タリス先生は何かを知っているし、ソルは何かを隠しているし、私は授業中に変身しかけた件
一
ハルティア魔法学校に入学して三週間が経った。
桐子——キリアとしての生活には、思ったより早く慣れた。朝は六時に起きて、食堂で朝食を取り——
(正確には、朝食を取るふりをしながらルディアと話して、食べ物はこっそり窓の外の鳥に分けている)
——午前に三コマの授業を受け、昼食を挟んで午後に二コマ、夕方に自習と実技の自主練習。消灯は夜の十二鐘。
規則正しい。
規則正しすぎて、最初の一週間は落ち着かなかった。
(ドラゴン時代は眠たかったら寝て、飛びたかったら飛んで、精霊力は大気から勝手に補充されて——それだけやったのに。今は時間割と寮則に縛られて、しかも食事を食べるふりまでしなあかん)
(食べるふり、地味にしんどい。特に昼食。品数が多い時ほど処理が大変や)
しかし三週間も経つと、それなりに順応してきた。
人間だった頃の記憶が、意外と役に立った。大学院時代も、それなりに規則正しい生活を強いられていた。締め切りがあり、ゼミがあり、報告書がある。あの頃の感覚が戻ってきた感じがした。
授業は——正直に言って、楽しかった。
全部が楽しかった。
(これがあかんねん。楽しいと感情が高ぶる。感情が高ぶると人化が揺らぐ。自分の設計上の欠陥に日々直面してる感じがする)
魔法理論の構造を学ぶたびに、前の世界で学んだ物理や化学との類似点と相違点が浮かんできて、頭の中で比較検討が始まる。精霊力制御実技では本能と理論を接続する感覚が面白くて仕方ない。古語の授業では文字体系の成立に言語学的な興味が湧く。
(三度の飯より研究、とはよく言ったもんやけど、私の場合は飯を食わへんドラゴンやから文字通り研究が最優先になってしまってる。これは問題なのか問題やないのか)
問題があるとすれば、一つだった。
地下の扉のことが、頭から離れない。
(怯えてた。扉の向こうの生き物が、怯えてた。その事実が引っかかって、どうにも集中できへん瞬間がある)
二
三週目の水曜日、魔法理論基礎の授業中だった。
タリス先生がその日の講義テーマを黒板に書いた。
「精霊力の循環と自然界における収支」
(……あれ)
桐子の手が、ノートを取る途中で止まった。
(先週の授業で私が質問した内容や。先生は「後期の上級講義で扱う」って言ってた。それが繰り上がって、今日のテーマになってる)
(偶然、ではないかもしれない)
タリス先生が話し始めた。
「精霊力は大気中に満ちており、生命体はそれを呼吸のように取り込んで生きています。魔法師はその取り込み量を意図的に増やし、制御して術として顕現させる。ここまでは先週の復習です」
板書が続く。
「では、使われた精霊力はどこへ行くのか。従来の学説では、術として顕現した精霊力は物理現象に変換されて消費され、残余のエネルギーが大気に拡散し、再び循環に戻るとされてきました」
(ここまでは前回と同じ話や)
「しかし」
タリス先生がチョークを一度置いた。
「近年の観測では、この循環に、異常が確認されています」
教室が静かになった。
「精霊力の総量は、理論上は保存されるはずです。使われた分が大気に戻り、また取り込まれる。閉じた系であれば、総量は変わらない。しかし——帝国各地で行われている精霊力濃度の観測データによれば、過去二十年で、大気中の精霊力総量が約十二パーセント減少しています」
完全な沈黙が落ちた。
(十二パーセント)
桐子は数字を頭の中で転がした。
(二十年で十二パーセントの減少。単純な線形減少だとして、あと百六十年ほどで枯渇する計算になる。でも自然現象は線形やない。加速する可能性が高い)
(そして精霊力でエネルギーを補ってるドラゴンにとって、これは直接的な生存の問題や)
(……十二パーセント。この三ヶ月で私が感じてた「薄さ」は、気のせいやなかったんや)
「この減少の原因については、現在も調査中です。自然的な変動の範囲という意見もありますが——」先生は一瞬だけ言葉を切った。「私個人は、そう思っていません」
隣でルディアが小声で「先生、こわい顔してる」と囁いた。
(確かに。タリス先生の表情は、いつもの淡々としたものから、わずかに険しくなってた)
「では、精霊力が循環に戻らず、どこかへ消えているとしたら? その場合、どういう機序が考えられるか——これを今日のテーマとして考えてほしい」
先生が生徒に視線を向けた。
何人かが意見を出した。精霊力を大量消費する魔法が使われている、とか、自然環境の変化で精霊力を宿す物質が減っている、とか。
桐子はノートに自分の考えを書いていた。
書きながら、気づいた。
(吸い取られているとしたら?)
