↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/3

第3話:伯爵とメイドは禁断の仲のようじゃ!



 王都郊外に建つベルフォード伯爵邸は、白い石造りの壮麗な屋敷だった。


 左右対称に並ぶ窓、手入れの行き届いた庭園、玄関へ続く馬車道。


 そのどれを取っても、名門貴族の邸宅にふさわしい威厳がある。


「ふむ。いかにも秘密が多そうな屋敷じゃのう」


 馬車の窓から屋敷を眺め、セシリア・アッシュフォードは満足げに頷いた。


「秘密が多そう、とは?」


 向かいに座る執事長エドガー・ブラックウッドが尋ねる。


「大きな屋敷には秘密がつきものじゃ。隠し通路、地下牢、開かずの間。そして、夜な夜な響く女のすすり泣き……」


「こちらは由緒ある伯爵家でございます」


「由緒ある家ほど秘密も由緒正しいのじゃ」


「秘密に由緒は必要ございません」


 エドガーは静かにため息をついた。


 昨日、探偵事務所に届いた一通の手紙。


 差出人は、ベルフォード伯爵夫人アデライン。


 厳重に施錠された書斎から、ある品物が消えたという。


 セシリアは手紙を受け取るなり、訪問を決めた。


 エドガーは最後まで反対したが、結局、こうして同行している。


「ところでエドガー」


「はい」


「そなた、この屋敷に何か思い出があるのではないか?」


「……なぜ、そのようなことを?」


「手紙を見たとき、顔色が変わったではないか」


「気のせいでございましょう」


「さては、昔の恋人がおるのじゃな?」


「おりません」


「まだ何も聞いておらぬぞ」


「すでにお聞きになりました」


「照れずともよい。恋に年齢は関係ないのじゃ」


「それは結構なことでございます」


 エドガーは窓の外へ視線を移した。


 この屋敷には、かつて仕事で何度か訪れたことがある。


 そのときの記憶は、あまり愉快なものではなかった。


 だが、それをお嬢様に説明すれば、さらに面倒な推理が始まることは目に見えている。


 黙っているのが最善だった。


 *


「ようこそお越しくださいました、アッシュフォード嬢」


 応接間で出迎えたのは、四十代半ばほどの伯爵夫人だった。


 栗色の髪を上品に結い上げ、深緑のドレスを身につけている。


 端正な顔立ちには疲労の色が浮かんでいたが、セシリアの姿を見ると、その表情がぱっと明るくなった。


「お待ちしておりましたわ!」


「うむ! わらわが名探偵セシリア・アッシュフォードじゃ!」


「お噂はかねがね伺っております」


「ほう。どのような噂じゃ?」


「独創的な推理をなさるけれど、必ず犯人を捕まえてくださるのだとか」


「うむ! そのとおりじゃ!」


 セシリアは得意げに胸を張った。


「先日の誘拐事件でも、見事に犯人を言い当てたそうですわね」


「当然じゃ! わらわにかかれば、犯人など隠れようがない!」


「まあ、頼もしいこと!」


 夫人は心から安堵したように微笑んだ。


「実を申しますと、警察に届けるべきか迷っておりましたの。けれど、主人の大切な品ですし、できれば大事にはしたくありませんでした」


「ふむ」


「そんな折、アッシュフォード嬢のお噂を耳にいたしまして。どんなに不可解な事件でも、最後には必ず犯人を見つけてくださると」


「うむうむ!」


「それなら、ぜひお願いしたいと思ったのです」


 夫人はセシリアの小さな手を両手で包んだ。


「どうか、主人の時計を取り戻してくださいませ。あなたなら、きっと解決してくださると信じております」


 セシリアは真剣な表情で頷いた。


「任せるのじゃ、夫人。わらわが必ず真相を暴いてみせよう!」


「ありがとうございます!」


 夫人の声には、もはや迷いがなかった。


 目の前にいるのが十二歳の少女であることなど、気にしていない様子だった。


 何しろ、誘拐事件を解決した名探偵なのだ。


 その推理が少々変わっているとしても、結果を出していることに違いはない。


 伯爵夫人は、今回の事件も必ず解決すると確信していた。


 エドガーだけが、静かに目を伏せた。


