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9/9

全部動き出したし、全部ぶつかったし、私はとうとう変身した件


 残り六日、という言葉が頭の中で繰り返されていた。


 朝起きるたびに一つずつ減っていく数字だ。五日、四日、三日——その先に何があるかは、もう決まっている。ヴェルドラが動く。第一皇子の情報部門が動く。タリス先生と学長が動く。そして自分が——どういう形であれ、動く。


 問題は、それが綺麗に噛み合う保証が、どこにもないことだ。


 残り六日の朝、桐子は鏡を見た。


 いつもの確認作業だ。


 顔は人間だった。黒髪、二十代、少し小柄。


 ただ、目の色が——昨日より少し、青みが強い気がした。


(気のせいやと思いたい)


(でも気のせいやない。毎朝この確認をしてる時点で、精神的に追い詰められてる自覚はある。研究者として客観的に自分の状態を評価すると、限界が近づいてる。でも止まるわけにはいかへん)


「キリア、また鏡とにらめっこしてる」


 ルディアが起き上がった。


「習慣です」


「顔色はどう?」


「……問題ない、と思います」


「「と思います」の部分が気になるんだけど」


「大丈夫です」


「その「大丈夫」も微妙に信用できないんだよね」


(ルディアの信用できない精度が上がってきてる。この三ヶ月で私の嘘の精度も上がってるはずやのに、それ以上にルディアの観察眼が上がってる。この子の成長速度、怖い)


 ルディアは起き上がってそのまま押し入れを開けた。ミトが目を開けた。妖精三体のうち二体もそこにいる。精霊媒体の妖精——ルディアがいつの間にか「ティア」と名付けていた——は昨夜から桐子の枕元で眠るようになっていた。


「ティア、おはよう」とルディアが言った。


 ティアが翅をわずかに動かした。


(回復してきてる。精霊力収集式から離れて五日、少しずつ光が戻ってきた。まだ飛べへんけど、意識はしっかりしてる。精霊力炉が止まれば、もっと早く回復するはずや)


 ミトがルディアの手のひらに乗った。そのまますたすたと腕を登り、肩に陣取った。


「今日も肩が定位置か」


 ミトが鼻先をルディアの頬に押しつけた。


「あー、もう、かわいい」


(ミト、ルディアに懐きすぎてる。いや懐いてもらえてる方が助かるんやけど。この子が動き回ると隠すのが大変やから)


 桐子は朝食の準備をしながら——正確には、朝食を食べるふりの準備をしながら——今日のスケジュールを頭の中で整理した。


(午前中に授業が三コマ。昼食後に学長室でタリス先生・フィン先生と合同で作戦を確認する。夕方にソルから情報部門との連絡の結果を聞く。夜に——)


「キリア、ミトがあなたのこと呼んでるよ」


 振り向くと、ミトがルディアの肩からこちらを見ていた。目が合うと、小さな声で鳴いた。


(呼んでる。この子、確実に私を認識してる。ヴェルドラの孫として育てば、そのうち立派なドラゴンになるやろな。こんな状況に置かれたのに、ちゃんと回復してきてる。たくましい)


 桐子はミトの目の高さにかがんだ。


「今日も元気そうやな」とドラゴン語で言った。


(また「やな」が出た。ドラゴン語の関西弁イントネーション、もう諦めた。私の言語野がそうなってるんやからしゃあない)


 ミトが鳴いた。


(うるさい、という意味か腹が減った、という意味かどちらかやと思う。でもドラゴンは食事がいらへんから腹は減らへんはずやな。ということはうるさいか、それとも別の何かか。幼体の感情表現の語彙はまだ少ないから判断が難しい)


(……今この状況で幼体の感情表現を研究者として分析してる私は、どうかしてると思う。でも気になるんやからしゃあない)




 午前の授業は、平常通りだった。


 魔法理論基礎で、タリス先生は変わらず淡々と教えた。先生の顔に昨夜の話は出ていない。ただ、一度だけ桐子と目が合った時、先生は小さく頷いた。


(それだけで十分や。先生も動いてる。私も動く)


 精霊力制御実技の時間に、アイラ先生が一対一の実技確認をした。


 桐子の番が来た。


「キリア、精霊力を手のひらに集めてみて」


 集めた。青白い光が灯った。


 アイラ先生がそれを見て、少し眉を寄せた。


「最近、色が濃くなってない? 最初の頃より」


「そうですか」


(濃くなってる。ドラゴンの精霊力の色が、人化の精度が落ちるにつれて滲み出してきてる。アイラ先生、察してきてる)


「気になる。疲れてない? 精霊力の制御に無理が出てると、顕現する色が変わることがある」


「気をつけます」


 アイラ先生がもう一度桐子の手のひらを見た。何か言いかけて、やめた。


(言いかけてやめた。先生も気づいてる。でも今は突っ込んでこないでいてくれてる。ありがたい)


 授業が終わった後、ルディアが「アイラ先生も気づき始めてるんじゃない?」と囁いた。


「そうかもしれません」


「気づいてる人、増えてきたね。学長、タリス先生、フィン先生、ルディア、もしかしたらアイラ先生も」


「ソルも」と桐子は付け加えた。


「ソルは最初から気づいてたと思う」とルディアが言った。「あの人、察しが良すぎる」


「そうですね」


(皇子やからな、とは言えへん。でもルディアも薄々わかってるかもしれへん。この子の観察眼を考えると)


