第3話:伯爵とメイドは禁断の仲のようじゃ!
王都郊外に建つベルフォード伯爵邸は、白い石造りの壮麗な屋敷だった。
左右対称に並ぶ窓、手入れの行き届いた庭園、玄関へ続く馬車道。
そのどれを取っても、名門貴族の邸宅にふさわしい威厳がある。
「ふむ。いかにも秘密が多そうな屋敷じゃのう」
馬車の窓から屋敷を眺め、セシリア・アッシュフォードは満足げに頷いた。
「秘密が多そう、とは?」
向かいに座る執事長エドガー・ブラックウッドが尋ねる。
「大きな屋敷には秘密がつきものじゃ。隠し通路、地下牢、開かずの間。そして、夜な夜な響く女のすすり泣き……」
「こちらは由緒ある伯爵家でございます」
「由緒ある家ほど秘密も由緒正しいのじゃ」
「秘密に由緒は必要ございません」
エドガーは静かにため息をついた。
昨日、探偵事務所に届いた一通の手紙。
差出人は、ベルフォード伯爵夫人アデライン。
厳重に施錠された書斎から、ある品物が消えたという。
セシリアは手紙を受け取るなり、訪問を決めた。
エドガーは最後まで反対したが、結局、こうして同行している。
「ところでエドガー」
「はい」
「そなた、この屋敷に何か思い出があるのではないか?」
「……なぜ、そのようなことを?」
「手紙を見たとき、顔色が変わったではないか」
「気のせいでございましょう」
「さては、昔の恋人がおるのじゃな?」
「おりません」
「まだ何も聞いておらぬぞ」
「すでにお聞きになりました」
「照れずともよい。恋に年齢は関係ないのじゃ」
「それは結構なことでございます」
エドガーは窓の外へ視線を移した。
この屋敷には、かつて仕事で何度か訪れたことがある。
そのときの記憶は、あまり愉快なものではなかった。
だが、それをお嬢様に説明すれば、さらに面倒な推理が始まることは目に見えている。
黙っているのが最善だった。
*
「ようこそお越しくださいました、アッシュフォード嬢」
応接間で出迎えたのは、四十代半ばほどの伯爵夫人だった。
栗色の髪を上品に結い上げ、深緑のドレスを身につけている。
端正な顔立ちには疲労の色が浮かんでいたが、セシリアの姿を見ると、その表情がぱっと明るくなった。
「お待ちしておりましたわ!」
「うむ! わらわが名探偵セシリア・アッシュフォードじゃ!」
「お噂はかねがね伺っております」
「ほう。どのような噂じゃ?」
「独創的な推理をなさるけれど、必ず犯人を捕まえてくださるのだとか」
「うむ! そのとおりじゃ!」
セシリアは得意げに胸を張った。
「先日の誘拐事件でも、見事に犯人を言い当てたそうですわね」
「当然じゃ! わらわにかかれば、犯人など隠れようがない!」
「まあ、頼もしいこと!」
夫人は心から安堵したように微笑んだ。
「実を申しますと、警察に届けるべきか迷っておりましたの。けれど、主人の大切な品ですし、できれば大事にはしたくありませんでした」
「ふむ」
「そんな折、アッシュフォード嬢のお噂を耳にいたしまして。どんなに不可解な事件でも、最後には必ず犯人を見つけてくださると」
「うむうむ!」
「それなら、ぜひお願いしたいと思ったのです」
夫人はセシリアの小さな手を両手で包んだ。
「どうか、主人の時計を取り戻してくださいませ。あなたなら、きっと解決してくださると信じております」
セシリアは真剣な表情で頷いた。
「任せるのじゃ、夫人。わらわが必ず真相を暴いてみせよう!」
「ありがとうございます!」
夫人の声には、もはや迷いがなかった。
目の前にいるのが十二歳の少女であることなど、気にしていない様子だった。
何しろ、誘拐事件を解決した名探偵なのだ。
その推理が少々変わっているとしても、結果を出していることに違いはない。
伯爵夫人は、今回の事件も必ず解決すると確信していた。
エドガーだけが、静かに目を伏せた。
犯人を当てることと、推理が正しいことは、必ずしも同じではない。
その事実を、夫人はまだ知らないのである。