 犯人を当てることと、推理が正しいことは、必ずしも同じではない。


 その事実を、夫人はまだ知らないのである。


「それで、消えた品物とは何じゃ?」


「銀製の懐中時計です」


「時計?」


「ええ。主人が結婚前から大切にしている品で、蓋には私たちの婚約の日付が刻まれています」


「ほう……愛の記念品じゃな」


「そういうことになりますわね」


「それは重大事件じゃ!」


 セシリアは勢いよく立ち上がった。


「愛の記念品が消えたとなれば、愛にまつわる事件に違いない!」


「……盗難事件では?」


「盗難にも動機が必要じゃ。愛、憎しみ、嫉妬、金銭……」


「金銭も入るのですね」


「無論じゃ。恋愛小説でも、借金持ちの男は大抵ろくなことをせぬ」


 夫人は返答に困った。


 エドガーは黙って紅茶を口に運んだ。


「事件が起きたのは昨夜です」


 夫人は説明を始めた。


「主人は夕食の前、書斎の机に時計を置きました。その後、書斎を施錠して鍵を持ち歩いていたのです」


「ふむ」


「今朝、主人が書斎を開けると、時計がなくなっていました」


「窓は?」


「内側から掛け金が下りておりました」


「予備の鍵は?」


「ございません。以前、鍵を紛失しかけたことがありまして、主人が錠前ごと交換させたのです」


「使用人は?」


「誰も入っておりません」


「なぜ言い切れるのじゃ?」


「書斎へ続く廊下には、夜間も人の出入りがございます。扉が開けば、誰かが気づくはずです」


 セシリアは手帳に書き込んだ。


 そして顔を上げる。


「夫人。ひとつ尋ねたい」


「何でしょう?」


「夫君は、最近お若い女性に優しくしておらぬか?」


「…………はい?」


「妙に庇ったり、贈り物をしたり、二人きりで話したり」


 夫人の眉がわずかに動いた。


「……なぜ、そのようなことを?」


 セシリアの瞳が輝いた。


「おお!」


「何がおお、なのです?」


「心当たりがあるのじゃな!」


 夫人はしばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……実は、一人おります」


 エドガーの手が止まった。


 セシリアは身を乗り出す。


「詳しく聞かせるのじゃ!」


「若いメイドです。名前はリリー。まだ十九歳なのですが……」


「十九歳!」


「はい」


「伯爵は?」


「五十二歳です」


「三十三歳差!」


「計算がお早いですわね」


「愛に年齢差は関係ないのじゃ!」


「……何のお話を?」


 夫人は困惑した。


「その娘は、とにかく落ち着きがなくて困っておりますの」


「ほう」


「お茶を運べばこぼす。花瓶を磨けば割る。廊下を走って叱られる。先月など、お客様の前で転んで、銀盆ごと焼き菓子を飛ばしました」


「なかなかの腕前じゃな」


「褒めるところではございません」


「しかし、伯爵は庇うのであろう?」


「ええ。いつも『まだ若いのだから』と」


「ふむふむ」


「私は何度も解雇を進言しているのですが、主人が聞き入れてくれません」


「なるほどのう……」


 セシリアは深く頷いた。


 そして手帳に大きく書いた。


『伯爵、十九歳のメイドを寵愛』


 夫人が覗き込む。


「……寵愛?」


「いや、こちらの話じゃ」


「今、何と?」


「捜査上の秘密じゃ!」


 夫人はますます不思議そうな顔になった。


 *


 書斎は二階の東端にあった。


 重厚な樫の扉には真鍮の錠前が取り付けられ、廊下には深紅の絨毯が敷かれている。


 セシリアは扉の前にしゃがみ込んだ。


「エドガー。明かりを」


「かしこまりました」


 エドガーが携帯用の小さなランプを差し出す。


 セシリアは扉の下を覗き込んだ。


「ふむ……」


「何かございますか?」


「この扉、下に隙間があるのう」


「古い建物ですから」


「絨毯は扉の手前で途切れておる」


 セシリアは指先で床板をなぞった。


「ここだけ埃が薄い。それに、細い傷がついておる」


 エドガーも屈んだ。


 確かに、扉の下から廊下側へ向かって、細い線が一本延びていた。


「お嬢様、よくお気づきになりましたね」