「いや、そこは「皇子だから」って続くとこだと思うんだけど、キリアは絶対それ言わないよね」


(やっぱりわかってたやないか)


「言いません」


「真面目か」


(真面目やなくて、うっかり変身しないために感情の起伏を管理してるだけや。しかしそれは言えへん)




 昼食後、学長室に向かった。


 タリス先生、フィン先生、学長、そして桐子の四人が揃った。


 学長が口を開いた。


「昨夜、帝国の中央に繋ぎを取った」


「どこにですか」と桐子は聞いた。


「第一皇子殿下の、側近だ。以前から個人的な繋がりがある」


(第一皇子の側近。ソルの兄上の側近。つまりガリンたちと同じ勢力に、学長も繋がってたということか。いや、違う方向から同じ場所に繋がった、ということかもしれへん)


(この網の目の複雑さ、研究者として整理したい。でも今は聞くことに集中する)


「反応は?」とタリス先生が聞いた。


「——すでに動いていた」と学長は言った。「こちらの情報が、むしろ彼らの調査の補完になったようだ。精霊力炉の実物の情報と、北部国境との接続の証拠は、持っていなかったらしい」


(ガリンたちが昨夜地下を確認しに来た理由がわかった。証拠を持ってへんかったから、自分たちで確認しようとしてた。でも二重錠が解けへんかった。だから私たちの動きが気になってた)


「では」


「証拠を、今日中に整理して送ってほしいと言われた。ルディアのスケッチ、ソルの錠解析記録、キリアの観察記録——全部だ」


「できます」と桐子は言った。「夕方までに」


「それと」と学長が続けた。「精霊力炉の稼働を、止める必要がある」


 部屋が静かになった。


(当然の結論や。でも「止める」ことがどれだけ大変かは、あの装置を見た私には一番よくわかる)


「いつですか」とフィン先生が聞いた。


「早いほど良い。炉の稼働が続く限り、学校の精霊力環境は悪化し続ける」


(私の人化の消耗も、ミトとティアの回復も、全部精霊力環境に依存してる。早いほどいい、それは本当にそうや)


「そして——私が側近から聞いた話では、出力が限界に近づいている可能性がある」


「タイミングはいつですか」と桐子は言った。


「三日後の夜、帝国の調査部隊がこの学校に入る。その際に、炉の停止と地下施設の封鎖を行う」


 三日後。


(ヴェルドラのタイムリミットまで、残り六日のうち三日が過ぎれば——残り三日。ギリギリやけど、間に合う)


「ただし問題がある」とタリス先生が言った。


「何ですか」


「調査部隊が来るまでに、地下の管理者側も動く可能性がある。炉の状態を確認するための定期訪問が、三日以内に来るはずだ。その際に、中の個体がいなくなっていることに気づかれれば——」


「警戒される」


「最悪の場合、炉を移送しようとするかもしれない。それだけの装置だ、解体して運べる設計になっているかもしれない」


(そうなったら全部終わりや。証拠ごと消される)


「管理者の訪問パターンは、把握できますか」


「これまでの観測では、三日から五日に一度の頻度だった」とタリス先生が言った。「最後の訪問から今日で四日が経つ」


「つまり、今夜か明日に来る可能性が高い」


「そうなる」


 学長が言った。


「管理者が来た場合、どうする?」


 全員が桐子を見た。


(なんで私が見られてるんやろ、と一瞬思ったけど——この四人の中で、地下の構造を一番把握してるのは私や。そして地下での経験も。なるほど、そういうことか)


「管理者が来た時に、炉の動作に異常を起こせれば——点検のために時間がかかって、訪問頻度が上がる前に調査部隊の到着を待てます」


「異常を起こすとは?」とタリス先生が聞いた。


「炉の術式の一部を、ごく微細に乱す。壊すのではなく、出力が不安定になる程度に。管理者が調整に手間取るように」


「それができるのか?」と学長が言った。


「やってみなければわかりませんが——感覚的には、できると思います」


「感覚的に、というのは根拠として弱くないか」


「今の状況で根拠の確実な手段はあまりないので」


(これは本音や。完璧な計画なんて存在せえへん。やれることをやるだけや)


 タリス先生が小さく笑った。珍しいことだった。


(先生が笑った。珍しい。でも嬉しい。……人化、大丈夫か? 「静かな温かさ」の範囲内やな。セーフ)


「——わかった」と学長が言った。「今夜、様子を見てほしい。管理者が来た場合は、キリアの判断に任せる」


「一つだけ」と桐子は言った。


「なんだ」


「タリス先生に、今夜のバックアップをお願いしたい。精霊力感知系統の管理を、先生に担当してもらえれば——私が動いている間の安全確保ができます」


「昨日と同じ役割か」と先生は言った。


「はい」


「——わかった」


 フィン先生が言った。


「わしはミトとティアを、安全な場所に移す手配を今日中にする。校外に信頼できる知人がいる。自然の精霊力が豊かな場所だ」


「お願いします」と桐子は言った。


「ただ」と先生が続けた。「ミトは——少し、難しいかもしれん」


「なぜですか」


「今朝、先生の部屋を訪ねたらミトを連れてきたじゃろう? あの子、キリアに懐きすぎておって、離れたがらないんだよ」


「……それは」


「キリアが一緒でないと、移動を嫌がる可能性がある。ドラゴンの幼体は一度懐いた相手への依存が強い。本能的なもので、無理に引き離すと精霊力が不安定になる」


(ミトよ……。気持ちはわかるけど、今はそれが困る。でも幼体の精霊力が不安定になる方がもっと困る)