(精霊力が消えているのではなく、何かに吸収されているとしたら。自然界に戻らないということは、系から外に出ているということや。外に出るためには、出口が必要や。出口というのは——)
(地下の扉)
(あの扉の向こうから漏れ出てくる、あの「濁り」。もしあれが精霊力の流出口——あるいは流出を引き起こしている何かの副産物やとしたら)
「先生」
また手を挙げていた。
(あ、また衝動的に。でも今回は止められへん)
「どうぞ、キリア」
「精霊力が系外に流出している可能性は考えられますか。つまり、大気の外——あるいは大気とは別の何らかの層や空間に、精霊力が吸収されているとしたら、観測データと矛盾しませんか」
タリス先生が桐子をまっすぐ見た。
「続けてください」
(あ、先生、続きを促してる。止めへんのや)
「精霊力の循環が正常に機能しているなら、損失は誤差の範囲に収まるはずです。でも二十年で十二パーセントは誤差じゃない。流出しているとすれば、吸収口のようなものがどこかに存在するはずで——それは固定された場所にあるのか、移動するのか、あるいは複数箇所に分散しているのか」
言いながら、桐子は自分の言葉が地下の扉と接続していくのを感じた。
(固定された場所。複数箇所。この学校の地下はその一つかもしれへん)
(落ち着け。今は授業中や。感情を表に出したら人化が——)
「——理論的には、可能性としてあり得ます」
タリス先生が静かに言った。
「ただし、そのような構造物や装置の存在については、現時点では確認されていません」
「現時点では」と桐子は繰り返した。
「そうです。現時点では」
先生の目が、一瞬だけ何かを言いかけて——やめた。
(その「やめた」、見逃さへんかった)
(先生は知ってる。現時点では、という言い方は、過去には何かがあったか、あるいは今も続いてる何かを把握してるかのどちらかや)
三
授業後、廊下を歩いていたら後ろから声をかけられた。
「少し話せるか」
ソルだった。
ルディアがいたが、ソルは「二人で」と付け加えた。ルディアは「じゃあ私、図書室行ってるね」とあっさり言って去っていった。
(読む空気は持ってる子や。助かる)
ソルと並んで、中庭のベンチに腰を下ろした。
四月の帝都は、まだ少し肌寒い。石畳の中庭に、花壇があって、名前を知らない薄紫の花が咲いている。
(この花の精霊力、きれいやな。乱れがない。今のところ、この中庭は学校の中でも精霊力の状態がいい場所や)
「タリス先生の授業での話」とソルが切り出した。
「はい」
「あれは、どこで考えた? 独学で?」
「独学です」と答えた。
(これは本当のことや。ガレアスとの会話から自分で考えたことやから)
「生態学みたいな考え方だった」
桐子の動きが止まった。
(生態学。ガレアスも同じことを言ってた。この世界に生態学という学問があるのかどうかは知らんけど、ソルにはその概念があるらしい)
「物質の循環を系として捉える考え方です。珍しいですか?」
「この国ではあまり見ない視点だ。魔法理論はどちらかというと術式の精緻化に偏っている。全体の収支を見るという発想が薄い」
「そうですか」
「お前の出身、エルダ州だよな」
「そうです」
「エルダ州に、そういう教え方をする師匠がいるのか」
(師匠、というのはガレアスのことを指してるんやろな。まあ間違いやないけど、正確でもない)
桐子は少し考えた。
「師匠に教わったというより、自分で本を読んで考えました」
「どんな本を?」
「色々と。東の方の本も読みました」
(それ以上はうまく誤魔化せる自信がないので、話題を変えることにする)
「ソルは、なぜこの学校に?」
「学びに来た」
「それはみんなそうですが」
「——精霊力の乱れを調べたくて来た」
今度は桐子が黙った。
(直接的に言ってくるんや。探りを入れてるわけやない、本当にそれが目的で来てる)
ソルが続けた。
「俺の故郷、北部の小さな村だが——二年前から、精霊力が急激に薄くなっている。作物が育たなくなってきた。動物が減った。老人や子どもが体調を崩しやすくなった。精霊力が生命に与える影響は、専門家じゃなくても肌でわかる」
