26話
エトーリア
「デート、だったんでしょうか」
ルークとの外出から戻り、彼が”報告に行く”と部屋を去ってすぐ。
ソファに腰掛けて呟いた最初の言葉がそれだった。
お茶を淹れてくれていたアナが振り返り、にやりと笑顔になる。
「エトーリア様、もしかして何かあったんですか?」
「な、なにもないですよ。店に帰って、ご飯を食べただけですから」
手際よくトレイに載せたティーセットを運んできた彼女は、コトと軽い音を立てて私の前にカップを置く。
「本当ですか?ちょっとお顔が赤いみたいですけど」
「もう!からかわないでください」
顔を覗き込んでくるアナは探るような表情で目を爛々とさせる。
彼女は年頃の女性らしく、恋愛沙汰に関する話が大好きだ。
第一王子と奥方との出会いに関するエピソードから、城に出入りする庭師と侍女が付き合っているという噂話まで、アナ伝手に知った話も多い。
手を繋いで人混みを歩いたとか、私と行きたい店だったと言ってもらえたとか。
それをアナに話したら「それはデートじゃないですか」と認定されそうで、口には出さない。
父親や街の子どもたち以外の男の人と二人きりで歩いたことすらなかった私が、胸を高鳴らせるには十分な出来事だった。
きっと、ルークにとって私は仕事上の庇護対象で、毎日一緒に過ごしているから、日を追うごとに同僚のような親しさが増しているだけ。
あまり自分の話をしない彼が過去を教えてくれたことも、ここでの日々の積み重ねから、私のことを信頼してくれたという証なのだろう。
彼といると、自分が街にいた時の感覚が蘇るような、そんな瞬間が何度もあった。
茶葉園で一緒に作業している時や、香茶宮での仕事を手伝ってくれている時、ルークが傍にいてくれると、ついここでの役目を忘れてしまいそうになる。
特別な力を持っている”テア・ヴィータ”ではなく、彼は今でも、私そのものと向き合ってくれているような、そんな気がしていた。
香茶宮での訓練を終え、いつものようにフィロー師匠とのお茶の時間を楽しんだ後、2階で本を読んでいた。
2階はすべて読書室になっていて、円形の壁にずらりと本棚が連なっており、収まらないものは床に積んである。
師匠に許可を取って、作業が終わってから夕食の時間までは毎日のようにここで過ごすことが多かった。
ルークは私がここにいる間、騎士団に戻って訓練をしているか、ライアス殿下の元へ報告に行っているみたいだ。
初めのうちはルークは部屋の隅で、ひたすら私が読み終えるのを待ってくれていた。「それは流石に申し訳ない」という私と、師匠の口添えもあって、渋々ながらに彼は一時的な別行動を承認してくれたのだ。
静まり返った空間に、時折誰かと会話するフィロー師匠の声が遠くに聞こえる。
階段を上がってくる、誰かの靴音がした。
不意に入り口の扉がノックされ、木製の重いドアがゆっくりと開く。銀色の髪が見えて、はっとした。
「エトーリア、いるか」
「アシュベル殿下?どうされたんですか」
本を閉じ、慌てて立ち上がる。
彼は私を視認すると、ふっと力を抜くように微笑んだ。
「ちょっと、気分転換にな」
「ご公務の途中ですか?」
「あぁ。一日書類仕事だったんだ。息抜きにお前に会いに行こうと思って」
私がここへ来てから、殿下が香茶宮に来るのは初めてだ。
彼はツカツカと軽く靴音を鳴らして歩き、私が座っていたひとり掛けソファの対面にあるもう一方に腰掛ける。
「ここにいるとフィローに聞いたんだ。いつも本を読んでるのか?」
「はい、まだまだ知らないことがたくさんあって」
殿下と目線を合わせるように、私も元の位置へ腰を下ろした。「勉強熱心なんだな」と彼は目を細める。本と茶葉の匂いだけが入り混じっていた空間に、彼が纏う優しいハーブのような香りがした。