「校外に出る機会を、作ります」


「それはいつ?」


「三日後の夜、調査部隊が来る時——それが、最も自然なタイミングだと思います」


(三日後に全部動く。それしかない)




 証拠の整理には二時間かかった。


 ルディアのスケッチ三枚。ソルの錠解析記録。桐子の観察メモ。タリス先生の十五年分の記録の概要。


ルディアの父からの手紙の内容の要約。


(これだけの証拠を、三週間で集めた。我ながらよくやったと思う。いや、私一人やない。ソルとルディアとタリス先生とフィン先生がいたからや)


 全部を一束にまとめて、学長に渡した。


 夕方にソルと短く話した。


「学長が第一皇子殿下の側近に連絡を取ったそうです」


「——知っている」とソルは言った。「今朝、ガリンから報告が来た」


(学長の動きも、ガリンたちは把握してた。さすが情報部門や)


「三日後に調査部隊が来ます」


「それも聞いた」とソルは言った。少し間を置いた。「キリア、一つ伝えておくべきことがある」


「なんですか」


「調査部隊が来た後——この件が帝国内部の問題として正式に動き出せば、俺はおそらく学校を離れることになる。皇子として、別の形で動く必要が出てくる」


(わかってた。こうなると思ってた)


「わかっています」


「お前はどうする?」


 桐子は少し考えた。


「私には、まだやることがあります」


「ここで?」


「ここではなくなるかもしれません。でも——続きがあります」


(精霊力炉を止めても、首謀者がまだわからへん。帝国の貴族が絡んでる。その先がある)


 ソルが桐子を見た。


「帝国の貴族が関与しているという話は、お前の耳にも入っているか?」


「学長から少し」


「精霊力炉を動かしている派閥の中に、帝国貴族が複数いる。帝国魔法管理局のトップだけが動かせる規模ではない。貴族の資金と人脈が裏にある」


「その貴族の特定が、次の課題ですね」


「俺も同じことを考えている」とソルは言った。「——貴族の子弟が集まる場所に、情報が集まる」


(貴族の子弟が集まる場所。ハルヴェス学院のことやな。ソル、同じ結論に至ってたんや)


「ソル」と桐子は言った。


「なんだ」


「あなたが皇子だということを、私はまだ「知らない」ことになっています」


 ソルが少し目を細めた。


「そうだな」


「でも一つだけ聞いていいですか」


「聞け」


「魔法学校に入学して——後悔しましたか」


(この質問、唐突やと思う。でも聞きたかった。この人がこの三ヶ月をどう思ってるか)


 予想外の質問だったのか、ソルがしばらく黙った。


「なぜそれを聞く」


「危険な目に遭わせました。あなたは調査のために来ていたのに、私たちと一緒に動くことで余計なリスクを負いました」


「後悔していない」とソルは即座に言った。「一人で動いていたら、精霊力炉の全貌には辿り着けなかった。ルディアの情報も、タリス先生との繋がりも、なかった」


「それは」


「それだけじゃない」とソルは続けた。「——面白かった。久しぶりに、本当に面白かった」


(面白かった、か。この人の口から「面白かった」という言葉が出るとは思わんかった。でも——嬉しい。本当に嬉しい)


(人化が揺らぎそうになった。抑えろ。これは「大きな喜び」に分類される可能性がある。落ち着け、落ち着け)


「皇子というのは」とソルは少し遠くを見るような目で言った。「思ったより、自由がない。決められた場所で、決められた役割を果たすことが多い。今回みたいに——目的は任務だったとしても、仲間と一緒に考えて動くのは」


 言葉が途切れた。


「——悪くなかった」と最後に言った。


(悪くなかった。ソルの言葉の重さで言えば、これはかなり強い肯定や。この人がこういうことを言う時、本当にそう思ってる時やということが、三ヶ月でわかってきた)


(感情が来てる。嬉しい。でも——人化が!)


(落ち着け落ち着け。「静かな温かさ」に分類する。「大きな喜び」やない。大丈夫、まだ大丈夫)


「何も言わなくていいか?」とソルが桐子を見た。


「……少し待ってください」


「?」


「感情の整理をしています」


「……そうか」


(この答えで納得してくれるソル、さすがや。詮索せえへん)


 しばらくして、落ち着いた。


「悪くなかったです。私も」と桐子は言った。


「そうか」とソルは短く言った。


(この二人のやり取り、傍から見たら意味がわからんやろな。でも私たちにはわかる。それでいい)




 夜、管理者が来た。


 桐子は感知で察知した。深夜の一鐘過ぎ、地下への扉に精霊力の気配が近づいてきた。


 一人。


 先日と同じ気配——帝国上級術師のローブを纏った、あの人物だ。


 桐子はタリス先生に合図を送った。


(先生、感知系統の管理を始めてくれてる。背中が守られてる感じがする)


 桐子は地下への入り口の手前の暗がりに身を潜めた。


 管理者が地下に降りた。


 桐子はゆっくりと後を追った。


 足音を完全に消して、精霊力の痕跡も最小にして、管理者の後ろ五メートルを維持しながら降りた。


(精霊力の痕跡を残さない技術、ガレアスに教わってよかった。最初はできへんかったけど、今は自然にできる)


