通の倉庫。でもその奥に——)
廊下の突き当たりに、例の二重錠の扉があった。
今度はソルが時間をかけずに解錠した。準備してきたパターンを流し込むだけだ。一分かからなかった。
扉が開いた。
最初に来たのは、においだった。
薬草と、鉱物と、それから——精霊力の濃縮した独特の匂い。
(これ……精霊力が凝縮した時の匂いや。でも歪んでる。正常な精霊力の豊かさとは全然違う。たとえるなら——新鮮な空気と、空気が腐った時の匂いくらい違う)
桐子のドラゴンの本能が鋭く反応した。
(この匂い、気分が悪い。体が拒否反応を示してる。精霊力でエネルギーを補う生き物として、この歪んだ精霊力環境は本能的に嫌悪する)
部屋に入った。
ソルの灯した光が、部屋の全貌を照らし出した。
広さは八畳ほど。石壁の四隅に、奇妙な形の金属製の柱が立っている。柱の表面に、細かい術式紋様が刻まれていた。柱と柱の間に、見えない何かが張られているような——精霊力の膜のような——感覚がある。
(術式……複雑や。でも構造は何となく読める。この四本の柱が一つのシステムを形成してて、中心に向かって何かを引き込む仕組みになってる。吸引力みたいなもんか)
(ここにいたら、精霊力を強制的に吸い取られる。ドラゴンにとっては、エネルギーを根こそぎ抜かれるのと同じや)
そして部屋の中央に。
檻があった。
木製ではなく、同じ金属製で、術式紋様で覆われている。
桐子は足を速めて、檻に近づいた。
中にいた。
二つ。
小さな生き物が、二つ。
一つは——妖精だと思った。人間の子どもの手のひらに乗るくらいの大きさで、半透明の薄い翅を持ち、緑がかった光を微かに帯びている。しかし今は、その光が恐ろしく弱まっていた。蜷局を巻くように檻の隅に倒れていて、翅が力なく広がっている。
(精霊力を吸い出されてる。この装置が、この子の精霊力を継続的に奪ってる。だから弱ってる)
もう一つは——桐子は息を呑んだ。
小さかった。
猫くらいの大きさで、鱗が生えていて、未発達の小さな翼がある。頭が大きく、目はまだ閉じている。
ドラゴンの、幼体だ。
(……)
(こんなに小さかったんか)
(ドラゴンの幼体を実際に見たのは初めてや。転生した直後の自分がどんな大きさだったかは知らんけど——この子は、生まれてそう経ってへん。こんな子が、こんな場所に)
ドラゴンとしての本能が、今度は抑えがたいほどの怒りを発した。
(落ち着け。今は感情を出したらあかん。人化が揺らぐ。落ち着け、桐子)
鱗の色が褪せている。呼吸が浅い。
(精霊力でエネルギーを補って生きてるはずの幼体が、精霊力を吸い出されてる。これは——食事を断たれてるのと同じや。いや、それ以上に直接的なダメージや)
「キリア」
ソルの声が、低かった。
隣に来たソルが、金属の柱の一つを見ていた。
「この術式紋様、見たことがある」
「何ですか?」
「古語と魔法文字の授業で読んだ文献に、似た紋様が載っていた。精霊力収集式だ。周囲の精霊力を強制的に引き込んで、中心点に集積させる術式」
「それが、この檻の中に向かって——」
「流れ込んでいる。この子たちから、精霊力を吸い出している」
(仮説が現実になった瞬間や。でも全然嬉しくない。これが答えやったんか、という達成感より、怒りと悲しさの方が全然勝ってる)
(研究者として仮説が証明されて喜ぶ自分と、ドラゴンとして同族の幼体を見て怒る自分が、今同時にいる)
「檻の錠は?」
「同じ術式錠だ。ただ——」ソルが錠を調べた。「これは俺には解けない。構造が違う。単純な精霊力照合じゃなく、特定の術式パターンが鍵になっている。設計者しか解けない構造だ」
「今夜は無理ですか」
「無理だ。解析に、最低でも数日かかる」
(今夜は連れ出せない)
そのことが、喉に刺さった棘のように痛かった。
(わかってた。今夜は調査や。でも実際に見てしまうと——)
「今夜は調査だけにします」と自分に言い聞かせるように言った。「無理に動いて、管理者に気づかれたら、もっとまずいことになる」
「——わかってる」とソルが言った。「ただ」
「ただ?」
「この装置、長期間稼働させると、中の個体に何が起きるか——」
「言わなくていいです」