(二年前から。精霊力でエネルギーを補う生き物が多い地域ほど、影響が顕著に出るやろな。そしてドラゴンや妖精が消えてる地域と重なるかもしれへん)
「調べて、どうするつもりですか」
「止めたい」
迷いのない答えだった。
(この人、本気や。建前やない)
「一学生にできることではないかもしれませんが」
「わかってる」とソルは言った。「でもここに情報がある。タリス先生は何か知っている。この学校はただの学校じゃないかもしれない」
桐子は、ベンチの石の冷たさを感じながら、ソルの横顔を見た。
(この学生は、独自にここに辿り着いた。動機は個人的やけど、目的は同じ方向を向いてる)
(どうする? 仲間にするのか。この話を打ち明けるのか)
(ガレアスの声が頭の中で蘇る。「学校内では単独で動け。人間を信用しすぎるな」)
(でも)
「——夜の地下に、何かがいます」
口から出ていた。
(あ、言ってもた)
(……いや、言って正解やと思う。一人では限界がある。この人の感知精度なら、一緒に動いた方が確実に成果が上がる。研究者として合理的な判断や)
ソルが桐子を見た。
「二重錠の扉の向こうに、精霊力を持った小さい生き物が閉じ込められているような気配がする。そしてそこから、精霊力の乱れが滲み出てきている」
「確認したのか?」
「入学十日目の夜に場所だけ」
「なるほど」とソルは言った。「だから俺が気配を感じたのか」
「ごめんなさい、足音は消してたつもりだったんですが」
「足音じゃない。精霊力の痕跡だ。お前はそこを触った後、廊下に少しだけ痕跡を残していた。精霊力を強く感知した後は、自分自身から微量が漏れる。それがわかる者には、わかる」
(それは知らんかった。完全に盲点やった)
(気をつけなあかん。要改善点として記録しとこ)
「俺も地下が気になっていた。一人では何かあった時に対処できないと思って、保留していた」
「同じです」
少し沈黙が落ちた。
「一緒に動くか?」とソルが言った。
桐子はしばらく考えた。
(研究者としての判断を下すなら——情報収集において、適切な共同研究者は成果を上げる。単独研究の限界もある。そしてこの人の精霊力感知能力は、純粋に戦力として頼れる)
「条件があります」と桐子は言った。
「聞く」
「ルディアには言わない。あの子を巻き込まない」
「それは同意する」
「あと、地下を調べるのは慎重に。証拠を集めることを優先して、相手に気づかれるようなことはしない」
「当然だ」
「では——よろしくお願いします」
ソルが短く頷いた。
(握手はしなかった。なんとなく、この学生はそういうことをしない気がした。なんでわかるんやろ。観察眼が育ってきたんかな、それともドラゴンの本能的な何かか)
四
問題が起きたのは、その翌週の自然精霊学の授業中だった。
自然精霊学は、動植物に宿る精霊力と、それが生態系にどう機能するかを学ぶ科目だ。
(私が選択科目の中で最も興味を持ってた授業がこれや。完全に趣味と任務と自己保存が一致してる)
担当のフィン先生は、六十代の小柄な老人で、禿頭に白い顎鬚、ふんわりした雰囲気の人物だった。話が脱線しがちだが、内容は深い。
その日のテーマは「複数種族間における精霊力の相互作用」だった。
「人間の魔法師だけが精霊力を扱えると思っている人間が多いですが、実際には多くの種族が独自の方法で精霊力と共生しています。たとえば妖精族は精霊力を体に纏うことで飛翔できる。獣人族は種によって固有の精霊力共鳴パターンを持つ。そしてドラゴンは——」
桐子の背中を、何かが走った。
(ドラゴンの話になった)
「ドラゴンは、この世界で最大の精霊力保有種です。体内に蓄積できる量、制御の精度、どちらも他種族の追随を許さない。しかし最も特筆すべき点は——ドラゴンは精霊力を食事の代わりとして直接エネルギーに変換して生きている、という点です」
(そうや。ガレアスに教わった通りや)
「ドラゴンが炎を吐けるのも、長距離を飛べるのも、全て体内の精霊力変換によるものです。そのためドラゴンにとって精霊力は、人間にとっての空気と食料を合わせたようなもの——精霊力のない環境では、ドラゴンは文字通り死に向かいます」
(死に向かう、か。そこまで直接的に言うんや。まあ事実やけど)