 管理者は分岐を折れて、精霊力炉の部屋に向かった。


 桐子は分岐の入り口で止まった。


 扉が開く音。管理者が部屋に入った。


 桐子は精霊力炉の部屋の扉の前に立った。扉は開いたままだ。


(今だ)


 部屋に入った。


 精霊力炉が青白く脈動している。


(術式紋様の接合部。後付けの部分との境界。ここに少し、逆向きに精霊力を流す)


 静かに、手を当てた。


 精霊力を、ごく細く、逆向きに。


 炉の脈動が、一度だけ乱れた。


 リズムが、わずかにずれた。


(よし。これだけでいい。壊しすぎても、直されてしまう。「なんか調子が悪い」くらいの乱れが一番効く)


 桐子は手を離した。部屋を出た。分岐通路を戻り、倉庫廊下を進み、階段を上った。


 地上に出た。


(廊下を歩きながら感知を続けた。二分後、地下から管理者が上がってくる気配がした。足が、速い)


(予想通りや。二重錠の部屋に入って、中の個体がいなくなってることに気づいた上に、炉の脈動が乱れてることに気づいた。管理者は今、慌ててる)


 桐子は部屋に戻った。


 ルディアが起きていた。


「来た?」


「来て、帰りました」


「炉は?」


「乱しました。うまくいったと思います」


「管理者が焦って調整に入れば、三日間は動きが取れない?」


「そうなることを期待します」


 ルディアが少し息を吐いた。


「キリア、今夜はちゃんと寝てね」


「寝ます」


「本当に?」


「……できる限り」


「その「できる限り」が一番信用できない」


(ルディアの桐子観察精度、もう私の自己申告より正確かもしれへん。研究者として、被観察者が観察者より精度が低いのは敗北感がある)




 翌日、翌々日と、大きな動きはなかった。


 表向きは、普通の学校生活が続いていた。


(でも全員の意識は、三日目の夜に向いてる。授業中も、食事中も、常に頭のどこかで三日後のことを考えてる)


 二日目の夕方、フィン先生からミトとティアと他の妖精二体の移送準備が整ったと連絡が来た。校外の知人への移送は、三日目の夜に桐子が同行する形になった。


「先生の知人というのは、信頼できる方ですか」と桐子は確認した。


「妖精族の研究を長年一緒にしてきた友人でな。今は帝都の外れで隠居しとる。彼なら適切に世話できる」


「ミトも、一緒に行けますか」


「それを言いたかったんだがな」と先生は言った。「実は今朝、ミトがキリアのいない隙に窓から脱走を試みた」


「脱走?」


「試みた、というのが重要でな。窓の鍵を開けようとして、格闘していた。五分ほどかかっとったが、あと少しで開いていたと思う」


(……ミト、五分かけて窓の鍵を開けようとしてた。幼体の知能として、それはかなりすごい。研究者として素直に感心する。でも状況として、全然喜べへん)


「……脱走の動機は何ですか」


「おそらく、キリアを探しに行こうとした。授業中だったからな。幼竜は危機を感じると近くにいたい相手を探す。本能だ」


(ミトにとって、私が「近くにいたい相手」になってる。それは嬉しいけど、今は困る。複雑な気持ちや)


「ミトは——私が連れて行きます。三日目の夜に同行させて、先生の知人に会わせて、それから一緒に移送します。その方が本人も落ち着くと思います」


「キリアが離れる時に、大丈夫か?」


(……その時はその時に考える。今から考えても答えが出えへん問いや)


「——その時は、その時に考えます」




 三日目の夜が来た。


 日が暮れてから、学校の空気がじわじわと変わっていくのを桐子は感じていた。


(普通の夜に見える。消灯の鐘が鳴り、学生たちが眠りについた。でも全員の意識が、夜の二鐘に向いてる。タリス先生の研究室にも、学長室にも、明かりがついてた)


 一鐘が鳴った。


 桐子、ルディア、ソルの三人が中庭に集合した。


 フィン先生が来た。外套を着て、杖を持っている。


「準備はいいか?」と先生が言った。


「はい」


 ミトは桐子の肩の上にいた。


 ティアと他の妖精二体は、先生が持ってきた小さな籠の中にいる。


「外に出たら、まずミトが騒ぐかもしれん」と先生が言った。「久しぶりの外気で興奮する可能性がある」


「抑えます」


「言葉で?」


「言葉で」


「……ドラゴン語で、ということか」


「そうです」


(先生、もうそこには驚かへんようになってきた。この三週間で、みんなの「キリアへの驚き閾値」が上がってる気がする)


 学校の裏門から外に出た。


 帝都の夜風が吹いた。


 ミトが——案の定、ぶわっと動いた。肩の上で翅を広げようとして、まだ翅が使えないことを忘れているのか、バランスを崩して桐子の頭に落ちてきた。


(あ、落ちてきた。頭の上にドラゴンの幼体がいる状態になった。これは想定外やった)


「——落ち着け」とドラゴン語で言った。


 ミトが桐子の頭の上でもごもごした。


「外や。少し我慢しろ」


 もごもご。


「帰ってくる。行くんやない、送っていくんや」


(「送っていくんや」という言い方が正確かどうかは微妙やけど、伝わればいい)


 ミトがしばらく動かなかった。それから、静かになった。


(伝わった。ちゃんと理解してる。この子の理解力、幼体として相当高いと思う。ヴェルドラの孫やから、それなりの素質があるんやろな)