(知ってる。精霊力を強制的に吸い出し続ければ、どうなるか。ドラゴンとして、精霊力がエネルギー源やからこそ、直感的にわかる)
(だから早くしなあかんけど、でも今夜は——)
桐子は部屋をできる限り詳細に観察した。柱の紋様の配置を頭に刻んだ。檻の構造を把握した。部屋の大きさ、壁の素材、天井の高さ。
ソルが隅に積まれた資料の束を見つけた。
「記録がある」
「写せますか」
「時間がかかる。今夜は——」
「表紙だけでも」
ソルがいくつかの資料を素早く確認した。
「実験記録、とある。日付は——三年前から始まっている」
(三年前)
「定期的に記録がある。精霊力収集量の数値が書かれている」
「持ち出せますか?」
「持ち出したら、管理者に気づかれる」
(そうや。証拠を持ち出せばバレる。今夜は目で見て、頭に入れて、戻る)
桐子は記録の日付と数値をできる限り記憶した。三年前から始まり、数値は右肩上がりに増えている。
(収集量が増えてる。装置が改良されてるか、対象を増やしてるか)
不意に、足音が聞こえた。
階段を下りてくる足音だ。
(来た!)
ソルと目が合った。
二人同時に動いた。
四
資料を元の場所に戻す。
桐子が部屋の扉を引いた。ソルが後ろ手に錠を掛け直す。
(ソル、手が震えてない。冷静や。助かる)
足音が近づいてくる。一人分だ。
廊下を戻って、最初の扉まで——時間が足りない。
「こっちだ」とソルが囁いた。
廊下の脇、棚と棚の間の隙間を指している。人一人が横向きに入れるかどうかというスペースだ。
(狭い! でも他に選択肢はない)
二人で棚の影に滑り込んだ。
桐子は精霊力の感知を最大にした。足音が、階段を降り切った。廊下を歩いてくる。魔法灯の光が、揺れながら近づいてくる。
(気配を消す。精霊力を体の内側に押し込めるようにして、気配を限りなく薄くする。ガレアスに教わった技術や。呼吸を最小限に——)
横でソルが動かなかった。呼吸を最小限に抑えているのがわかった。
(この人、訓練受けてる。隠蔽の仕方が素人やない)
光が近づいてくる。
人物が廊下を通り過ぎる。
桐子は薄目を開けた。
ローブ姿の、背の高い人物。フードを被っているため顔は見えない。ただ、手に提灯と、小さな容器のようなものを持っていた。容器からは精霊力の気配が漏れていた。
(あの容器……精霊力を入れて持ち運ぶための容器や。収集した精霊力をあそこに移して持ち出してる。エネルギーとして使うために? それとも別の目的で?)
人物は二重錠の扉の前で立ち止まった。
錠に手を当てる。解除するのに、ほぼ時間がかからなかった。設計者だ、と桐子は思った。
(見た。解錠の時の精霊力の動きを感知した。パターンを、頭に刻んでおく。これで錠の解き方が分かるかもしれへん)
扉が開く。
人物が入っていく。
扉が閉まる。
桐子とソルは、棚の影でしばらく動かなかった。
(精霊力の感知を続ける。部屋の中の動きを……読める。管理者が檻に近づいてる。容器に何かを移してる。精霊力を抜き取ってる)
(あかん。怒りが来る。落ち着け。人化が——落ち着け)
三分ほどして、扉が開いた。
人物が出てきた。さっきより、持っている容器が重そうに見えた。
足音が遠ざかる。階段を上る音がして、消えた。
桐子は息を吐いた。
(セーフ。セーフやった)
「顔は見えたか?」とソルが囁いた。
「見えなかった。背丈と体型だけ」
「俺も同じだ。ただ」
「ただ?」
「あのローブ、帝国の上級術師のものだ。普通の教員じゃない」
(帝国の上級術師。この学校に、そんな人間が出入りしてる)
「帝国の上級術師がここで何をしているのか」
「それが本題だろうな」とソルは言った。
(本題。そうや。これが全部の核心に繋がってる)
二人は素早く廊下を戻り、最初の扉を錠ごと元に戻して、地上に出た。
五
翌朝、桐子はひどい顔をしていたらしい。
「キリア、顔色悪すぎ。昨夜眠れなかった?」とルディアが朝食の席で言った。
「少し考え事をしていて」
「なんか最近、難しい顔してること多くない? 勉強のこと?」
「そうです、勉強のこと」
(嘘やないけど、正確でもない。でも今は言えへん)
「私に言えることなら聞くよ? 一緒に考える」
桐子はルディアの顔を見た。
