Early love (6)
オーレリア姫のギデンツ王子との婚姻の知らせは宮廷はおろか、バンデン中をあっという間に駆け巡った。同時に、ベングリッド子爵と姫の破局もゴシップ好きの人々の間では多く語られることとなった。
五月もあと少しで終わりというその夜、シャリエと共に毎年恒例だという貴族、平民関係なく参加することができる大舞踏会にやってきたニルは、広間に着くなりハイアットの姿を探した。
貴族たちのグループにいたハイアットは以前の爽やかで快活な笑顔で、貴婦人と何やら会話をしていた。時折何をするでもなく、ぼんやりと空を見ている時がある、という話をグレンから聞いていたニルは、その顔を見て少しだけほっとした。
「オーレリア姫だって、あんたが後ろ盾欲しさに自分に近づいたなんて話、本当には信じちゃいないさ」
「わかってますよ」
周りから人がいなくなったタイミングを見計らって声をかけると、ハイアットは自嘲のような笑みを浮かべた。
「でも、もう僕は彼女に謝ることもできないんです。三つの花を渡すことももうない。あれから、花が届いたんですよ」
「花?」
「青とオレンジ、二本のバル・サックス。僕が姫に贈ったものです」
と、そこへ仕立てのいいタキシードを着た初老の男性が近づいてきた。
「ベングリッド伯爵のご嫡男、マシュー様ではありませんか? 私、アレン・クリスと申します。新聞社のオーナーをしています」
「やあクリス。会えてうれしいよ」
「こちらこそ。ところで子爵は素晴らしいエルティッシュ・ガーデンを屋敷にお持ちだとか」
「ああ。まあ父には建設を大反対されましたがね。父は私のやることなすことが気に入らないようだ」
「親子とはそういうものです。ぜひ観に行きたいものです」
「もしよろしければ夏の休暇にでもご招待しますよ」
二人のやりとりを見ていたニルが「貴族の社交ほど退屈でつまらないものはないな」とつぶやくと、
「同感だ」
と、いつのまに後ろに来ていたグレンが同意した。はあと細い息を吐きながら肩をすくめる。
「だがこれも、我々の重要な生きる術さ」
「オーレリア様をご存じありませんか」
バルコニーに出てニルがシャリエと二人で煙草を吸っていると、声をかけてきたのはオーレリアの侍女、ジェーンだった。ずいぶんと青い顔をしている。
「少し目を離したすきに、殿下のお姿が見えなくなってしまって。今宮殿の者全員で必死に探してはいるのですが」
「残念ですが、見ての通りここにはいませんし、行方も知りません」
「あの、失礼ですがベングリッド子爵はどちらに……」
「さあ。先ほどまでは一緒だったのですが。彼も姿が見えませんね」
ニルの言葉に、ジェーンはひどく怪訝な顔をした。その時、一人の使用人らしき男性がジェーンに囁き、それを聞いたジェーンがああ、と青い顔をしてよろけた。
「どうかされましたか」
「殿下が嘆きの森へ入って行くのを見た者がいると……」
嘆きの森とは、宮殿の西に広がる深い森だ。背の高い針葉樹が生えたその森は、夜になると足元まで暗く、なかなか出てこられない。
「こんな真夜中に嘆きの森に入るだなんて何を考えているんだよ……!」
シャリエと共に宮殿の外へ出て森の入口へ向かうと、そこは松明を持った大勢の人々でごった返していた。辺りは昼間のように明るい。
「せめて月明かりが照らしてくれれば……」
雲に隠れてなかなか姿を見せようとしない月を見上げながら、恨めしそうにつぶやく誰かの声が聞こえた。
森の入口に建てられたテントの中に入ると、軍服に身を包んだ大柄な近衛兵たちが疲弊した面持ちで待機していた。ニルは彼らをなんとかかき分けて、テントの中心へと進んだ。
「遅いぞ」
轟々と燃え盛る大きな炎の横で、優雅な曲線の荘厳な椅子に足を組んで座っていたアレックスは、ニルを見るなり一言そう言った。
「すみませんね、ちょうど食後の一服中だったもので」
「何を悠長に煙草など楽しんでいたんだ。早く森へ入れ。私の妹を探し出してこい」