「……何を言ったんだ?」とソルが言った。


「帰ってくると言いました」


「幼竜に」


「通じていると思います」


 ルディアが「通じてそうだった、確かに」とフォローした。


(ルディア、ありがとう。助かった)


 フィン先生の知人の家は、帝都の北門を出てから歩いて二十分ほどの場所にあった。小さな家で、周囲に木々が多い。精霊力が、学校より濃かった。


(濃い。ここの精霊力、学校より全然豊かや。ティアもミトも、ここにいれば回復が早くなるはずや)


 扉を開けて出てきた老人が、フィン先生を見て「遅かったな」と言った。


「色々あってな。ゾールド、頼めるか」


「任せろ」と老人——ゾールドが言った。桐子たちを見て、「若い人たちが動かしたのか」と聞いた。


「そうだ」


「大したものだな」


(大したもの、か。嬉しい。でも人化が——「静かな温かさ」の範囲内や。セーフ)


 ゾールドがティアを籠から受け取った。ティアが老人の手のひらに乗って、老人の精霊力を感知するように少し動いた。それから、落ち着いた。


「妖精の扱いを知っているな、この人」とフィン先生が言った。「安心して任せなさい」


 問題はミトだった。


 ミトは桐子の頭の上から動かなかった。


(頭の上から動かへん。この子、本当に私から離れたくないんや。わかる。わかるけど——)


 ゾールドが手を差し出した。


 ミトが睨んだ。


(睨んでる。幼竜が老人を睨んでる。フィン先生の禿頭はつんつんしたのに、ゾールドには警戒してる。基準がよくわからへん)


「ことさら怖くはないんだが、どうも人見知りが激しいな」とゾールドが言った。


「ドラゴンの幼体は懐いた相手以外には警戒する」とフィン先生が言った。


「キリア、試してくれるか」と先生が桐子に言った。


 桐子はミトに、ゾールドの手のひらの上に乗るよう促した。ドラゴン語で。


 ミトが嫌そうな声を出した。


(嫌か。そうか。でも——)


「嫌ならいい」とゾールドが言った。「この子が慣れるまで待てる。急かすことはしない」


(その声のトーンが伝わったのか、ミトがゾールドを少し見直したような顔をした)


(ゾールドさん、わかってる。焦らせへんことの大事さを知ってる。フィン先生が信頼する研究者仲間というだけのことはある)


 ミトが——おそるおそる、桐子の頭の上からゾールドの手のひらに移った。


 ゾールドが静かに笑った。


「来てくれたな」


 ミトが、ゾールドの手のひらの上で小さく鳴いた。


(……来た。ちゃんと行った。よかった。よかったけど——)


(喉の奥が詰まるような感覚がある。これは「大きな喜び」か「静かな悲しさ」か、どっちや。分類が難しい。でも人化が——)


(大丈夫。抑えろ。まだやることがある)


「——ゾールドさん、よろしくお願いします」


「任せなさい」とゾールドは言った。ミトを見ながら。「この子はここで、ゆっくり回復する。お前たちも、やることをやってきなさい」




 学校に戻ると、二鐘が近かった。


 正門の方向に、馬車の音が聞こえた。


 帝国の調査部隊が来ていた。


 ソルが「俺は正門に向かう」と言った。


(ソルの本来の役割が、ここで動き出す)


 桐子は頷いた。


 ソルが少し歩いてから、立ち止まった。振り返った。


「キリア」


「はい」


「今回の件が片付いた後——お前は次、どこへ行く?」


 桐子は少し考えた。


「まだわかりません。でも、続きがあります」


「貴族が絡んでいるという話か」


「そうなります」


「——もしお前が貴族の社会に潜り込むことになるなら」とソルは言った。「俺も同じ場所にいるかもしれない」


「そうですか」


「皇子が貴族学院に顔を出すのは珍しいことでもない。別の名前で入るがな」


「また偽名ですか」


「仕方ない。素顔で歩けるような身分ではないので」


(皇子として生きるということは、こういうことか。いつも別の名前で、別の役割で。ソルが「面白かった」と言った理由の一つが、わかった気がする)


 桐子は少し思った。


「貴族の礼儀作法は、難しいですか」


「なぜそれを聞く」


「——私は、あまり得意ではないと思うので」


(あまり、どころか全くやけど。前の世界でも礼儀作法は苦手やったし、この世界の貴族文化は全然わからへん)


「お前が礼儀作法を?」とソルが言った。微妙に信じていない顔だった。


(信じてへんのか。正解やけど)


「練習します」


「そうしろ」


(「頑張れ」でも「大丈夫だ」でもなく「そうしろ」。ソルらしい言い方や。でも、信じてもらえてる感じがする)


 ソルが向き直って、歩いていった。


 ルディアが桐子の隣に来た。


「なんか、貴族の話してた?」


「少し」


「貴族学院ってどこのこと? ハルヴェス?」


「……知ってるんですか」


「帝国貴族の子弟が通う名門校でしょ。うちの家系は庶民寄りだから縁はないと思ってたけど——もしかして、次そっちに行くの?」


「可能性があります」


「じゃあ私も行く」とルディアはあっさり言った。


「え?」


「だって、キリア一人で貴族社会に放り込まれたら、絶対ひどいことになるでしょ」


(否定できへん。否定できへんのが一番辛い)


「私、礼儀作法は一応習ってるよ。お父さんが宮廷勤めだから、貴族とのつきあい方も少しは知ってる」


「……心強いです」


(心強い、を超えて、命綱や。でも素直に言えへんのが私の悪い癖や)