「また、ドラゴンの知覚能力——精霊力の感知範囲と精度——は人間の魔法師の数十倍に達するとも言われている」
数十倍。
(そら実技首席になるわけやな。というか普通に考えて、精霊力でエネルギーを補ってる生き物が精霊力の感知に優れてるのは当然や。エサを感知する能力が優れてるのと同じ理屈や)
「特筆すべきは、ドラゴンの精霊力は独自の『色彩』を持つという点です。人間の魔法師の精霊力は白から黄色の範囲に収まりますが、ドラゴンの精霊力は青から銀、あるいは深紅など、種によって異なる色を持ちます」
ルディアが桐子の袖を引いた。
「キリア、精霊力の色、青っぽいって言ってたよね」
「……そうでしたっけ」
「実技の授業でアイラ先生に言われてた」
「個人差じゃないですかね」
「でも先生、青から銀ってドラゴンだって——」
「個人差です」
(頼む、それ以上言わんといて。人化が揺らぐ前に話題を変えたい)
少し強めに言ったら、ルディアが「わかった」と引き下がった。
フィン先生の授業は続く。
「ドラゴンの精霊力が特異なのは色だけではありません。その波長特性が、通常の精霊力循環を著しく促進させる効果を持つためです。平たく言えば——ドラゴンが一頭いるだけで、その周囲数十キロの精霊力循環が活性化する。ドラゴンが増減すると、その地域の精霊力環境が大きく変わる」
桐子の思考が、ある方向へ走った。
(ドラゴンが精霊力循環を促進する)
(行方不明になっているのは、ドラゴンの幼体と妖精族)
(精霊力循環が乱れ、総量が減少している)
(因果の方向は——どちらや?)
(ドラゴンが減ったから循環が乱れているのか)
(それとも、循環を乱すために——ドラゴンを排除している者がいるのか)
頭の中で仮説が組み上がっていく感覚があった。研究者の部分が、全力で動き始めていた。ピースが繋がっていく、あの快感。
(待って、地下に閉じ込められているのが妖精なら——捕獲している者が精霊力循環の乱れに関与している可能性が——そしてタリス先生が何かを知っていて言えない理由があるとしたら——学校内に協力者がいるということで——だとすれば、学長の「異変を知っている」発言は——)
(面白い! 全部繋がってきた!!)
(いや待って——)
「——キリア?」
ルディアの声が聞こえた。
遠い。
なんで遠いんやろ、と思った次の瞬間、桐子は自分の手を見た。
指が、四本に見えた。
違う。いや、五本ある。五本あるが——爪が、少し、長くなっていた。鱗が、二枚ほど、手の甲に浮き出ていた。
(まずい)
全身に冷水を浴びせられたような感覚があった。
(興奮しすぎた。思考に没入しすぎた。人化の制御が、揺らいでる)
(謎解きの快感で人化が解けかけるって、我ながらどういう設計やねん私の体は)
桐子は息を止めた。
意識を全部、体の輪郭に向けた。アルジェに言われた。人化は紙の形を変えること。その形が乱れているなら、意識で押さえ込む。
一秒。
二秒。
鱗が、引っ込んだ。爪が、戻った。手の形が、人間のものに戻った。
(セーフ……セーフやった……)
三秒後には、何も起きていなかった。
桐子はそっと周囲を見渡した。
ルディアは自分の方を見ていたが、手元は見ていなかった。他の生徒は前を向いていた。フィン先生は黒板に向かって板書していた。
「大丈夫? 顔色悪い」とルディアが小声で言った。
「ちょっと頭が痛くて」
「体調悪いなら保健室行く?」
「大丈夫です。続けます」
(心臓が——人間の心臓が——速く打ってる)
(危なかった。授業中に変身しかけた。理由は考えすぎたことや。謎が解けていく快感で——研究者としての興奮で——それが「大きな喜び」に分類されるとは)
(研究が楽しすぎても変身しかけるって、どういう体質やねん。アルジェに相談したら絶対「学校行くな」って言われる。言わへんでおこ)
フィン先生の声が耳に戻ってくる。
「——以上の理由から、ドラゴンと精霊力循環の関係は非常に密接です。近年、一部の研究者がドラゴンの個体数と精霊力総量の相関を調査していますが、帝国内ではなかなか進展がない。ドラゴンの研究は彼らの協力が必要で、それが難しいという現実があります」
(ドラゴンの協力が必要、か。その「ドラゴン」が今ここで授業聞いてますよ、とは口が裂けても言えへんけど)