「それで、消えた品物とは何じゃ?」
「銀製の懐中時計です」
「時計?」
「ええ。主人が結婚前から大切にしている品で、蓋には私たちの婚約の日付が刻まれています」
「ほう……愛の記念品じゃな」
「そういうことになりますわね」
「それは重大事件じゃ!」
セシリアは勢いよく立ち上がった。
「愛の記念品が消えたとなれば、愛にまつわる事件に違いない!」
「……盗難事件では?」
「盗難にも動機が必要じゃ。愛、憎しみ、嫉妬、金銭……」
「金銭も入るのですね」
「無論じゃ。恋愛小説でも、借金持ちの男は大抵ろくなことをせぬ」
夫人は返答に困った。
エドガーは黙って紅茶を口に運んだ。
「事件が起きたのは昨夜です」
夫人は説明を始めた。
「主人は夕食の前、書斎の机に時計を置きました。その後、書斎を施錠して鍵を持ち歩いていたのです」
「ふむ」
「今朝、主人が書斎を開けると、時計がなくなっていました」
「窓は?」
「内側から掛け金が下りておりました」
「予備の鍵は?」
「ございません。以前、鍵を紛失しかけたことがありまして、主人が錠前ごと交換させたのです」
「使用人は?」
「誰も入っておりません」
「なぜ言い切れるのじゃ?」
「書斎へ続く廊下には、夜間も人の出入りがございます。扉が開けば、誰かが気づくはずです」
セシリアは手帳に書き込んだ。
そして顔を上げる。
「夫人。ひとつ尋ねたい」
「何でしょう?」
「夫君は、最近お若い女性に優しくしておらぬか?」
「…………はい?」
「妙に庇ったり、贈り物をしたり、二人きりで話したり」
夫人の眉がわずかに動いた。
「……なぜ、そのようなことを?」
セシリアの瞳が輝いた。
「おお!」
「何がおお、なのです?」
「心当たりがあるのじゃな!」
夫人はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……実は、一人おります」
エドガーの手が止まった。
セシリアは身を乗り出す。
「詳しく聞かせるのじゃ!」
「若いメイドです。名前はリリー。まだ十九歳なのですが……」
「十九歳!」
「はい」
「伯爵は?」
「五十二歳です」
「三十三歳差!」
「計算がお早いですわね」
「愛に年齢差は関係ないのじゃ!」
「……何のお話を?」
夫人は困惑した。
「その娘は、とにかく落ち着きがなくて困っておりますの」
「ほう」
「お茶を運べばこぼす。花瓶を磨けば割る。廊下を走って叱られる。先月など、お客様の前で転んで、銀盆ごと焼き菓子を飛ばしました」
「なかなかの腕前じゃな」
「褒めるところではございません」
「しかし、伯爵は庇うのであろう?」
「ええ。いつも『まだ若いのだから』と」
「ふむふむ」
「私は何度も解雇を進言しているのですが、主人が聞き入れてくれません」
「なるほどのう……」
セシリアは深く頷いた。
そして手帳に大きく書いた。
『伯爵、十九歳のメイドを寵愛』
夫人が覗き込む。
「……寵愛?」
「いや、こちらの話じゃ」
「今、何と?」
「捜査上の秘密じゃ!」
夫人はますます不思議そうな顔になった。
*
書斎は二階の東端にあった。
重厚な樫の扉には真鍮の錠前が取り付けられ、廊下には深紅の絨毯が敷かれている。
セシリアは扉の前にしゃがみ込んだ。
「エドガー。明かりを」
「かしこまりました」
エドガーが携帯用の小さなランプを差し出す。
セシリアは扉の下を覗き込んだ。
「ふむ……」
「何かございますか?」
「この扉、下に隙間があるのう」
「古い建物ですから」
「絨毯は扉の手前で途切れておる」
セシリアは指先で床板をなぞった。
「ここだけ埃が薄い。それに、細い傷がついておる」
エドガーも屈んだ。
確かに、扉の下から廊下側へ向かって、細い線が一本延びていた。
「お嬢様、よくお気づきになりましたね」
「名探偵に見落としはないのじゃ」
セシリアは立ち上がり、書斎へ入った。
大きな窓の下には低い飾り棚があり、壁際には書棚が並ぶ。
