June of garden 2
その日、ニルが植物庁のディスクで突っ伏して寝ていると、頭に鈍い衝撃が走った。
「どうした、風邪か?」
本当はすぐさまやり返したかったのだが、そんな気力もなく結局けだるく見上げると、そこにいたのはやっぱり宮廷医、ポール・シャリエだった。
「……明らかに体調の悪そうな見た目の人間の頭をはたくのはお前くらいだと思ったが、案の定お前か、やぶ医」
「えええ、大丈夫かっ!?」
言いかけてぶっ倒れたニルを見て、シャリエは慌てて額や首元に手をあてるがも熱はないようである。肌の色はいつにもまして青白く、白いうわ薬をかけた工房の磁器のように光に当てたら透けそうなくらいだ。
「……長雨の時期はいつもこんなのなんだ。気にするな」
ニルはむっくりと起き上がると、腕を高く伸ばし、辛そうに頬杖をついた。
六月になり、バンデンは春の終わりの雨期に入っていた。連日降りしきる弱い雨は、今日は珍しく降っていない。といっても、頭上には重たい雨雲が覆っていて、今も昼間なのに路地裏のように薄暗い。
「ひどいようなら早退した方がいいぞ」
「いや、大丈夫だ。それに今日はアフタヌーンティーに招かれてるから」
シャリエが首をかしげると、「ジュネラザール公夫妻さ」と事もなげにつぶやいた。
「王族!? なんでまた……」
「これのせいらしい」
シャリエが感嘆の声をもらしていると、ニルが新聞を投げてよこした。どの雑誌も一面に大きくニルの顔が描かれている。新聞は連日、オーレリア姫を真夜中の森から救った英雄、ニル・クリムの話題でいっぱいだった。謎の最年少国家庭師の生い立ちからプライベート、恋人の有無まで嘘八百のでたらめ記事が躍っている。
「そういえばお前、あのチャールズ・ホスキング博士の隠し子だったってのはやっぱり本当だったんだな」
記事を読んでいたシャリエが冗談交じりに言うのを、ニルはギロリと睨んだ。
「お前もあのブンブン攻撃にあってみればいいんだ! 道を歩いただけで、蜂の子みたいに記者たちが群がってくるんだぞ。五分で着く道も今じゃ一時間かかる、うっとうしいったらありゃしない」
「しかたないさ、時の人だからな。それに記者たちを邪険に扱ってるから、ほら見ろ、肖像画が全部ブッサイクに書かれてる」
「うるさい死ねヤブ医者」
シャリエに新聞に書かれた肖像画と本物のニルとを見比べて爆笑され、ニルは子供のようにぷいと横を向いた。
「それで? ジュネラザール公夫妻がその話題のエリート国家庭師に会ってみたいとご所望か」
「夫人が特に俺に会いたいんだってさ」
エルトラント帝国はその国土を五つに区分する。東のウェリントン、西のジュネラザール、北のサーチェスター、南のカイダック、そして海を挟んだ黄大陸のドリト連邦。もとは五つの別の国だったのを二百年前統一したのが帝国創生の王、ファザック王だ。そして現在は彼の子孫たちがそれぞれの領土を統治している。ジュネラザール公こと、四番目の皇子コーネリアスが抱えるのは黄大陸貿易の中心地、トラスポルカの港を抱える商業地域、ジュネラザール領だ。
「ジュネラザール公爵夫人といえば、もとは代々王家の産婆を務めるバセット家の出だ。何事にも勉強熱心で聡明な方だって聞くけど」
「……ふうん。ところでお前」
ニルは椅子を回してシャリエに向き直ると、神妙な面持ちでこう続けた。
「仕事の方は大丈夫なのか」
「な、なんだよその、上京したての息子に普段は寡黙な親父がいろいろ考えた後に結局言葉にできなくてポツリと一言話しかけるみたいな質問は!」
「いや、毎日毎日飽きもせず俺のところへ顔を出すから医者というのはそんなに暇なものなのかと思ってな」
「う、うるさい! お前に心配されなくてもちゃんと仕事してっから! 往診の帰りにたまたま寄ってるだけで別にお前に会いたいとかそんなの砂漠の砂ほどもねえから!」
いきなりゼエゼエといきり立ったと思ったら、帰る! と言っていつものように窓から出て行ったシャリエを訝しげに見送りながら、
(そんなに悪いこと言ったかな……)
とニルは心の中で首を傾げた。
(なんなんだ、あいつのカンの良さは……!)