「でしょ?」とルディアが言った。「というか、一人で行かせる気がそもそもないから」


 帝都の夜空に、星が出ていた。


 学校の正門の方向が、少し明るくなっている。調査部隊が動き始めているのだろう。


 桐子はしばらく空を見上げた。


(星が見える)


(ここから見える空は、森の上で見た空より狭い。建物に囲まれた、四角く切り取られた空や。でも星は同じや。あの森で初めて飛んだ夜に見た星と、同じ星が輝いてる)


(もう少しや)


 地下で最初に感じた「濁り」が、この学校に来てからずっと、薄いノイズのように続いていた。


(それが今夜、止まる)




 調査部隊の地下への入室は、桐子が立ち会わなかった。


 タリス先生と学長が対応した。桐子たちは校舎の中庭で待機した。


 一時間ほどして、タリス先生が戻ってきた。


「精霊力炉の停止が完了した」と先生は言った。


 桐子は感知した。


 地下から上がってきていた「濁り」が——消えていた。


 完全に、消えていた。


(消えた。あの「腐ったエネルギー」みたいな感覚が、きれいさっぱり消えた)


 代わりに、何かが戻ってくる感覚があった。


 精霊力の流れが、少しずつ、正常な方向に動き始めていた。


 大気の精霊力が、ほんのわずかだが、濃くなり始めた気がした。


(戻ってくる。精霊力が戻ってくる。三年間薄くなり続けてた流れが、少しずつ正常に向かってる)


(これが……精霊力でエネルギーを補う生き物として、体全体で感じる「正常に戻る感覚」か。こんなに気持ちいいとは思わんかった)


「——止まったんだ」とルディアが言った。隣に来ていた。「わかる。なんか、空気が変わった気がする」


「精霊力が戻り始めています」と桐子は言った。


「本当に? 感じられるの?」


「はい」


「どんな感じ?」


 桐子は少し考えた。


「——川が、もとの流れに戻っていくみたいな感じです」


(これが正確な表現かどうかはわからへん。でも今の私には、これが一番近い言葉や)


 ルディアが中庭を見渡した。


「中庭の花壇、咲くかな。あの薄紫の」


「咲くと思います」


「入学式の頃に見た花、きれいだったんだよね。また見たい」


(咲くよ、きっと。この流れが続けば、花壇の花はまた咲く。フィン先生も喜ぶやろな)


 タリス先生が続けて言った。


「管理者については——調査部隊が身元を確認した。帝国魔法管理局の所属で、局長の直轄だったことが確認された」


「ドーゲル・ハインの直轄ですね」


「そうだ。彼の身柄は確保された。ただ——」先生が少し声を落とした。「局長自身については、今夜の時点では動けていない。帝国の正式な手続きが必要で、それには数日かかる」


「証拠は十分ありますか」


「あちらに送った証拠と、今夜確保した資料で、十分なはずだとのことだ」


「局長の背後にいる者の特定は?」


「——それは、これからの話だ」


(全部が、今夜で終わるわけやない。局長の背後に、貴族が絡んでいる可能性がある。そしてその貴族を特定するために、次のステージが必要や)


(でも今夜は——今夜だけは)


 精霊力炉が止まった。


 地下の個体たちは安全な場所にいる。


 ミトはゾールドのところで眠っているはずだ。


(それで、今夜は十分や)




 夜明け前、桐子は一人で屋上に出た。


 学校の屋上は、学生が勝手に出ることは禁止されていた。


(寮則を全部暗記した私として、これが違反であることは当然知ってる。でも今夜だけは許してほしい)


 屋上の端に立って、空を見上げた。


 東の空が、ほんのわずかに白み始めていた。


 帝都の夜景が広がっている。魔法灯の光がきらめいて、建物の輪郭が闇の中に浮かぶ。


 風が吹いた。


 精霊力が、その風の中に感じられた。


(炉が止まって、流れが戻り始めてる。まだ薄い。でも確かに、精霊力が動いてる。この感覚、入学した日の「学校の精霊力は濃い」と思った時の感覚に、少し近づいてきた)


 桐子は深呼吸をした。


 大気の精霊力を、体の中に取り込んだ。ドラゴンの本能に従って、ただ呼吸するように。


 人化の術式が、少しだけ楽になった気がした。


(補充されていく。削られ続けていたものが、少しずつ戻ってくる)


(ここまで来た)


 事故に巻き込まれて、目が覚めたらドラゴンで、三ヶ月飛び回って怪我をして、ガレアスに拾われて、精霊力の仕組みを教わって、人化を習って、魔法学校に入学して。


 地下の謎を追いかけて、仲間ができて、証拠を集めて、精霊力炉を止めた。


(全部が繋がってる)


(前の世界で、岸本桐子は助手やった。研究室の端っこで、小さく、目立たず、なめられて、でも知りたいという気持ちだけは誰にも負けないと思ってた)


(今も、その気持ちは変わらへん)


(ただ、体が変わった。翼がある。鱗がある。炎がある。そして——仲間ができた)


 風が強くなった。


 桐子は屋上の縁に手をかけた。


 帝都の向こうに、まだ暗い地平線が広がっている。その先に、北部国境がある。敵国がある。精霊力炉の精霊力を受け取っていたかもしれない者たちが、いる。


(まだ終わらへん。でも今夜、一つが終わった)