中央の机には書類と筆記具が整然と置かれていた。
「時計はどこにあったのじゃ?」
夫人が机の端を指さす。
「こちらの小さな銀盆の上です」
セシリアは盆を持ち上げた。
底には薄い埃がついている。
机の上には、盆を動かした跡が残っていた。
「時計は、普段からここに?」
「ええ。主人は帰宅すると、必ずこの盆に置きます」
「昨夜も?」
「主人はそう申しております」
セシリアは盆を元に戻した。
そして机の脚を調べ、床に目を凝らす。
「……妙じゃのう」
「何がでしょう?」
「机の下に、赤い糸が落ちておる」
セシリアは細い糸くずを拾い上げた。
「赤い糸……」
夫人が首を傾げる。
「書斎には赤い布などございませんけれど」
「ふむ」
セシリアは糸を手帳に挟んだ。
次に、机の上にあった紙片を手に取る。
紙片には、丸い輪のような鉛筆の跡があった。
「これは?」
「主人が書類を整理した際の紙でしょう」
「……なるほど」
セシリアは頷いた。
ただし、何がなるほどなのかは誰にもわからなかった。
「夫人。ひとつお願いがあるのじゃ」
「何でしょう?」
「伯爵本人にも話を聞きたい。時計を最後に見たのは伯爵なのであろう?」
「ええ。主人は今朝から、執務室で商談をしておりますの。そろそろ終わる頃だと思いますわ」
「では、案内してもらおう」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
夫人は廊下に控えていた使用人に声をかけた。
ほどなくして、商談が終わったとの知らせが届いた。
「主人がお会いするそうですわ。こちらへどうぞ」
セシリアは手帳を閉じ、エドガーとともに夫人の後について歩き出した。
*
伯爵エドワード・ベルフォードは、一階の執務室で一行を迎えた。
白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけた、威厳のある男だった。
机の上には商談で使ったらしい書類が積まれている。
「君が探偵か」
「うむ!」
「……随分と若いな」
「十二歳じゃ!」
「十二歳!?」
「年齢で人を判断するのは感心せぬぞ、伯爵」
「いや、そういう問題では……」
伯爵はエドガーを見た。
「ブラックウッド君。君まで一緒とは珍しい」
「ご無沙汰しております、閣下」
「アッシュフォード家は相変わらず賑やかなようだな」
「……おかげさまで」
伯爵は苦笑した。
セシリアは二人の顔を交互に見た。
「そなたたち、知り合いなのか?」
「以前、少し仕事でね」
伯爵が答える。
「ほう……」
セシリアは目を細めた。
エドガーは嫌な予感がした。
「それで伯爵」
「何だね?」
「リリーというメイドを、随分と可愛がっておるそうじゃな?」
伯爵の表情が曇った。
「……妻が何か言ったのか」
「言ったとも」
「まったく、あれは困ったものだ」
「ほう!」
「リリーは失敗が多い。私も承知している」
「それでも解雇せぬ?」
「事情があるのだ」
セシリアは手帳を開いた。
「聞こうではないか」
「彼女の父親は、私の古い友人でね。商人として成功した男だ。若いころから世話になっている」
「ふむ」
「娘に社会勉強をさせたいと頼まれ、屋敷で預かったのだよ」
「なるほど」
「だから、多少の失敗は大目に見てやりたいのだ」
セシリアは静かに頷いた。
「……見事な口実じゃ」
「何?」
「いや、こちらの話じゃ」
「今、口実と言わなかったか?」
「気のせいじゃ!」
伯爵は眉をひそめた。
「私はあの子の父親に顔向けできなくなるようなことはしたくない」
「ほう……父親への義理を重んじるのじゃな」
「当然だ」
「では、夫人への義理は?」
「……何の話だ?」
「そなた、妻を愛しておるか?」
「無論だ」
「では、若いメイドへの愛はどうするのじゃ!」
「何の愛だ!?」
「隠さずともよい!」
「隠すものがない!」
「三十三歳差の恋は、世間の風当たりも強かろう!」
