25話
アシュベル
朝、いつものように茶を淹れるため俺の部屋を訪れたエトーリアは、普段よりも機嫌が良さそうに見えた。
体の具合について質問をされる前に、こちらから「調子はどうだ」と聞いたのはそのせいだ。
「はい、今日もとっても元気です。アシュベル殿下はいかがですか?」
「あぁ、問題ない」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は俺が差し出した手の温度や脈拍を確認するように触れる。
それは毎朝、彼女が俺の具合に合わせて淹れる茶を選ぶためのルーティーンだった。
今日も、触れる彼女の指先は温かく、穏やかに心が解れていく。
フィローに暇をもらったのだと、昨日朝の茶の時間に本人から直接聞いた。
代理でフィローが茶を淹れに来ると聞いた時は眉間に皺が寄るのを我慢できず、彼女が苦笑したのを覚えている。
そういえば彼女は王宮へ来てから一度も休んでいないのだと気がつき、首を縦に振った。
「お前と一晩会っていないだけで、久しぶりな気がする」
「ふふ、そうですね。昨日は暇をいただき、ありがとうございました」
「街は楽しめたのか」
「はい。店にも顔を出せましたし、ルークがいろんなところに連れて行ってくれたんです」
手を離した彼女を引き止めるように、話しかける。
街に出てリフレッシュできたおかげなのか、エトーリアの明るい表情にはこれまでよりも少し余裕の色が見えた。
そう気がつくと考えてしまうのは、日頃自分の存在が彼女の心にどのように作用しているか、だ。
彼女の笑顔とは裏腹に、ズンと重いものが胸にのしかかる。
「なあ、エトーリア。……お前にとって、俺は重荷になっていないか」
「……殿下?」
正面に立つ彼女は俺を見上げ、先ほどまでの笑顔を消して目をぱちぱちと瞬かせている。
縋るような気持ちで、その耳元にかかる髪に触れた。
「俺がこんな体でなければ、お前を巻き込むこともなく、街で自由な暮らしをさせてやれた」
喉の奥に熱いものが込み上げるのを抑えながら、後悔の言葉を紡いだ。
自分が彼女の人生を犠牲にしていることへの罪悪感と、エトーリアなら”そうではない”と否定してくれるのではないか、という希望が入り混じる。
王位継承者という立場でありながら、なんと情けないのだろう。
「アシュベル殿下、」
エトーリアは名を呼び、髪に触れていた俺の手にそっと自分の手のひらを重ねた。ほんの少しだけ口角をあげて、静かに目を閉じる。
とくん、と胸が鳴った。
自分よりもずっと小さな彼女に、まるで身体中を包み込まれるような感覚になる。
「私、アシュベル殿下とお会いできたこと、嬉しく思っています」
「……本当、なのか」
「はい。ここへ来たこと、後悔はしていません」
彼女の言葉ひとつひとつが耳に届くたび、胸のつかえがとれていくようだった。
俺のために、この国のために、自分を犠牲にしている彼女に対して、”あの日、俺と出会わなければ”と毎日のように考えていたから。
「殿下に初めてお会いしたあの日は、正直、不安でたまりませんでした。私なんかに一体何ができるんだろうって」
「……あぁ、」
「でも、アシュベル殿下が目を覚まされて、私を練茶士として傍に置くことを認めてくださって。ほっとしました。すごく、嬉しかったんです。私にも、誰かの役に立つことができるんだと」
彼女は目を開けて、再び俺を見上げ、ふわりと微笑んだ。
ここまでの功績を、”誰かの役に立つ”という言葉で片づけてしまえる謙虚さが、彼女らしいと思った。今や彼女は国の重要人物で、この世でたった一人だけ、魔法のような力を持っているというのに。
「必要としていただける限り、お傍にいさせてください」
彼女は俺の手を下ろし、両手できゅっと握る。
それがどこか、まるで従者と雇い主の関係を表しているように感じられて、手を解いた。
代わりに、その小さな体を包み込むように、優しく抱きしめる。
初めて大胆に触れたその体は柔らかく、微かに花のような爽やかで甘い香りがした。腕の中で、彼女の肩に力が入る。
「殿下、あの、これは」
「怖がらないでくれ。ただ、こうしたくなったんだ」
直接、言葉で誰かに好意を伝えたことなどなかった。
むしろ口から吐いてきたのは、臣下への拒絶するような言葉ばかり。
だから、身勝手かもしれないが、この体温が、彼女の背中に触れる手が、思いを伝えてくれないかと願う。
俺にとって、君はただの王宮練茶士のひとりではないこと。
毎日顔を合わせる度、見せてくれる笑顔に癒されていること。
その唇から他の男の名前が出ると胸に靄がかかる。
ネックレスを選んだのも、日々身につけてくれたらという独占欲だ。
”第二王子が贈った”と噂が立てば彼女を変な噂や擦り寄る悪意から守れるだろうとも考えた。
触れるほど、体温が混ざり合うように、満たされていく気がした。
本当は全てが伝わるくらい、もっと抱きしめていたかったが、彼女の強張った体から緊張は抜けない。
いきなりで驚かせただろうと、回した腕を惜しみつつ解いた。
彼女は唇を結んで、床に視線を落としている。
その頬が赤く染まっているのが見えて、こちらの鼓動の音がうるさくなった。
「……すまない。つい触れてしまった」
「いえ、あの……アシュベル殿下。実は、お渡ししたいものがあるんです」
誤魔化すように、彼女は隅のテーブルへと踵を返し、部屋に入る時に持っていた紙袋から、小さな箱を取り出した。
急足でこちらへ戻ってくると、遠慮がちにそれを差し出す。
「これは?」
「殿下へのお返しです」
驚いて眉を上げる俺に、「もしお気に召したら、受け取っていただけないでしょうか」と控えめな言葉を口にする。彼女の手からすっと箱を受け取り、蓋を開けた。
鈍く金色に光を放つ、小さな懐中時計があった。
手に取り、その繊細な飾りをよく見ようと顔を近づける。正確なリズムを刻む微かな針の音が、心音のように心地よく聞こえた。
冷たかった外側の金属部分は、持っているうちに手に馴染んでいく。
まるで、あの時彼女が、俺に生きる時間を再び与えてくれたのと同じようだと、そう思えた。
「お前が選んでくれたのか」
「はい。何をお贈りすればいいかは、ルークに相談して。私なりにですが、アシュベル殿下に似合いそうなものを選びました」
「……ありがとう。大事にする」
今この瞬間から、肌身離さず持ち歩く。
そう口にすると、エトーリアは嬉しそうに笑った。