「名探偵に見落としはないのじゃ」


 セシリアは立ち上がり、書斎へ入った。


 大きな窓の下には低い飾り棚があり、壁際には書棚が並ぶ。


 中央の机には書類と筆記具が整然と置かれていた。


「時計はどこにあったのじゃ?」


 夫人が机の端を指さす。


「こちらの小さな銀盆の上です」


 セシリアは盆を持ち上げた。


 底には薄い埃がついている。


 机の上には、盆を動かした跡が残っていた。


「時計は、普段からここに?」


「ええ。主人は帰宅すると、必ずこの盆に置きます」


「昨夜も?」


「主人はそう申しております」


 セシリアは盆を元に戻した。


 そして机の脚を調べ、床に目を凝らす。


「……妙じゃのう」


「何がでしょう?」


「机の下に、赤い糸が落ちておる」


 セシリアは細い糸くずを拾い上げた。


「赤い糸……」


 夫人が首を傾げる。


「書斎には赤い布などございませんけれど」


「ふむ」


 セシリアは糸を手帳に挟んだ。


 次に、机の上にあった紙片を手に取る。


 紙片には、丸い輪のような鉛筆の跡があった。


「これは?」


「主人が書類を整理した際の紙でしょう」


「……なるほど」


 セシリアは頷いた。


 ただし、何がなるほどなのかは誰にもわからなかった。


「夫人。ひとつお願いがあるのじゃ」


「何でしょう?」


「伯爵本人にも話を聞きたい。時計を最後に見たのは伯爵なのであろう?」


「ええ。主人は今朝から、執務室で商談をしておりますの。そろそろ終わる頃だと思いますわ」


「では、案内してもらおう」


「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」


 夫人は廊下に控えていた使用人に声をかけた。


 ほどなくして、商談が終わったとの知らせが届いた。


「主人がお会いするそうですわ。こちらへどうぞ」


 セシリアは手帳を閉じ、エドガーとともに夫人の後について歩き出した。


 *


 伯爵エドワード・ベルフォードは、一階の執務室で一行を迎えた。


 白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた、威厳のある男だった。


 机の上には商談で使ったらしい書類が積まれている。


「君が探偵か」


「うむ!」


「……随分と若いな」


「十二歳じゃ!」


「十二歳!?」


「年齢で人を判断するのは感心せぬぞ、伯爵」


「いや、そういう問題では……」


 伯爵はエドガーを見た。


「ブラックウッド君。君まで一緒とは珍しい」


「ご無沙汰しております、閣下」


「アッシュフォード家は相変わらず賑やかなようだな」


「……おかげさまで」


 伯爵は苦笑した。


 セシリアは二人の顔を交互に見た。


「そなたたち、知り合いなのか?」


「以前、少し仕事でね」


 伯爵が答える。


「ほう……」


 セシリアは目を細めた。


 エドガーは嫌な予感がした。


「それで伯爵」


「何だね?」


「リリーというメイドを、随分と可愛がっておるそうじゃな?」


 伯爵の表情が曇った。


「……妻が何か言ったのか」


「言ったとも」


「まったく、あれは困ったものだ」


「ほう!」


「リリーは失敗が多い。私も承知している」


「それでも解雇せぬ?」


「事情があるのだ」


 セシリアは手帳を開いた。


「聞こうではないか」


「彼女の父親は、私の古い友人でね。商人として成功した男だ。若いころから世話になっている」


「ふむ」


「娘に社会勉強をさせたいと頼まれ、屋敷で預かったのだよ」


「なるほど」


「だから、多少の失敗は大目に見てやりたいのだ」


 セシリアは静かに頷いた。


「……見事な口実じゃ」


「何?」


「いや、こちらの話じゃ」


「今、口実と言わなかったか?」


「気のせいじゃ!」


 伯爵は眉をひそめた。


「私はあの子の父親に顔向けできなくなるようなことはしたくない」


「ほう……父親への義理を重んじるのじゃな」


「当然だ」


「では、夫人への義理は?」