「私はあの娘を恋愛対象として見たことなどない!」
「そう言わねばならぬ立場なのじゃな……」
「人の話を聞きなさい!」
伯爵の声が書斎に響いた。
エドガーは静かに目を閉じた。
まだ調査開始から一時間も経っていない。
すでに屋敷の主人を怒らせてしまった。
*
問題のメイド、リリー・ハーパーは、厨房にいた。
金茶色の髪を三つ編みにした、そばかすのある少女だった。
小柄で愛嬌のある顔立ちをしているが、動きには落ち着きがない。
「あなたが探偵さんですか!?」
リリーは目を輝かせた。
「本物の探偵さん! すごい! 初めて見ました!」
「うむ! わらわが名探偵セシリアじゃ!」
「わあ! 可愛い!」
「可愛いではない。名探偵じゃ!」
「可愛い名探偵さん!」
「……まあ、それならよい」
エドガーは小さく咳払いした。
「リリーさん。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「はい! 何でも聞いてください!」
リリーは勢いよく頷いた。
その拍子に肘が棚へ当たり、積まれていた皿が揺れた。
「危ない!」
エドガーが咄嗟に皿を押さえる。
「あっ、すみません!」
「……普段からこの調子なのか?」
セシリアが尋ねた。
「はい!」
「胸を張ることではございません」
エドガーが訂正した。
セシリアはリリーの手元を見た。
指には小さな赤い糸くずが付着している。
さらに、エプロンのポケットから赤いリボンが覗いていた。
「そなた、裁縫をしておったのか?」
「えっ?」
リリーは慌ててポケットを押さえた。
「い、いえ! 何でもありません!」
「ふむ……」
「本当に何でもありません!」
「まだ何も疑っておらぬぞ」
「そ、そうですよね!」
リリーは笑った。
笑い方が少し不自然だった。
セシリアは見逃さなかった。
「昨夜、どこにおった?」
「厨房です!」
「ずっとか?」
「ええと……途中で廊下に出ました」
「何のためじゃ?」
「ちょっと用事が……」
「何の用事じゃ?」
「ええと……その……」
リリーは視線を泳がせた。
「秘密です!」
セシリアの瞳が輝いた。
「秘密!」
「はい!」
「誰にも言えぬ秘密なのじゃな!」
「そうなんです!」
「伯爵にも?」
「旦那様にも内緒です!」
セシリアは息を呑んだ。
そして、ゆっくりとエドガーを振り返った。
「……聞いたか?」
「聞いております」
「伯爵にも内緒の秘密があるそうじゃ」
「そのようでございますね」
「これは複雑な恋愛関係じゃのう……」
「まだ恋愛とは決まっておりません」
「そなたは慎重すぎるのじゃ」
「お嬢様が慎重でなさすぎるのでございます」
リリーは首を傾げた。
「恋愛?」
「うむ。そなた、伯爵を愛しておるのじゃな?」
「はい! 大好きです!」
エドガーが固まった。
セシリアは勝ち誇った顔をした。
「やはり!」
「旦那様、とっても優しいんです! 私が失敗しても、いつも庇ってくださって!」
「ふむふむ」
「奥様も本当は優しい方なんですけど、私にはちょっと厳しくて……」
「恋敵には厳しくなるものじゃ」
「恋敵?」
「気にするでない」
「はあ……」
リリーは不思議そうな顔をした。
セシリアはさらに尋ねた。
「そなた、伯爵夫妻の結婚記念日を知っておるか?」
「もちろんです!」
「ほう」
「明日です!」
「明日!」
セシリアは手帳を開いた。
赤い糸。
秘密の用事。
伯爵への愛情。
夫人への遠慮。
そして、結婚記念日。
すべてが一つに繋がった。
少なくとも、セシリアの頭の中では。
「……なるほどのう」
「何かわかったんですか?」
「うむ」
セシリアは深刻な顔で頷いた。
「そなたは、明日という日を待ち望んでおったのじゃな」
「はい!」
「そして、伯爵夫妻に関わる何かを企んでおる」
「えっ!?」
リリーの顔色が変わった。
「ど、どうしてそれを!?」
「名探偵だからじゃ!」
「すごい……!」
リリーは心底感心した様子だった。