桐子は静かに息を吸った。
落ち着いた。制御を取り戻した。
(でも頭の中では、さっき組み上がりかけたパズルが、まだ動いてる)
(地下の扉の向こうに、精霊力を持った小さな生き物がいた。妖精かもしれないし——幼いドラゴンかもしれない。どちらにしても、早く確認する必要がある)
五
放課後、ソルと中庭で落ち合った。
桐子は授業中に組み上がりかけた仮説を、かいつまんで話した。ソルは口を挟まず聞いた。
「精霊力循環の乱れとドラゴンの行方不明が連動しているとすれば」と桐子は言った。「二つの可能性がある。一つは、ドラゴンが減少したために循環が乱れた。もう一つは、循環を乱す何かがドラゴンを利用あるいは排除している」
「どちらだと思う?」とソルが聞いた。
「後者です。理由は、乱れの発生源が点在しているから。自然な循環の乱れなら、もっと広域で一様に起きるはずです。でもガレ——私が把握している情報では、乱れは特定の場所に集中している」
「ガレ、と言いかけた。誰かの名前か」
(あ、言いかけてもた)
「情報提供者です。詳細は言えませんが、信頼できる筋です」
ソルはそれ以上聞かなかった。
(この人、聞かない判断ができる。情報を引き出そうとするやなく、聞いていいことと聞いたらあかんことを整理してから話してくる)
(なんか、できる人の立ち回りやな。年齢のわりに妙に洗練されてる)
「地下を調べたい」とソルが言った。
「同意します。ただ、二重錠の解除には時間がかかります。事前に練習が必要です」
「魔法錠の解析なら、授業外でできる。フィン先生の研究室に関連する資料があるはずだ」
「……なぜ知ってるんですか」
「一週間、調べた」
(一週間で調べたんか。この学生、行動力があるな。しかもそれを普通のことみたいに言ってる)
「フィン先生は信用できそうですか?」と桐子は聞いた。
「わからない。ただ、タリス先生とは違うと思う。タリス先生は何かを知って隠している。フィン先生は——知りたがっているが知れていない、という印象を受ける」
(同意や。その観察、私も同じ結論に至ってた。タリス先生の「やめた」と、フィン先生の「脱線しながら深い話をする」スタイルは、情報に対するスタンスが根本的に違う)
「では、タリス先生にアプローチしてみます」
「どうやって?」
「質問しに行く。授業後の質問という体で、先生がどこまで話せるかを確認する」
「警戒されないか?」
「すでに目をつけられています」と桐子は言った。「最初の授業から。ならば正面から行った方が自然です。積極的に疑問を持つ学生、という印象を固めておけば、調べている素振りを見せても自然に見える」
ソルが少しだけ目を細めた。
「情報収集が、慣れている?」
「研究者はみんなそうです」
(研究者として当然の立ち回りを、この人は「情報収集に慣れている」と表現した。そういう視点で見てるんや、この人は。面白い)
六
タリス先生の研究室は、校舎の北棟三階にあった。
ノックして「どうぞ」と低い声がして、ドアを開けると、先生は山積みになった資料の中に埋もれるようにして椅子に座っていた。
(資料の量、えぐい。私の前の職場の研究室思い出した。懐かしいような、若干トラウマのような)
眼鏡の奥の目が、桐子を認識して、わずかに変わった。
「キリア。どうした」
「授業の内容について、もう少し聞いていいですか」
「——座りなさい」
椅子は資料に埋まっていた。先生が二冊ほど移動させて、スペースを作ってくれた。
「精霊力の流出について考えていたんですが」と桐子は始めた。「仮に、人工的に精霊力を集積させる装置があったとしたら——大気中の精霊力を強制的に引き込む何かが——それで説明できると思うんです」
タリス先生が眼鏡を外して、布で拭いた。
(考える時間を作ってる。何を言うか、言わないかを整理してる)
「理論としては成立する」と先生は言った。
「実際にそういう装置の記録はありますか? 古い文献とかに」
「——それを知っているなら、どうするつもりだ」
桐子は先生の目を見た。
「調べます」
「学生が?」
「知りたいので」
(これは本音や。任務とか関係なく、純粋に知りたい)
間があった。