(心配してる。純粋に、この子は心配してる)
(この子を巻き込みたくない。でも——一人で全部抱えてるのも、段々しんどくなってきた)
「大丈夫です。ありがとうルディア」
本当のことを言えないことが、少し、苦かった。
(研究者として情報を秘匿する判断は正しい。でも人間として、この子に嘘をついてる感じがするのが——)
午前の授業を終えて、昼食の後、桐子はタリス先生の研究室に向かった。
「昨夜、地下に行きましたか」とタリス先生が言った。
(先生が訊いてくるんか。探りを入れてるということは、先生自身も夜の出来事を把握しようとしてる)
「なぜそう思うんですか」と桐子は答えた。
「今朝、地下の倉庫の精霊力痕跡に、普段と違うパターンが混じっていた。私は定期的に確認している」
「先生も調べているんですね」
「——座りなさい」
前回と同じ言葉で、先生が椅子をまた片付けてくれた。
「見たものを話しなさい」と先生は言った。「私が話せることを、話すから」
(取引や。情報の交換。先生は孤立してる。学校の中で、あるいは何らかの組織の中で、動けない状況があって、それでも調査したいと思ってる)
桐子は昨夜見たものを、淡々と話した。
四本の柱。精霊力収集式の術式紋様。金属の檻。その中の妖精とドラゴンの幼体。三年前からの実験記録。帝国上級術師のローブを纏った人物。収集した精霊力を容器に移して持ち去ったこと。
話し終えると、タリス先生は長い間黙っていた。
「妖精とドラゴンの幼体が、両方いたのですね」
「はい」
「——状態は」
「弱っていました。精霊力を吸い出されていて」
(ここで感情が出そうになるのを、抑えた。先生に余計な情報を渡さへんように)
「そうか」
先生の声から、何かが抜けた気がした。疲れたような、重いような。
「先生は知っていたんですか」と桐子は聞いた。
「疑ってはいた。確認できていなかった」
「なぜ確認に行かなかったんですか。先生も地下を調べているなら」
「私には、あの二重錠が解けない」
(魔法理論の教員が、解けない錠がある。それほど高度な設計やということや)
「設計者が誰かはわかりますか」
先生がしばらく考えた後、口を開いた。
「——これは、私が学校に来る以前からの話です」
先生は話し始めた。
ハルティア魔法学校は、設立当初から帝国の魔法研究機関としての側面を持っていた。表向きは教育機関だが、地下には帝国の機密研究施設が設置されており、優秀な魔法師が帝国の依頼を受けて研究を行ってきた歴史がある。
「その機密研究の中に、精霊力の収集・変換に関する研究が含まれていた、ということですか」
「帝国は、魔法の軍事利用を常に模索してきた。百年前の魔法師戦争で使われた精霊力炉の技術は、その後封印されたはずだった。しかし——」
「封印が、解かれた?」
「研究が、再開された、と言うべきか。誰によってかは——私には確認できていない。ただ、三年前からこの学校の精霊力環境が変化し始めたのは事実だ」
(三年前。実験記録の開始と一致する)
「なぜ先生は動けないんですか」と桐子は聞いた。「知っていて、疑っていて、なぜ止めようとしないんですか」
(これは、責めてるわけやない。純粋に理由を知りたい。先生が動けない構造を理解しないと、どう動くべきかの判断ができへん)
先生は窓の外を見た。
「帝国の上部から、この研究への関与を知っている者がいる。表に出そうとした者が、これまでに二人いた。一人は左遷された。もう一人は——行方不明になった」
沈黙が落ちた。
(行方不明。精霊力を多く持つ者が消えてる、という話と重なる。魔法師も、消えてる)
「だから一人では動けない。証拠もない。動いても潰される」
(この人は臆病なんやない。一人で動いて潰されるより、正しい形で告発できる状況を待ってる。それは慎重さであり、戦略でもある。でも——その間も、地下では何かが続いてる)
「証拠を集めることなら、できるかもしれません」と桐子は言った。
「お前が?」
「私と、もう一人。同じように問題に気づいている学生がいます」
先生が桐子を見た。
「危険だ」
「知っています」
「学生が首を突っ込む話ではない」
「でも」と桐子は言った。「学生だからこそ、疑われにくい部分もある」