「殿下、しかし森は……ひいっ」
アレックスに向かって何か言おうとした近衛隊の隊長は、最後まで言葉を続けることができなかった。アレックスは彼の言葉が終わる前に、まるで冷たい氷のような視線で隊長を睨みつけたからだ。アレックスにとっては何でもないその視線は、一瞬で人の人生を左右できる意味を持つ。どんな氷よりも冷たく、鋭く心臓を貫通する。
「駆け落ちか心中か。今兵士達の間を通ってきたら聞こえましたよ、下衆な噂話が。お相手は件の伯爵家のバカ息子だとか」
「馬鹿馬鹿しい」
アレックスは、鼻で笑うと一蹴した。
「あの娘がそんなことをする訳がない。兄弟の中で最も私に似てるのがオーレリアだ。ニル、早く行け。妹が寒さで震えているかもしれん」
アレックスはそれだけ言うと、マントを翻し、テントから出ていった。
「ニル、本当に行くのか!?」
アレックスが立ち去った後、シャリエはニルの肩を掴んで叫んだ。
「行かないと死刑だってあの女の顔に書いてあった」
「行かないとじゃない、見つけてこないとだ!」
「たしかにそうだな」
ニルはあっさりと頷いた。まるで些細な、何でもない事を指摘されたような余裕さで。
森の入口から西へ三百歩歩いた。十歩ずつ花びらを落としながら。
真夜中の森はどこまでも暗く、足元はおぼつかないほどだ。落ちた小枝が足に刺さり、そのたびに悪態をつく。たまに吹く小さな風は頭上の葉を揺らし、そのざわめきはまるで自分に向かって何か責めたてているようだった。真夜中の森はまるで井戸の底のように心細く、孤独だ。
自分が今何を考えているのか、オーレリアにはよくわからなかった。
なぜこんな夜の森を一心不乱に歩数を数えながら進んでいるのか。一人になりたいのか、逃げだしたいのか。じゃあ十歩ごとに落とす花びらは一体何なのか。
ほんの小さな少女の頃から、自分が特別な存在であることはなんとなく知っていた。姉が女王だと知ったのはそれより少し後で、その時は腑に落ちたという表現が一番近かった。
自分が特別だということは同時に、自分がいたって普通の人間であるという叫びも抱えることだった。宮廷にいる貴族とも城下にいる平民とも何も変わらない、ただの平凡な一人の女だ。だがその思いは表に出してはいけないもので、隠さなければいけないものだと知っていた。だから女王に修道院に送られた時は、正直少しほっとしていた。修道院での生活は信仰のみが存在し、俗世間のものは遮断される。神の前では誰もが平等だった。
宮殿を離れるまでの十年間、オーレリアは王族の自分とただの子供としての自分の二つを持っていた。その二つの顔の使い分けが特別辛かったということはない。いくら二つがかけ離れたものだったとしても、それはオーレリアにとっては生まれた時から行っている、至極当たり前の作業だったからだ。むしろ完璧な皇女を演じることに楽しみさえ感じていた。だから、何の気なしにあっさりとオーレリアの仮面を取ってしまう彼が苦手だったのだ。
その人は兄の寄宿学校の先輩で、学校が休みのたびに宮殿へ来ていた。顔を合わせるたびに喧嘩ばかりしていた。今思えば五歳上の彼が、十歳の自分と対等に喧嘩をしていたなんて、オーレリアが大人びていたのか彼が子供だったのか。喧嘩のきっかけは覚えていないが、少々鈍感な彼の言動に苛立ち、しかも素の自分に返ってしまう怒りを彼にぶつけていたのかもしれない。
喧嘩のたびに花をくれた。庭園を歩きながら、その花がどんな花で、どこで咲いてどんな肥料をくれるのがいいといった薀蓄をたくさん話してくれたが、そんなものは全然聞いていなかった。ただ、彼の隣で彼が楽しそうにしているのを見るのが好きだった。
「殿下、どちらまで行かれるのですか」
「えっ……」
オーレリアは思わず息をのんだ。まじまじと目の前の男性の褐色の色をした顔を見つめる。
「言葉……お上手ですのね」
「ああ、そうですね。私は十歳から十年間、ラツァーニアに留学していたので」