(ガレアスに報告しなければ)


(ヴェルドラに、孫が見つかったと伝えなければ)


(それから——次の場所へ行く準備をしなければ。礼儀作法の練習も。ドレスの着方も。貴族の派閥事情の勉強も)


(やることが多い。でも——)


 空が、広い。


 建物に囲まれた帝都の空は、森の上で見た空より狭い。それでも、空は空だ。


 風が翼を欲しがっていた。


(この欲望、今日だけは我慢せずに——ほんの少しだけ、感じていることにした)


(また飛べる日が来る。全部片付いたら、絶対に飛ぶ。ルディアに「ちょっとごめんな」って言いながら、この帝都の上空を思い切り飛んでみたい)


 どこかで、朝の鳥が鳴いた。


 帝都の夜が、終わっていく。




十一 エピローグ


 一週間後。


 ハルティア魔法学校の中庭に、薄紫の花が戻ってきた。


 フィン先生が一番に気づいて、授業中に「咲いた!」と言い、そこから脱線して花の精霊力への影響について十五分語り、タリス先生に廊下で「フィン、授業に戻れ」と言われていた。


(この二人のやり取り、これからも続くんやろな。なんか、いい光景やな)


(……人化が揺らぐほどやない。「静かな温かさ」の範囲内や。大丈夫)


 精霊力の濃度は、まだ完全には回復していない。しかし、確実に戻ってきていた。


 帝国魔法管理局のドーゲル・ハインは、正式に職務停止となった。詳細は公表されていないが、学校内ではそれとなく伝わっていた。


 ガリンはある日突然、転校届を出して学校を去った。


(第一皇子情報部門の仕事が次のステージに移ったんやろな。お疲れさん。でも地下の倉庫を探りに来た時の「何も見つかりませんでした顔」は、ちょっと面白かった)


 ソルは変わらず授業を受けていた。ただ、以前より少し——どこか遠くを見るような目をする回数が増えたと、桐子は思っていた。


(皇子として、次のことを考えてる。当然やな。この問題、まだ続きがある)


 ルディアのお父さんから手紙が来た。「よくやった、誇りに思う」と書いてあった。ルディアはその手紙を大事に手帳に挟んで、桐子には「なんでもない、いつもの手紙」と言ったが、目が赤かった。


(ルディア、嘘が下手や。でもそれがこの子のいいところやな。裏表がない)


 ミトはゾールドのところで順調に回復していた。フィン先生が週に一度様子を見に行く約束をした。ゾールドによれば「窓から外を眺めることが増えた。でも逃げようとはしていない」とのことだった。


(成長してる。ちゃんと成長してる。よかった)


 桐子が休日に会いに行くと、ミトは桐子の肩に飛び乗ってそのまま離れなかった。ゾールドが「ここでも慣れてきているが、やはりキリアが好きなようだ」と苦笑した。


(好き、という感情がミトにあるかどうかは研究者として断言できへんけど——まあ、そういうことにしておく。それでいい)


 ティアは、精霊媒体としての精霊力が急速に回復していた。


 フィン先生が学術論文にまとめたいと言ったが、「まだ公表できる状況ではない」とタリス先生に止められていた。


「なぜだ! 百年に一人の精霊媒体だぞ!」


「セキュリティの問題がある」


「論文を書くことのどこにセキュリティの問題が!」


「あらゆるところにある」


(この二人、本当にずっとこんな感じや。でも嫌いじゃない。むしろ好きや。このやり取り、ずっと続いてほしい)


(……「静かな温かさ」の範囲内やな。セーフ)



 二週間後。


 桐子はガレアスと久しぶりに会った。


 礼拝堂の奥の長椅子に、ガレアスが座っていた。


「遅い」と言われた。


「来るまでが大変だったので」


「ヴェルドラには報告した。孫の件も」


「どういう反応でしたか」


「——まあ、予想通りの反応だ」


(予想通りの反応、か。老竜の「予想通りの反応」がどんなもんか、考えたくない。でも聞かなあかん)

「暴れましたか」


「三日間、山を七つほど崩した」


(七つ!!)


(七つ崩すって、もう山の数え方の話やない。地形が変わるやつや。ヴェルドラ、怒りの規模が人間の概念を超えてる)


「今は落ち着いている。孫の無事が確認できたからだ。後で会いに行くと言っていた。ゾールドには伝えてある」


「ミトが怖がらないといいですが」


「幼竜が祖父を怖がる、というのも妙な話だが——まあ、大丈夫だろう。あの老竜は、孫に甘いから」とガレアスは言った。「七つ山を崩した割には」


(七つ山崩しておいて孫には甘い。そのギャップが怖すぎる。でも、なんか……微笑ましいな。老竜の孫バカ、か)


(笑えてきた。笑ったら人化が——いや大丈夫。「静かな温かさ」というより「純粋にちょっと面白い」やな。この感情は管理できる。多分)


「次の話をしよう」とガレアスが言った。


「はい」


「帝国の貴族が関与している。その確認のために、次の場所に潜り込む必要がある」


「ハルヴェス学院ですね」


「そうだ。帝国貴族の子弟が多く通う名門校だ。ただし——」


「ただし?」


「今度の身分は、貴族令嬢だ」


 沈黙が落ちた。


「……令嬢」


「そうだ」


(令嬢。私が。辺境とはいえ貴族の。令嬢)


「私が」


「そうだ」


(聞き返してしまった。でも確認せずにはいられへん)