「……何の話だ?」


「そなた、妻を愛しておるか?」


「無論だ」


「では、若いメイドへの愛はどうするのじゃ!」


「何の愛だ!?」


「隠さずともよい!」


「隠すものがない!」


「三十三歳差の恋は、世間の風当たりも強かろう!」


「私はあの娘を恋愛対象として見たことなどない!」


「そう言わねばならぬ立場なのじゃな……」


「人の話を聞きなさい!」


 伯爵の声が書斎に響いた。


 エドガーは静かに目を閉じた。


 まだ調査開始から一時間も経っていない。


 すでに屋敷の主人を怒らせてしまった。


 *


 問題のメイド、リリー・ハーパーは、厨房にいた。


 金茶色の髪を三つ編みにした、そばかすのある少女だった。


 小柄で愛嬌のある顔立ちをしているが、動きには落ち着きがない。


「あなたが探偵さんですか!?」


 リリーは目を輝かせた。


「本物の探偵さん! すごい! 初めて見ました!」


「うむ! わらわが名探偵セシリアじゃ!」


「わあ! 可愛い!」


「可愛いではない。名探偵じゃ!」


「可愛い名探偵さん!」


「……まあ、それならよい」


 エドガーは小さく咳払いした。


「リリーさん。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」


「はい! 何でも聞いてください!」


 リリーは勢いよく頷いた。


 その拍子に肘が棚へ当たり、積まれていた皿が揺れた。


「危ない!」


 エドガーが咄嗟に皿を押さえる。


「あっ、すみません!」


「……普段からこの調子なのか?」


 セシリアが尋ねた。


「はい!」


「胸を張ることではございません」


 エドガーが訂正した。


 セシリアはリリーの手元を見た。


 指には小さな赤い糸くずが付着している。


 さらに、エプロンのポケットから赤いリボンが覗いていた。


「そなた、裁縫をしておったのか?」


「えっ?」


 リリーは慌ててポケットを押さえた。


「い、いえ! 何でもありません!」


「ふむ……」


「本当に何でもありません!」


「まだ何も疑っておらぬぞ」


「そ、そうですよね!」


 リリーは笑った。


 笑い方が少し不自然だった。


 セシリアは見逃さなかった。


「昨夜、どこにおった?」


「厨房です!」


「ずっとか?」


「ええと……途中で廊下に出ました」


「何のためじゃ?」


「ちょっと用事が……」


「何の用事じゃ?」


「ええと……その……」


 リリーは視線を泳がせた。


「秘密です!」


 セシリアの瞳が輝いた。


「秘密!」


「はい!」


「誰にも言えぬ秘密なのじゃな!」


「そうなんです!」


「伯爵にも?」


「旦那様にも内緒です!」


 セシリアは息を呑んだ。


 そして、ゆっくりとエドガーを振り返った。


「……聞いたか?」


「聞いております」


「伯爵にも内緒の秘密があるそうじゃ」


「そのようでございますね」


「これは複雑な恋愛関係じゃのう……」


「まだ恋愛とは決まっておりません」


「そなたは慎重すぎるのじゃ」


「お嬢様が慎重でなさすぎるのでございます」


 リリーは首を傾げた。


「恋愛?」


「うむ。そなた、伯爵を愛しておるのじゃな?」


「はい! 大好きです!」


 エドガーが固まった。


 セシリアは勝ち誇った顔をした。


「やはり!」


「旦那様、とっても優しいんです! 私が失敗しても、いつも庇ってくださって!」


「ふむふむ」


「奥様も本当は優しい方なんですけど、私にはちょっと厳しくて……」


「恋敵には厳しくなるものじゃ」


「恋敵?」


「気にするでない」


「はあ……」


 リリーは不思議そうな顔をした。


 セシリアはさらに尋ねた。


「そなた、伯爵夫妻の結婚記念日を知っておるか?」


「もちろんです!」


「ほう」


「明日です!」


「明日!」


 セシリアは手帳を開いた。


 赤い糸。


 秘密の用事。


 伯爵への愛情。


 夫人への遠慮。


 そして、結婚記念日。


 すべてが一つに繋がった。