ラツァーニアとはガルザン山脈と三つの小国を挟んだ先にある、エルトラントと並ぶ青大陸の大国だ。そんなこと、当に知っていたはずなのに聞いてしまった自分が恥ずかしい。だって私はこの人のだいたい全てのことを知っているのに。両親や兄弟の名前も、卒業した学校も、得意なスポーツや趣味、靴のサイズまでも。そしてそれと同じく、だいたい全てのことを知らないのだ。顔を合わせるのは、今日が初めてなのだから。
「ご挨拶が遅くなり、申し訳ありませんでした」
ギデンツの皇太子、キネフ皇子は跪くとオーレリアの手の甲にキスをした。
「この花びらを辿って、ここまで来たのです」
彼はそう言って手のひらの中にあった赤と白の花びらを見せた。そして反対の手に持っていた二輪の花をオーレリアに向かってさし出した。
「これを、貴女に」
「え……」
「ある紳士から頼まれたのです。自分は殿下を追う資格がないから、私が行ってくれと」
頭の中にそのある紳士の顔が浮かび、オーレリアの胸はズキリと痛んだ。ずっとただの比喩だと思っていたのに、心臓の下のところが本当に痛むなんて初めて知った。
「バル・サックス。我が国でのこの花の花言葉は『愛への執着』と言います」
「愛の、執着」
「あの青年は、それを無意識にも断ち切ろうとしたのかもしれませんね」
「どうして?」
「花が未練を自らの中に吸い取り、手放させることで人の気持ちに整理をつけさせるからです。ちょうど貴女が花びらを森へ捨てたように」
そんなことはありえない、オーレリアはつぶやいた。
「それじゃあまるで、花が感情を持っているようだわ」
「花は感情を持っていますよ」
しばらく二人は腑に落ちない、という顔をして見つめあった。
「……エルトラントへ来ているだなんて、ちっとも知りませんでしたわ」
「さきほど到着したばかりなので、まだ女王陛下にしか謁見しておりません」
「でも、どうして」
「我が国の習わしとしては、結婚の契りを結ぶ妻の顔を結婚式の当日まで見たことがないというのはありえない(・・・・・)のですよ」
キネフはそう言ってニヤリと笑った。白い歯が闇夜に光る。
「僕らはまだ出会ったばかりで、お互いのことをそんなによくは知りません。おそらくたくさんの不一致も持っているでしょう。でも愛とはそこにあるものでも掴み取るものでもなく、二人で一緒に作っていくものだと僕は思います」
だから僕と結婚しませんか、キネフはオーレリアにしか聞こえないような小さな声で囁いた。
「そんなの、聞かれなくたってもう決まっていることで……」
言いかけて気づいた。
違うのだ。
この人はたぶん、今まで自分が出会ってきた人の誰とも違う。ハイアットは仮面の下の私を見つけてくれた。私の仮面を知らず知らずのうちに取り、そして自分の顔も見せてくれた。でも目の前にいるこの大柄で屈強な男の人は、はなから仮面などつけていないのだ。
オーレリアは覚悟を決めたように一度まばたきをし、一人下を向いてほほ笑んだ。決断することは何も辛いことばかりではない。そして皇子を見上げ、その手を握った。
「行きましょう、皇太子さま。宮殿へ帰ります。迎えに来てくださって、ありがとう」
その時突然、強い風が吹いた。慌ててドレスの裾を抑えるも、その隙に花が森の奥へと飛ばされてしまう。
「待って!」
伸ばした手は宙を掴み、花たちもどこかへ行ってしまった。森は、一瞬吹いた大風などなかったように、不気味なまでに元の静けさだ。
「困ったわ」
オーレリアは途方に暮れた声を出した。
「西ってどっちだったかしら」
落としてきた花びらはさっきの風で飛ばされてしまっただろうし、方角もわからない。辺りは顔もはっきりとは見えないほどの闇だ。うっすら月の光が木々の間から差し込むが、それが何かの役に立つ訳ではない。
オーレリアは内心冷や汗をびっしょりかいていた。
(やっと事態がうまく収まりそうなときにこれって! もう社交界デビューも終えたいい年した大人が迷子って!)