エドガーは嫌な予感しかしなかった。
*
セシリアは再び書斎へ戻った。
今度は、扉を閉めて調べ始めた。
「エドガー。扉の下を見よ」
「はい」
「この隙間、銀の懐中時計が通ると思うか?」
「時計の厚みによるかと」
「ふむ」
セシリアは自分の小さな懐中時計を取り出した。
床に置き、扉の下へ滑らせる。
時計は途中で引っかかった。
「通らぬのう」
「そのようでございます」
「では、なぜ床に傷がある?」
エドガーは扉の下を見た。
「……何かを引きずった跡のようにも見えます」
「うむ」
セシリアは廊下側へ回り、床を調べた。
扉の下には、古い木製の敷居がある。
その一部だけ、わずかに削れていた。
「……ほう」
セシリアは指先で敷居を押した。
小さな木片が動いた。
「エドガー!」
「はい?」
「ここ、外れるぞ!」
エドガーが屈み込む。
敷居の一部は、古い修繕の際に取り付けられた薄い板だった。
固定が緩み、持ち上げると扉の下に大きな隙間ができる。
「これは……」
「時計が通るのう!」
「確かに」
セシリアは目を輝かせた。
「密室の謎が解けたぞ!」
「お見事でございます」
「ふふん!」
セシリアは胸を張った。
「つまり、犯人は扉を開けずに時計を取り出したのじゃ!」
「その可能性は高いかと」
「そして、そのためには糸が必要じゃ!」
「……先ほどの赤い糸でございますね」
「うむ!」
セシリアは書斎の机を見た。
銀盆の位置。
床の傷。
扉の下の隙間。
赤い糸。
リリーのエプロン。
すべての証拠が、ひとつの人物を指していた。
「……犯人はわかった」
セシリアは静かに言った。
エドガーは安堵した。
今度こそ、まともな推理が聞けるかもしれない。
しかし。
「動機も、すべてわかったのじゃ!」
エドガーの安堵は、一瞬で消えた。
*
午後三時。
伯爵夫妻、リリー、エドガーが応接間に集められた。
セシリアは暖炉の前に立ち、全員を見渡した。
「諸君!」
伯爵が眉をひそめた。
「諸君?」
「これより、密室盗難事件の真相を明らかにするのじゃ!」
「もうわかったのか?」
「無論じゃ!」
セシリアは自信満々に頷いた。
「まず、この事件は密室などではなかった!」
夫人が息を呑む。
「どういうことですの?」
「犯人は扉を開けておらぬ。時計だけを外へ運び出したのじゃ」
セシリアは敷居の緩んだ板について説明した。
さらに、時計を糸で引き寄せれば扉の下から取り出せることを示した。
伯爵は驚いた顔をした。
「……なるほど。そんな方法が」
「机の上に残った跡、床の傷、赤い糸。すべてがその方法を示しておった」
セシリアは満足げに頷いた。
夫人も感心した様子だった。
「では、犯人は……?」
セシリアはゆっくりと腕を上げた。
その指先が、リリーを捉える。
「そなたじゃ!」
「ひゃっ!?」
リリーが飛び上がった。
「そなたが時計を持ち出したのじゃな!」
「ど、どうして……!」
リリーの顔から血の気が引いた。
伯爵が立ち上がる。
「リリー、本当なのか?」
「そ、それは……」
「隠しても無駄じゃ!」
セシリアは一歩踏み出した。
「わらわは、そなたの動機まで見抜いておる!」
リリーが目を見開いた。
「えっ!?」
「そなたは伯爵を愛しておる!」
「は、はい……?」
「しかし、伯爵には妻がおる!」
「はい?」
「そこでそなたは、結婚記念日を前に、二人の愛の記念品を奪ったのじゃ!」
伯爵が固まった。
夫人も固まった。
リリーは口を開けたまま動かなかった。
セシリアはさらに続ける。
「つまり、そなたは伯爵夫妻の愛の象徴を消し去ることで、二人の仲を引き裂こうとしたのじゃ!」
「…………」
「そして、いずれは自分が伯爵夫人の座に収まろうと!」
「ち、違いますうううう!!」
リリーの悲鳴が応接間に響いた。
「私、そんなこと考えてません!!」
「隠さずともよい!」
「隠してません!!」
「伯爵を愛しておると言ったではないか!」