 少なくとも、セシリアの頭の中では。


「……なるほどのう」


「何かわかったんですか?」


「うむ」


 セシリアは深刻な顔で頷いた。


「そなたは、明日という日を待ち望んでおったのじゃな」


「はい!」


「そして、伯爵夫妻に関わる何かを企んでおる」


「えっ!?」


 リリーの顔色が変わった。


「ど、どうしてそれを!?」


「名探偵だからじゃ!」


「すごい……!」


 リリーは心底感心した様子だった。


 エドガーは嫌な予感しかしなかった。


 *


 セシリアは再び書斎へ戻った。


 今度は、扉を閉めて調べ始めた。


「エドガー。扉の下を見よ」


「はい」


「この隙間、銀の懐中時計が通ると思うか?」


「時計の厚みによるかと」


「ふむ」


 セシリアは自分の小さな懐中時計を取り出した。


 床に置き、扉の下へ滑らせる。


 時計は途中で引っかかった。


「通らぬのう」


「そのようでございます」


「では、なぜ床に傷がある?」


 エドガーは扉の下を見た。


「……何かを引きずった跡のようにも見えます」


「うむ」


 セシリアは廊下側へ回り、床を調べた。


 扉の下には、古い木製の敷居がある。


 その一部だけ、わずかに削れていた。


「……ほう」


 セシリアは指先で敷居を押した。


 小さな木片が動いた。


「エドガー!」


「はい?」


「ここ、外れるぞ!」


 エドガーが屈み込む。


 敷居の一部は、古い修繕の際に取り付けられた薄い板だった。


 固定が緩み、持ち上げると扉の下に大きな隙間ができる。


「これは……」


「時計が通るのう!」


「確かに」


 セシリアは目を輝かせた。


「密室の謎が解けたぞ!」


「お見事でございます」


「ふふん!」


 セシリアは胸を張った。


「つまり、犯人は扉を開けずに時計を取り出したのじゃ!」


「その可能性は高いかと」


「そして、そのためには糸が必要じゃ!」


「……先ほどの赤い糸でございますね」


「うむ!」


 セシリアは書斎の机を見た。


 銀盆の位置。


 床の傷。


 扉の下の隙間。


 赤い糸。


 リリーのエプロン。


 すべての証拠が、ひとつの人物を指していた。


「……犯人はわかった」


 セシリアは静かに言った。


 エドガーは安堵した。


 今度こそ、まともな推理が聞けるかもしれない。


 しかし。


「動機も、すべてわかったのじゃ!」


 エドガーの安堵は、一瞬で消えた。


 *


 午後三時。


 伯爵夫妻、リリー、エドガーが応接間に集められた。


 セシリアは暖炉の前に立ち、全員を見渡した。


「諸君!」


 伯爵が眉をひそめた。


「諸君?」


「これより、密室盗難事件の真相を明らかにするのじゃ!」


「もうわかったのか?」


「無論じゃ!」


 セシリアは自信満々に頷いた。


「まず、この事件は密室などではなかった!」


 夫人が息を呑む。


「どういうことですの?」


「犯人は扉を開けておらぬ。時計だけを外へ運び出したのじゃ」


 セシリアは敷居の緩んだ板について説明した。


 さらに、時計を糸で引き寄せれば扉の下から取り出せることを示した。


 伯爵は驚いた顔をした。


「……なるほど。そんな方法が」


「机の上に残った跡、床の傷、赤い糸。すべてがその方法を示しておった」


 セシリアは満足げに頷いた。


 夫人も感心した様子だった。


「では、犯人は……?」


 セシリアはゆっくりと腕を上げた。


 その指先が、リリーを捉える。


「そなたじゃ!」


「ひゃっ!?」


 リリーが飛び上がった。


「そなたが時計を持ち出したのじゃな!」


「ど、どうして……!」


 リリーの顔から血の気が引いた。


 伯爵が立ち上がる。


「リリー、本当なのか?」


「そ、それは……」


「隠しても無駄じゃ!」


 セシリアは一歩踏み出した。


「わらわは、そなたの動機まで見抜いておる!」


 リリーが目を見開いた。


「えっ!?」


「そなたは伯爵を愛しておる!」


