June of garden 1
匂いは人の記憶を、五感と呼ばれる他のどの感覚機能よりも鮮明に思い起こさせるものだという。
たとえばベッドまで母親に持ってきてもらった目覚めのミントティーの香り。
たとえばかくれんぼでこっそり入り込んだ、使われていない納屋の埃の匂い。
たとえば誕生日ケーキの明かりを吹き消した後の燃えた蝋の匂い。
その日、ケイト・シャープシュケードは夫であるジュネラザール公コーネリアスに手を引かれ、約一年ぶりに首都バンデンのヴィラン宮殿を訪れていた。
バンデンから汽車で西へ二日半、ジュネラザール領の州都トラスポルカは帝国の中では珍しい、商人が力を持つ街だ。そんな土地に慣れてしまったせいか、バンデンは吹く風までがお上品な感じがして気が引けてしまう。特に流行りのドレスに身をつつんだ貴婦人たちが曇りだろうと日傘をさして闊歩する城の庭は大の苦手で、家族と使用人しかいないこの宮殿の方がいくらかマシだった。
ケイトはこれでも一応バンデン生まれのバンデン育ちだが、代々王家の助産医の家系に生まれ、物心ついたときには両親や祖父母を手伝い働いていたため、貴族らしさは微塵もない。社交界デビューも遅かった。そんな女のどこがよかったのか、夫の考えはいまだに理解ができない。
「そういえば、午後のお茶の時間は客人をお招きしたんだ」
コーネリアスがふり向きざまに嬉しそうな顔で言った。熱心に手入れをしていた似合わない口髭もやっと見慣れてきて、しかめっ面をしていればそこそこ威厳のある表情になってきたと思っていたが、はにかむ笑顔は十代の頃のままだ。
「客人?」
「オーレリアから話を聞いたとき、会いたいと言っていただろう? 国家庭師のニル・クリムだよ」
「ああ、あの森の案内人さんね」
ニル・クリムという国家庭師の噂はバンデンから遠く離れたジュネラザール領にも届いていた。真夜中の森で皇女を見つけた優秀な国家庭師だ。義妹のオーレリアから、その事件の、婚約相手のキネフ皇子やハイアット伯爵の息子といったウラ話的を聞かされ、少女のように恋愛話に花を咲かせていたのは昨夜のことである。我が殿下は本当に仕事が早い。
「聞いたところによると、アンソニーやマルヴィナとも仲がいいらしい。あの二人が懐くなんて珍しいな」
「そうね」
「ケイト、こちらから帰ろう」
二手に分かれた道の前で、さりげなくコーネリアスが手を引くのをケイトは黙って従った。台所部屋の横を通ると、匂いでティータイムのお菓子が何かわかってしまうからな、とコーネリアスは笑ったが、明らかに遠回りの道を選んだ理由が本当はそうではないことをケイトは知っていた。
ふと、鼻先にしっとりとした甘さを持つ花の香りがふわりと香る。庭を流れる小さな小川の湿地帯の横に、剣上の細長い葉が縦に並んでいた。その隙間からピンク色の特徴的な花が揺れている。
ケイトの耳に今はっきりと、少女の笑い声が聞こえた。ふわふわの綿菓子みたいな柔らかい黄金色の髪、テディベアのような大きな瞳、愛くるしい少女のような口元。
『ケイト! こっちよ』
声がした方に顔を向けると、視界がピンクに染まった。
ふんわりと甘い香りが体全体をつつみ込む。バケツの底をひっくり返したような大雨、というのはよく聞くが、バケツの底をひっくりかえしたような花びらを浴びたのは初めてだ。
『アリ、よくもやったわね! 待ちなさい!』
砂糖菓子のような甘い笑い声で庭をかけていくその華奢な背中は、手を伸ばせばすぐに捕まえられそうなのに、ケイトはなかなか捕まえられない。少女はまるでからかうように近くへ現れたと思ったら、まだすぐにどこか遠くへ行ってしまう。まるで追いかけてきて、とでも言うように。
「――ケイト?」
はっと気がつくと、コーネリアスが心配そうな顔でケイトの顔を覗きこんでいた。
「いいえ。きっとオレンジベリーのジャムがついたスコーンよ」
ケイトは何でもないふりをして笑った。
「今日のティータイムのお菓子」
コーネリアスの腕に手を絡ませながら、ケイトは静かに耳をすませた。まだあの声が聞こえるような気がしたから。