「森の案内ならこの私に」
パニックになっていたオーレリアはその声にぎょっとして今度こそ悲鳴をあげた。ついに妖精か、はたまた幽霊かに会ってしまったかと思ったのだ。だが、ぎゅっとつぶった瞳を恐る恐る開けてみると、そこにあったのはオーレリアを守るように前に立ち、剣を抜いた皇子の姿と、小さな影。顔をしかめながら両手をあげるあの小柄な国家庭師の少年だった。
「待って、その人は私の知り合いだわ」
慌てて皇子に説明すると、ニルはまるで宮殿の廊下で偶然鉢合わせたような気楽さで、「ごきげんよう」と礼をした。幽霊でも見ているような気持ちでオーレリアがニルを見ていると、「どうして森になんて入ったんだ?」と訊ねられた。
「本当の恋を見つけたかったのかも……」
オーレリアの答えに、頭が痛むとばかりにニルは苦い顔をしてみせた。
「……それで? その本当の恋とやらは見つかった?」
「ええ」
するとニルの背後の森から荒い息を吐きながらあのニルの友人の宮廷医が、そして松明を手にした近衛兵たちが続々とかけてきた。ニルの後を追って森へ入ってきたらしい。
「殿下、ご無事でしたか!」
小さな時から顔見知りの近衛隊長にローブをかけてもらい、温かいスープをもらう。馬にのせられながら、背を向けて歩き出そうとしたニルの服の裾を寸前で掴んだ。
「ねえ、最後に一つだけ教えて。手を離さなければよかったと後悔してる?」
「後悔なんかしてない。だって、一度離してしまっても、また手を握りに行けばいいんだ。何度だってそうすればいい」
「そう。貴方はそうするのね」
ふと前を見やると、ニルは松明も持たず、隊の先頭をまるで一人昼間のようにかけていた。木の根を飛び越え、枝の間をくぐり、時折立ち止まっては木や草、花に顔を近づける。
まるで、植物たちと会話でもするように。
「みなさーん、もうすぐみたいですよー!」
しばらく馬に揺られていると、ニルの後ろを必死に置いて行かれないように走っていた宮廷医が一向に向かって声を張り上げた。その声に身体を傾けてもう一度前を見ると、木々の隙間からちらちらと動くたくさんの赤い光が見えた。森の出口に大勢の人が待っている。
アレックスはいなかったものの、侍女のジェーンには少女時代ぶりとも言える大雷を落とされた。余りの剣幕に近衛隊長が抑えにかかるも、一週間葡萄酒の倉庫に閉じ込められそうな勢いだった。おいおいとすがって泣くジェーンにひたすら謝りながら、しかしオーレリアは全く別のことを考えていた。
「ねえ、ニル、あなたってもしかして……」
辺りを見回してもその人物の姿はもうなく、オーレリアはジェーンに聞こえないよう小さな声でそう呟いた。
すっかり春の陽気も落ち着いた。バンデンの街は本格的な社交シーズンの到来と半年後に行われるオーレリア第三皇女とギデンツ王子との結婚に浮足立っていた。たが平和な天気に安堵してばかりもいられない。すぐに六月の長雨やってくるだろう。
ニルがいつも通り植物庁の自分のディスクで仕事をしていると、聞き慣れたヒールの叩く音が聞こえた。読んでいた本から顔をあげると、フロアに人の気配がない。女王は相変わらず絶妙なタイミングでやってくる。
「妹の背中を押してくれたこと、感謝している。礼を言うぞ」
「……礼と言われましても。僕は殿下に命じられた通り、バル・サックスを渡すよう子爵に勧めただけです」
アレックスは相変わらず勝手に紅茶を入れ、定位置である長椅子に腰かけた。そして猫のような笑みでにっこりと唇を歪ませる。
「あの花は贈り物の花。贈られた者のところへと帰る花だ。そのことはお前も十分わかっていただろう? 私の庭師」
バルサックスは、一度贈られた相手から離れたとしてもその寿命がついえるまでに元のもらい主のもとへ帰ろうとする習性を持つ。だから花言葉は『愛への執着』。ハイアットが贈ったあの花も、初めのもらい主であるオーレリアのもとに再び戻ってきた。
人々の感情と共に贈られる花。オーレリアは受け取ったその花を返すことで初恋に別れを告げ、返した同じ花で新たな旅路を受け入れた。一体女王はどこまで事態を予期していたのか。考えるだけでニルは背中が寒くなった。
「赤大陸の植物には意志が宿る。実に面白い」
もっと欲しくなる、と当のアレックスは赤い舌を出して口の端を舐め、妖しげにほほ笑んだ。
「それで、褒美は何がいい」
「褒美なんて別に」
「いらんとは言わせないぞ。妹夫婦を嘆きの森から連れ帰ってくれたのはお前だからな」
「では今月の食費が厳しいので臨時ボーナスでも、と言いたいところですが」
ニルはここで一旦言葉を切り、
「――あの子はどこに?」
と顎をあげた。
そんなニルの顔を見て、一瞬女王の顔から色が消えた。鋭くとがった氷のつららのような眼光だが、ここでひるむ訳にはいかない。
だがそんな女王の表情も一瞬だった。すぐにフッと表情を緩ませる。
「本当にお前はあの娘が好きだねえ。だがいくらお前の頼みとはいえ、それは教えられないよ」
「食事はちゃんと与えていますか」
「もちろんさ。あの好き嫌いの多い偏食娘相手に、うちの世界一腕のいいコックの料理をふるまうのは癪だけどねえ。寝床も衣服も過不足なく与えてる。……まァ、あの娘が本当に欲しいただ一つのものだけは決して与えられはしないが」
そう言うとアレックスは立ち上がった。仕事に戻る、と短く言い置いて、扉から出ていく。
「すべては女王陛下のために。女王陛下に忠誠を」
「励めよ」
平服するニルの耳にはアレックスの低いヒールが床を叩く音が響き、やがて消えた。
Early love 了