(これは本当のことや。帝国上級術師が警戒するのは、自分たちと同じレベルの存在や。一年生の学生が夜中に地下をうろついてるとは、思わへんやろ——今のところは)
先生はまた黙った。
「一つだけ教えてください」と桐子は続けた。「あの檻の錠を設計したのは誰ですか。あの錠の構造を理解している者が学校内にいますか」
「——学長が、知っているかもしれない」
「学長が関与しているということですか」
「いや」と先生は首を振った。「学長は、関与していないと私は信じている。ただ、この学校の設立当初からの記録を保管している。そこに設計図が残っている可能性がある」
「学長に話すべきですか」
「それは——私には言えない。学長が本当に関与していないかどうかを、私には確認する手段がない」
桐子は立ち上がった。
「少し時間をください。調べます」
「キリア」
「はい」
「お前は——どこから来たのか、本当のことを私には言わないだろうが」と先生は静かに言った。「それでも、お前がただの辺境の学生でないことは、最初の授業でわかっていた」
(あの最初の授業での質問か。やっぱり先生には分かってたんや)
桐子は答えなかった。
「気をつけなさい」と先生は言った。「前と同じことを言うが、今度はより強く言う。本当に、気をつけなさい」
(先生の目が、本気や。脅しやない、純粋な心配の目や)
(……ありがとうございます、とは声に出して言えへんかったけど、ちゃんと伝わってるといいな)
六
その夜、桐子は一人でガレアスへの報告書を書いた。
この世界の文字は、三週間でだいぶ上達していた。まだ遅いが、なんとか書ける。
精霊力炉の再稼働の可能性。学校地下の収集装置。三年前からの実験記録。帝国上級術師の関与。タリス先生の証言。
(書きながら整理していく。これが研究者として一番落ち着く作業や)
(でも今回は、整理するたびに怒りが蘇ってくる。あの幼体の姿が、頭から離れへん)
書きながら、整理していく。
問題の規模が、当初の想定より大きかった。
(ドラゴンの長たちは「人間社会からの情報収集」を期待していた。でも実態は、帝国の中枢が絡んでいる可能性のある話や。一学生が証拠を集めれば解決するような規模やない)
でも。
地下に、幼いドラゴンがいた。
弱って、精霊力を吸い出されて、小さな体で檻の中にいた。
(ドラゴンとして、あれを見捨てて「規模が大きいから手を引く」という選択は——できへん。研究者としての桐子にも、ドラゴンとしての桐子にも、できへん)
(これは感情論やなくて、優先順位の問題や。あの子の精霊力が底をつく前に、何とかしなあかん)
「眠れないの?」
声がして、飛び上がりそうになった。
ルディアが布団の中から半身を起こして、こちらを見ていた。
(また起きてた。この子、意外と眠りが浅い?)
「——起こしましたか、ごめんなさい」
「ううん、もともと目が覚めてて。何書いてるの?」
「整理していることがあって」
「勉強?」
「そうです」
(嘘や。でも今は言えへん)
ルディアが少し黙った。
「キリア」
「はい」
「何か抱えてる?」
(直球やな。この子、いつも直球や)
桐子は手を止めた。
「顔に出てる、ってわけじゃないよ」とルディアは続けた。「ただ、最近のキリアが——慎重すぎる気がして。私と話す時、いつも一歩引いてる感じがして」
(気づいてたんや。ルディアの観察眼、侮れへんな)
桐子は返事をしなかった。
「巻き込みたくないと思ってるんでしょ、私のことを」
「……なんでわかるんですか」
「わかるよ、そのくらい」
ルディアが起き上がって、ベッドの端に座った。
「私ね、三女なんだけど」と唐突に言った。「上に姉が二人いて、二人とも優秀で。私のことをずっと「守る側」に回ろうとするの。心配してくれてるのはわかるけど、それって結局、私を信頼してないってことじゃないかって、ずっと思ってた」
(……その気持ち、わかる気がする。研究室で「きりちゃんは小柄で可愛いから」って言われながら、実力を見てもらえへんかった時の感覚に近い)
桐子は黙って聞いた。
「だから私はキリアに、同じことをしてほしくない。巻き込みたくないっていう気持ちは優しさだと思うけど——でも、それって私が何もできないと思ってるってことでしょ?」