植物庁の窓から降ろした梯子を下りながら、シャリエは思わず自分の胸もとに手をあてた。まさに肝が冷えるとはこのことだ。
「シャリエさん!」
「うっうわあああ!」
突然名前を呼ばれ、シャリエは飛び上がらんばかりに悲鳴をあげた。
「ああ、アンソニー殿下」
そこにいたのはアンソニーと、ギルバードと言ったか、彼の家庭教師の青年だった。聞けば乗馬の練習に行くので王室厩舎に行く途中だという。屋根付きなので雨が降ってきても関係ないのだろう。
「靴、ピカピカですね!」
「ありがとうございます」
アンソニーに自分の美しく磨かれた安物の皮靴を褒められ、シャリエはハハ、と曖昧な笑みを口元に浮かべた。
この連日の雨にもかかわらず、照り輝くこの靴にはある訳があった。
昨日の朝、五番街にある自宅から城行きの馬車を待っていた時のことである。めったなことでは傘をささないバンデン市民も、この日はついにフードで歩くことを躊躇するような大雨の中、靴磨きの少年がシャリエに声をかけてきた。
「悪いが、どうせまた汚れるから今日はいいよ」
「旦那、そこをなんとか。今日はまだ一人もお客さんに出会えてないもんで」
下っ端宮廷医に余計な金があるはずもなく、のらりくらりと交わしながら、停車した辻馬車に乗り込もうとした。しかし馬車に足をかけた瞬間、
「ところでシャリエさんは一体なんの目的でニル・クリムを見張っているんですか?」
と少年が言った。
「ーーーーえ?」
自分の身体にだらだらと冷たい汗が流れるのをシャリエは感じた。雨のせいでやや肌寒いほどの気温なのに。
「どうして俺の名前、っていうかニルのことを……」
少年をまじまじと見る。目深にかぶったキャップの下にあるのは見知らぬ顔だ。汚い古着のシャツやベストになんら怪しいところは見当たらない。
「お客さん、乗るの、乗らないの」
辻馬車の御者の声に、苛立つ他の乗客たちと背後にいる少年の顔を見比べ、シャリエは仕方なく馬車を降りた。まだ早めの時間だから仕事に遅れることもないだろう。
「お前は、誰だ」
雨をしのげる時計屋のアーケードの下に移動し、無理やり靴を磨かれながらシャリエは言った。
「俺はしがない靴磨きですよ。それからちょっと情報屋みたいなこともしてる」
「その路地裏の貧乏少年が俺に何の用だよ」
「商売ですよ」
「靴磨きの方じゃないよ」
「だから商売だって。旦那に情報を売りつけにきたわけ」
少年の言葉になるほど、と低く唸る。だが誰も買うとは言ってない。
「残念だが、お前のつかまされた情報はどうやら間違いみたいだ。見張ってるなんて言葉が悪い。俺はただ植物庁へあいつの様子を見に行ってるだけだからな、もちろん医者としてね」
「アンダーグラウンドの情報網を舐めてもらっちゃ困るよ、旦那」
明らかに納得していない声色に、シャリエは頭をかいた。シャリエの口から言えることは、本当に他にはないからだ。
「……本当にそれだけなんだってば。誰に聞いたんだ?」
「それが知りたきゃ銅貨三枚です」
ヒラヒラ動かす手のひらをはたいて、「やっぱりお前に用はない」とシャリエは踵を返そうとした。だが、またも少年に呼び止められる。情報屋とは情報を小出しにするやり口らしい。
「ニル・クリムの様子を一日一回観察し、それをノートに記録し、一か月貯まったら上司に提出する。それが旦那が命じられた仕事でしょう、? 彼はどこか病気なの?」
「さあな。でもまあ俺が見る限り健康そのものだよ。むしろちょっと血気盛んすぎるくらい」
シャリエはやけになって答えた。
「じゃあ、一体何のため?」
「それは俺にもわかりません。上司に訊ねたけど、はぐらかして答えてもらえなかったからね」
上司にその仕事を言付かったのは、およそ半年前、ニルが植物庁に来てまだ日もない頃のことだ。訳のわからぬまま、毎日ニルを訪ね、初めのうちはニルの方も明らかに警戒していたが、最近では世間話をするまでの仲になった。少々(というかだいぶ)性格に難有りだが、ニルはいたってまともで問題を抱えているようには思えない。人となりもそこそこわかってきた今、反比例するようにますます自分の仕事の意味はわからなくなっている。
「気にならないの? 彼は一体何者なんだ? ってさ」
「ならないね。上司が話さないのなら、それは俺が知らなくても良いことなんだろうからね」
「つまんねえの!」
少年はがっかりしたように唇を尖らせたが、余計なことに首を突っ込まないのがシャリエの信条だ。これまで没落貴族の三男として生きてきたポール・シャリエの処世術である。
「国家庭師には他の人にはわからない特別な事情でもあるんじゃないのか? なんてったって唯一の女王直属の役職な訳だし」
「そんなこと関係なかったら?」
「関係ない?」
「ニル・クリムがチャールズ・ホスキング博士の隠し子って記事、あれの情報を仕入れたのは俺なんですよ」
少年はニヤリと口角を上げた。
「……さすがに隠し子ってことはないだろう?」
「どうでしょう」
無言で手のひらをさし出され、銅貨を三枚指で弾くと、「まいどあり」と少年は器用にそれをキャッチした。
「何日も通ってやっと、博士から直接話を聞いたって人にウラをとったんですから、本当だとは思いますよ。その証言をくれた相手も素性はしっかりしてますしね」
「だが博士から直接聞いた訳ではないのだとしたら、博士がその人物に嘘をついたってこともありえるだろう?」
「一体どうして博士が嘘をつく理由があるんです?」
「……ないな。確かにない」
「でしょう?」
少年は自信ありげに鼻の穴を膨らませると、それで実はその情報をくれた人からもらった情報を旦那にあげようと思いましてね、とささやいた。
「だから俺は別に自分の仕事に個人的な興味は抱いてないんだって」
「そうですか? 残念だなあ」
もし気になったらぜひ、と熱心に両手を握ると、少年はどこかへかけていった。はたと気づいてポケットをまさぐると、財布はあったがポケットに入れっぱなしにしておいた銀貨が五枚なくなっていた。シャリエはため息をついてご丁寧に艶出しクリームまで塗られた自分の靴を見た。どうやら靴磨きの腕はいいようだ。
遅刻したのは言うまでもない。