「……礼儀作法とか」


「必要だ」


「ドレスとか」


「必須だ」


「舞踏会とか」


「たぶんある」


(たぶんある、って。「たぶん」という不確かさが余計怖い。確実にある方がまだ心構えができる。「たぶん」は覚悟が定まらへん)


 桐子はしばらく天井を見上げた。


 礼拝堂の高い天井に、古い魔法灯が揺れていた。


(……やるか)


(いや、やるしかない。「やる」って言ったんやから。毎回そうやけど、「やる」って言ったんやからやるんや)


(三度の飯より研究の私が、社交界に潜り込む。無謀にも程がある。でもやるしかない)


「——わかりました」と最後に言った。「やります」


「お前は毎回それを言う」


「毎回やると決めているので」


(これは本当のことや。やると決めたら、やる。それが岸本桐子という人間の根っこにあるもので、ドラゴンになっても変わらへん)


 ガレアスが少し間を置いた。


「苦手なことはあるか」


「礼儀作法全般、貴族の会話の作法、ドレスの着こなし、扇の使い方、舞踏会でのダンス、貴族の派閥事情、あと高いヒールで歩くこと」


「全部苦手じゃないか」


(全部苦手です。でも苦手なことと、できないことは違います。やれます。やるんです)


「苦手なことと、できないことは違います」


「……まあ、そうだな」とガレアスは言った。珍しく、少し口の端が上がった気がした。


(ガレアスが笑いかけた。珍しい。この人がこういう顔をするの、見たことほとんどない。「静かな温かさ」の——)


(人化が揺らぎそうになった。抑えろ。こんなところで変身したら全部台無しや)


「準備期間は三ヶ月ある。そこでルディアと呼んでいた人間に礼儀作法を習え」


「すでにそうしようと思っていました」


「ソルがあの学院に入ることになった。今度は別の名前だ。ただ、向こうでも協力できる」


「知っていました」


「——知っていた?」


「本人が言っていました。「そっちに行くかもしれない」と」


 ガレアスが少し目を細めた。


「あの皇子と、随分打ち解けたようだな」


「仲間だったので」


「皇子と仲間になるというのは、普通の話ではない」


「私が普通かどうかも、だいぶ微妙な話ですが」


(ドラゴンが人間に化けて魔法学校に通って、皇子と組んで帝国の陰謀を追いかけた。どこをどう見ても普通やない。でも——楽しかった。研究者として、これほど充実した三ヶ月はなかったかもしれへん)


 ガレアスが、珍しく、はっきりと笑った。


 礼拝堂に、その笑い声が少し反響した。


(ガレアスが笑った。本当に笑った。三ヶ月一緒にいて、初めてちゃんと笑った。人化がヤバい。超ヤバい。笑いたい。感動した。でも変身したら全部終わる)


(落ち着け。落ち着け落ち着け落ち着け——)


「——そうだな」と言った。「では準備を始めろ、令嬢」


「令嬢というのは、慣れるまで時間がかかりそうです」


(令嬢。私が。ドラゴンが令嬢を演じる。前の世界の私に見せたい。絶対信じへんやろな)


「時間はある。使え」


 桐子は立ち上がった。


 礼拝堂の扉を開けると、外は昼の光が広がっていた。


 帝都の通りが、賑やかに動いている。


(次の場所がある。次の謎がある。次の仲間がいる)


(岸本桐子は——キリアとして、そしてどこかでまだドラゴンとして——歩き始めた)


(ハイヒールは、まだ練習中や。でも——)


(やると決めたら、やる)


(それだけや)

次編予告 貴族令嬢編


鱗と魔法と、ドレスの着方もわからない件


~転生ドラゴン、貴族社会に潜入します~



 礼儀作法の習得に一ヶ月。ドレスで転ぶこと十七回。扇の使い方は「攻撃に使えそう」という感想しか出なかった。


(扇で攻撃はできへん。頭ではわかってる。でも見るたびにそう思ってしまう。これは治るんか)


 しかしハルヴェス学院への入学試験は突破した。理由は、試験官が問題の解答欄に書ききれないほど詳細な分析を書き込まれて、「この子は只者ではない」と判断したからだった。礼儀作法は「追い追い」という判定だった。


(「追い追い」って言葉、「今はできてへん」という意味やんな。わかってる。わかってるけど、入学できたからよかった)


 貴族令嬢・キリア・エルヴァとして、桐子は名門学院の門をくぐる。


 同じ日に入学してきた転入生の中に——見覚えのある短い暗褐色の髪の人物がいた。


「——また会ったな」とその人物が、低い声で言った。


「また会いましたね」と桐子は言った。「今度は、何という名前ですか」


「レインだ」


「わかりました、レイン」


(レイン。また偽名か。この人、偽名コレクターになってるな。でも顔がいつものソルの顔やから、名前が何であっても関係ない。中身はソルや)


(……という感想を顔に出したら多分怒られるから、しまっておく)


 ここは帝国貴族の社交場。情報も、策略も、笑顔の裏にある。


 元ドラゴン研究者の、礼儀作法修業中の、辺境貴族令嬢が——また、飛び込む。


(三度の飯より研究の私が、社交界で笑顔を作り続けなあかんのか。前の世界の研究室の方が、まだましやったかもしれへん)


(……いや、嘘や。これも絶対面白い。面白くなるに決まってる)


(やると決めたら、やる。それだけや)

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