「は、はい……?」


「しかし、伯爵には妻がおる!」


「はい?」


「そこでそなたは、結婚記念日を前に、二人の愛の記念品を奪ったのじゃ!」


 伯爵が固まった。


 夫人も固まった。


 リリーは口を開けたまま動かなかった。


 セシリアはさらに続ける。


「つまり、そなたは伯爵夫妻の愛の象徴を消し去ることで、二人の仲を引き裂こうとしたのじゃ!」


「…………」


「そして、いずれは自分が伯爵夫人の座に収まろうと!」


「ち、違いますうううう!!」


 リリーの悲鳴が応接間に響いた。


「私、そんなこと考えてません!!」


「隠さずともよい!」


「隠してません!!」


「伯爵を愛しておると言ったではないか!」


「尊敬してるって意味です!!」


「では、時計を持ち出した理由は何じゃ!」


「結婚記念日のサプライズですううう!!」


 沈黙。


 暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


「……サプライズ?」


 セシリアが聞き返した。


「はい……」


 リリーは涙目になって頷いた。


「明日は旦那様と奥様の結婚二十五周年なんです……」


 伯爵夫人が小さく息を呑んだ。


「……銀婚式」


「はい!」


 リリーは鼻をすすった。


「だから、何か特別なお祝いをしたくて……」


「それで、なぜ時計を盗んだのじゃ?」


「盗んでません! ちょっとお借りしただけです!」


「無断で持ち出せば盗難じゃ」


「うう……」


 リリーは肩を落とした。


「時計の蓋に刻まれている日付を、銀細工師さんに見せたかったんです」


「日付?」


「はい。旦那様と奥様のお名前と、婚約の日付が入っているでしょう?」


 伯爵が頷いた。


「ああ」


「同じ文字を入れた記念の銀皿を作ってもらおうと思って……」


 夫人が目を丸くした。


「銀皿?」


「はい! お二人のお名前と日付を入れて、真ん中にお花を彫ってもらうんです!」


「……それは、随分と手の込んだことを」


「でも、文字を写し間違えたら大変だから、時計を見せようと思って……」


 セシリアが首を傾げた。


「紙に書き写せばよかったのではないか?」


「…………」


 リリーは固まった。


「……あっ」


 伯爵が額を押さえた。


 夫人は天井を仰いだ。


 エドガーは目を閉じた。


「それに、なぜ扉の下から取り出したのじゃ?」


 セシリアが尋ねる。


「だって、書斎には鍵がかかっていたんです!」


「うむ」


「でも、旦那様の時計が欲しくて……」


「うむ」


「扉の下に隙間があるのを見つけて、赤いリボンを輪にして引っ張れば取れるかなって!」


「……よく思いついたのう」


「ありがとうございます!」


「褒めておらぬ!」


 リリーはしゅんとした。


「時計は今どこにあるのです?」


 夫人が尋ねた。


「私の部屋です……。今朝、銀細工師さんに持っていくつもりだったんですけど、奥様が盗難だって大騒ぎになって……」


「それなら、すぐに名乗り出ればよかったでしょう!」


「怒られると思って……」


「今のほうがよほど怒っています!」


「ごもっともですううう!」


 リリーはその場で泣き崩れた。


 伯爵は深いため息をついた。


「……まったく。何ということだ」


「旦那様、ごめんなさい……」


「君の気持ちはありがたい。しかし、勝手に人の持ち物を持ち出してはいけない」


「はい……」


「それに、書斎の敷居を壊したのか?」


「ちょっとだけ……」


「ちょっとではない!」


「はいぃ……」


 伯爵夫人は、しばらくリリーを見つめていた。


 そして、静かに口を開いた。


「リリー」


「は、はい……」


「あなたが私たちの結婚記念日を祝おうとしてくれたことは、嬉しく思います」


 リリーが顔を上げた。


「奥様……」


「ですが」


 夫人の声が低くなった。


「仕事を放り出して準備をし、主人の大切な時計を無断で持ち出し、屋敷中を大騒ぎにしたことは、決して許されません」


「……はい」


「それから、銀皿の代金は?」