「百年前の魔法師戦争の記録に」と、先生は静かに言った。「精霊力炉、という概念が出てくる。精霊力を強制的に集積・変換して、莫大なエネルギーを生み出す装置の設計図が、複数の魔法師によって研究されていた」
「実用化されましたか」
「戦争の末期に、一度だけ稼働したとされている。結果は——壊滅的だった。周囲数十キロの精霊力が一夜にして消滅し、百年後の今でもその地域の精霊力濃度は周辺の三分の一程度しかない」
(百年前。一夜で数十キロの精霊力を消滅させた装置)
(精霊力でエネルギーを補うドラゴンがその地域にいたら——一夜で死に至る、ということや)
(ぞっとする話や。しかし研究者として、その装置の設計原理は気になる。いや今はそこやない)
「その設計図は今も残っているんですか」と桐子は聞いた。
「残っていないと思われていた」
「思われていた、ということは?」
タリス先生が桐子を見た。長い沈黙があった。
外から、学生が廊下を歩く足音が聞こえてきて、遠ざかっていった。
「——授業では言えないことがある」と先生は言った。「だが、キリア、お前は正しい方向を見ている」
「先生は、何を知っているんですか」
「知っていることと、言えることは違う」
「なぜ言えないんですか」
「それも言えない」
(壁にぶつかった。でも壁があるということは、その向こうに何かがあるということや)
「一つだけ聞かせてください」と桐子は言った。「この学校の地下に、何がありますか」
タリス先生の眼鏡が、窓からの光を反射した。
「——それを知っているなら、近づかない方がいい」
「近づかない方がいい、と先生は思っているんですか? それとも、近づいてほしくない誰かがいるんですか?」
また沈黙。
今度は、さっきより長かった。
(先生の表情が変わった。この質問、刺さった。「近づかない方がいい」と言った時、先生自身が迷った顔をしてた。つまり先生も——本当は近づきたいんや。でも何かが止めてる)
「賢い子だ」と先生は最後に言った。「賢い子ほど、危ないことがある。気をつけなさい」
それ以上は、何も言わなかった。
桐子は研究室を出た。
(廊下に出た途端、頭の中でパズルのピースが、また一枚重なった音がした)
(先生は知ってる。言えない状況がある。でも私が正しい方向を見てると言った。それは、遠回しに「続けろ」という意味にも取れる)
(そう解釈するのは都合よすぎるかな。でも研究者として、データの解釈は常に複数の可能性を持って進めるべきやし……)
七
夜、布団の中でルディアの寝息を聞きながら、桐子は整理した。
わかっていること。
精霊力の総量が二十年で十二パーセント減少している。行方不明のドラゴン幼体と妖精族。百年前に設計された精霊力炉。タリス先生が何かを知っていて言えない状況にある。地下の二重錠の扉の向こうに、精霊力を持つ小さな生き物がいる。
わかっていないこと。
精霊力炉が実際に存在するのか。地下にいるのが何なのか。タリス先生を沈黙させているのは誰か。そして——この学校が、問題の中心なのか、それとも問題を調査しようとしている側なのか。
桐子は目を閉じた。
(ガレアスに報告しなければならない。次に会える機会は——月に一度、帝都の外れで落ち合う約束になっている。次の面会まで、あと十二日)
(十二日で、もう少し情報を集めておきたい。地下の扉を、開ける。タリス先生を、もう一度訪ねる)
(研究者の判断としては——)
桐子は少し笑いたくなった。
(研究者の判断が、安全優先で止まったことがあっただろうか。少なくとも自分には、なかった。締め切り前日に新しいデータが取れたら徹夜で解析し直すタイプの人間やった)
(ドラゴンになっても、そこは変わらへんらしい)
桐子は天井を見上げた。
(やることは多い。でも充実してる)
(知らないことが、たくさんある)
(それは、つまり——知れることが、たくさんある、ということや)
桐子は目を閉じた。
(明日の自然精霊学は、興奮しすぎないようにしよう)
(というか、今日のレベルで解けかけるなら、本格的に答えに近づいた時はどうなるんやろ。真剣に考えると怖いな……)
(まあ、その時はその時に考える。今の私に言えることは——)
(止まる気はない、それだけや)
そう思いながら、眠りに落ちた。