「本が好きなら、王宮図書館にも連れて行こう。入室許可をもらっておく」
「本当ですか!はい、ぜひ」
楽しみです、と素直に伝える。彼がふっと笑顔になった。
王宮図書館のことは、その存在をアナから聞いていた。国中の本が集められており、利用するには王室からの許可が必要だと。そのうちルークやフィロー師匠に聞いてみようと思っていた。
「図書館に入れるだけで、そんなに嬉しそうな顔をするんだな」
アシュベル殿下は、軽く首を傾げて、穏やかな表情でじっとこちらを見つめる。
思わず目が離せなくなるくらい、彼の視線はまっすぐで、そして美しい。
ふいに昨日抱きしめられたことが思い出されて、慌てて目を逸らした。
その腕に包まれたことも、服越しに伝わる体温も、頭に浮かぶだけで、鼓動がうるさくなる。
「俺のことは気にせずに、本を読んでいてくれて構わない」
「……それは、さすがにできません」
「俺はお前といられたらそれでいい」
なぜ?という疑問は昨日、一晩中考えた。
殿下は、さらりとこちらを惑わせる言動をしていることに気がついていないのかもしれない。
その体質のせいで人と距離を過ごした暮らしをしてきて、私のような臣下が近くにいなかったから。
私という仕事を、存在を信頼してくれていて、心から頼り必要としてくれている。まっすぐに、それを伝えようとしてくれているだけ。
そう自分の中で結論づけなければ、「殿下はエトーリア様のことがお好きなんですよ」というアナの言葉が頭の中で反芻してしまう。
彼は国の第二王子で、私はただの街娘だ。練茶士として特別な力を持っていなければ、出会うこともなかった、釣り合うはずのない立場にある。
ページをめくってはいるものの、殿下がじっとこちらを見ている状況の中で本の中身など頭に入ってくるわけがなかった。
どれくらいの時間が経っただろう。きっと、十数分くらい。
彼は左胸の内ポケットから、小さなを懐中時計を取り出した。
それが昨日贈ったものだと気づき、持ち運んでくれているんだ、と思わず口角が上がる。
彼は時計の蓋を開き、ため息をついた。
「そろそろ戻らないと、ヴィクターに叱られるかもな」
「お忙しいんですね」
「今までできなかった分も取り戻したくて、公務を少しずつ増やしてもらってるんだ」
「ご無理はなさらないでくださいね」
「あぁ。わかってるよ。お前に救われた体だ。大事にする」
彼はソファから立ち上がる。
見送るため本を置き、腰を上げてスカートをさっと整えた私が顔を上げると、彼はこちらに2歩近づいた。
アシュベル殿下の端正な顔立ちが目の前にあって、つい体を強張らせる。
彼の大きく、骨ばった指が耳に触れた。どくん、と大きく心臓が跳ねる。
まるで、愛おしいものを見つめるようなその眼差しに、胸の奥がぎゅうと掴まれたように苦しくなった。
そのまま、彼は私に顔を近づける。反射的に目を閉じた。
額に、柔らかな感触があった。
小さく唇の触れる音がして、キスされたのだとわかる。
ふっと笑顔を浮かべる殿下が、指先で優しく私の頬を撫でた。
「これで、この後も頑張れそうだ」
「殿下……?」
「お前との茶の時間までに、全部終わらせる」
彼はそう言うと、名残惜しそうに、手を下ろした。
殿下は気持ちを切り替えるように一度瞼を閉じて、開く。「じゃあな」と言葉を残して、踵を返した。
キィ、と音をたて扉が完全に閉まったのと同時に、足の力が入らなくなる。半ば倒れ込むようにソファに座り直し、ばくばくとうるさい胸に手をあてた。
これでは、まるで、殿下が私のことを。
そう考えてしまう頭と、上がりきった体温を抑えることに、必死だった。