「……まだ払ってません」


「どこから出すつもりだったのです?」


「……お給金を、少しずつ……」


 夫人はため息をついた。


「まずは、自分の仕事をきちんと覚えなさい」


「はい……」


「お祝いは、それからです」


 リリーは何度も頷いた。


 伯爵が夫人に向き直る。


「アデライン。私からも謝ろう。彼女を甘やかしすぎた」


「……ようやく認めてくださいましたのね」


「ああ」


 伯爵は苦笑した。


「友人の娘だからと、つい大目に見てしまった」


「それでは、あの子のためにもなりませんわ」


「そのとおりだ」


 二人は顔を見合わせた。


 そして、ようやく小さく笑った。


 *


 事件は解決した。


 懐中時計は無事に戻り、密室の謎も解けた。


 伯爵夫妻はセシリアに礼を述べ、謝礼を渡した。


「見事な推理だったよ、セシリア嬢」


 伯爵が言った。


「うむ! 当然じゃ!」


「まさか、扉の下から時計を取り出していたとは」


「ふふん!」


「しかし……」


 伯爵は少し言いにくそうに続けた。


「私とリリーが恋仲だという話は、いったいどこから出てきたのだね?」


 セシリアは胸を張った。


「そなたが彼女を庇っておったからじゃ!」


「友人の娘だからだと説明しただろう!」


「愛人を庇う男も、同じことを言うものじゃ」


「私は愛人を持ったことがない!」


「経験がないのに、なぜわかるのじゃ?」


「自分のことだからだ!!」


 夫人が思わず吹き出した。


 エドガーは口元を押さえた。


 セシリアは不思議そうに首を傾げた。


「しかし、今回も愛が事件の鍵であったのう」


「……まあ、そうかもしれんな」


 伯爵は苦笑した。


「リリーは私たちを祝おうとしてくれたのだから」


「うむ!」


 セシリアは満足げに頷いた。


「やはり、わらわの推理は正しかったのじゃ!」


「そこは違うと思うがね」


「細かいことを気にする男は嫌われるぞ、伯爵」


「君に結婚生活を説かれるとは思わなかったよ!」


 *


 帰りの馬車。


 セシリアは窓の外を眺めながら、満足げに微笑んでいた。


「今日もまた、見事に事件を解決したのう」


「左様でございますね」


「密室の仕掛けを暴き、犯人を見つけ、伯爵夫妻の愛まで守ったのじゃ」


「最後の一つは、特に何もなさっておりませんが」


「謙遜するでない」


「私が謙遜する理由はございません」


 セシリアは腕を組んだ。


「しかし、ひとつだけ気になることがある」


「何でございましょう?」


「そなた、伯爵と昔から知り合いなのであろう?」


「はい」


「では、やはりこの屋敷には、そなたの昔の恋人が……」


「おりません」


「最後まで言わせるのじゃ!」


「結論がわかっておりますので」


 セシリアは頬を膨らませた。


「まったく、そなたは秘密が多いのう」


 エドガーは静かに微笑んだ。


「お嬢様ほどではございません」


「わらわに秘密などないぞ?」


「……それは、存じております」


 馬車が石畳を進んでいく。


 エドガーは懐から小さな封筒を取り出した。


 伯爵から、帰り際にそっと渡されたものだった。


 封筒には、古い筆跡で短い言葉が記されている。


『あの件について、いずれ話をしたい』


 エドガーはしばらく封筒を見つめた。


 そして、何事もなかったように懐へ戻した。


「エドガー!」


「はい?」


「次の事件は、いつ来るかのう!」


「できれば、しばらく来ないことを願っております」


「何を言う! 名探偵に休息は不要じゃ!」


「私は必要でございます」


 セシリアは楽しそうに笑った。


 その隣で、老執事は静かにため息をついた。


 こうして、名探偵セシリア・アッシュフォードは、また一つ事件を解決した。


 犯人は正解。


 密室の仕掛けも正解。


 ただし、動機だけは、今回も盛大に間違っていた。


 本人は、最後まで気づかなかった。


 第三話 完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。