「そうじゃないです」と桐子は言った。「ルディアは優秀です。実技の伸びは、クラスでトップに近い。知識の吸収も早い」
「じゃあなぜ?」
「——危ないから、です」
「どのくらい?」
「今はまだ、全体像が見えていないので、具体的には言えませんが」
(本当のことや。全体像が見えてへんから、どこまでが安全でどこからが危険か、まだ判断できへん)
ルディアが少し考えた。
「私のお父さん、宮廷魔法師だって言ったよね」
「はい」
「最近、お父さんから手紙が来たの。内容は、気をつけろ、それだけ。理由は書いてなかった。でも、お父さんが理由なしに「気をつけろ」って言う時は——本当にやばい時なんだ」
(お父さんも、何かを知ってる。でも言えない。その構図、タリス先生と同じや)
桐子はルディアを見た。
「お父さんも、何かを知ってる。でも言えない。それは私もわかってた。だから私も、探してた。一人で」
「一人で?」
「うん。図書室で精霊力炉の文献を調べてたら、古い論文が何本か見つかって——それが最近、書架から消えていることに気づいたの」
(精霊力炉の文献が消えてる。証拠隠滅や。この子、一人で同じ方向に辿り着いてた)
(私とソルが動いてる間、この子も動いてたんか)
「消えた論文の目録は取ってあります?」
「うん、手帳に書いてある」
「見せてもらえますか」
ルディアがベッドサイドの手帳を取り出した。桐子に手渡す。
桐子はページを開いた。
五本の論文の題名が書かれていた。著者名と、消えた時期の推定。
一本の著者名に、目が止まった。
タリス、という名前があった。
(タリス先生の論文や!)
「この論文の著者——」
「そう」とルディアが言った。「タリス先生のものが一本、混じってた。十五年前の論文で、精霊力循環の異常に関する研究。帝国の検閲を受けた形跡がある」
(十五年前から、先生はこの問題を追ってた。でも論文を潰された。だから「言えない」んや。今に始まった話やない)
桐子は手帳をそっと閉じた。
「ルディア」
「うん?」
「一緒に動いてもいいですか」
ルディアが、ぱっと顔を明るくした。
「最初からそう言ってほしかった」
(この子の笑顔、眩しいな。人化が揺らぐとかそういう話やなくて、純粋にそう思う)
(でも今は感情の話は後や。まずは頭を整理する)
「ただし」と桐子は続けた。「危険な場面では私の指示に従ってください。必ずです」
「わかった」とルディアは即座に答えた。「でも一個だけ言っていい?」
「なんですか」
「キリアが危ない時は、私も絶対に止めるから。お互い様ってことで」
(……この子、本当に真っ直ぐやな)
「——わかりました」
七
翌朝、桐子はソルに話した。
ルディアが加わること。彼女の収集した情報。タリス先生の論文が消えていること。
ソルは少し難しい顔をしたが、最終的に「わかった」と言った。
「ルディアのお父さんが宮廷魔法師で、帝国側から情報が入る可能性がある」とソルは言った。「それは有益かもしれない」
「そうです」
「ただ——宮廷魔法師が絡んでいるとすれば、ルディアのお父さんも、何らかの形で知っているかもしれない」
「味方かもしれないし、そうでないかもしれない」
「慎重に、だ」
「常にそうします」
(三人が揃った。研究者と、精霊力感知者と、情報収集者。それぞれの得意分野が違う。悪くない組み合わせや)
三人が揃った。
地下の二重錠の向こうに、幼いドラゴンと妖精がいる。
帝国の上層部に、この計画の関係者がいる。
タリス先生は、十五年前からこの問題を追っていた。
そして精霊力の総量は、今この瞬間も、減り続けている。
桐子は空を見上げた。帝都の空は、森の空より狭い。建物が邪魔して、見える青の面積が少ない。
(早く飛びたい)
と思って、すぐに打ち消した。
(今は飛んでいる場合やない。でも——解決したら。全部片付いたら。一度でいいから、この帝都の上空を、思い切り飛んでみたい。その時はルディアに「ちょっとごめん」って言える日が来るかな。来てほしいな)
桐子はソルとルディアの方を向いた。
「次の動きを決めましょう」
(三人で、やれるところまでやる。それだけや)