「尊敬してるって意味です!!」
「では、時計を持ち出した理由は何じゃ!」
「結婚記念日のサプライズですううう!!」
沈黙。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。
「……サプライズ?」
セシリアが聞き返した。
「はい……」
リリーは涙目になって頷いた。
「明日は旦那様と奥様の結婚二十五周年なんです……」
伯爵夫人が小さく息を呑んだ。
「……銀婚式」
「はい!」
リリーは鼻をすすった。
「だから、何か特別なお祝いをしたくて……」
「それで、なぜ時計を盗んだのじゃ?」
「盗んでません! ちょっとお借りしただけです!」
「無断で持ち出せば盗難じゃ」
「うう……」
リリーは肩を落とした。
「時計の蓋に刻まれている日付を、銀細工師さんに見せたかったんです」
「日付?」
「はい。旦那様と奥様のお名前と、婚約の日付が入っているでしょう?」
伯爵が頷いた。
「ああ」
「同じ文字を入れた記念の銀皿を作ってもらおうと思って……」
夫人が目を丸くした。
「銀皿?」
「はい! お二人のお名前と日付を入れて、真ん中にお花を彫ってもらうんです!」
「……それは、随分と手の込んだことを」
「でも、文字を写し間違えたら大変だから、時計を見せようと思って……」
セシリアが首を傾げた。
「紙に書き写せばよかったのではないか?」
「…………」
リリーは固まった。
「……あっ」
伯爵が額を押さえた。
夫人は天井を仰いだ。
エドガーは目を閉じた。
「それに、なぜ扉の下から取り出したのじゃ?」
セシリアが尋ねる。
「だって、書斎には鍵がかかっていたんです!」
「うむ」
「でも、旦那様の時計が欲しくて……」
「うむ」
「扉の下に隙間があるのを見つけて、赤いリボンを輪にして引っ張れば取れるかなって!」
「……よく思いついたのう」
「ありがとうございます!」
「褒めておらぬ!」
リリーはしゅんとした。
「時計は今どこにあるのです?」
夫人が尋ねた。
「私の部屋です……。今朝、銀細工師さんに持っていくつもりだったんですけど、奥様が盗難だって大騒ぎになって……」
「それなら、すぐに名乗り出ればよかったでしょう!」
「怒られると思って……」
「今のほうがよほど怒っています!」
「ごもっともですううう!」
リリーはその場で泣き崩れた。
伯爵は深いため息をついた。
「……まったく。何ということだ」
「旦那様、ごめんなさい……」
「君の気持ちはありがたい。しかし、勝手に人の持ち物を持ち出してはいけない」
「はい……」
「それに、書斎の敷居を壊したのか?」
「ちょっとだけ……」
「ちょっとではない!」
「はいぃ……」
伯爵夫人は、しばらくリリーを見つめていた。
そして、静かに口を開いた。
「リリー」
「は、はい……」
「あなたが私たちの結婚記念日を祝おうとしてくれたことは、嬉しく思います」
リリーが顔を上げた。
「奥様……」
「ですが」
夫人の声が低くなった。
「仕事を放り出して準備をし、主人の大切な時計を無断で持ち出し、屋敷中を大騒ぎにしたことは、決して許されません」
「……はい」
「それから、銀皿の代金は?」
「……まだ払ってません」
「どこから出すつもりだったのです?」
「……お給金を、少しずつ……」
夫人はため息をついた。
「まずは、自分の仕事をきちんと覚えなさい」
「はい……」
「お祝いは、それからです」
リリーは何度も頷いた。
伯爵が夫人に向き直る。
「アデライン。私からも謝ろう。彼女を甘やかしすぎた」
「……ようやく認めてくださいましたのね」
「ああ」
伯爵は苦笑した。
「友人の娘だからと、つい大目に見てしまった」
「それでは、あの子のためにもなりませんわ」
「そのとおりだ」
二人は顔を見合わせた。
そして、ようやく小さく笑った。
*
事件は解決した。
懐中時計は無事に戻り、密室の謎も解けた。
伯爵夫妻はセシリアに礼を述べ、謝礼を渡した。
「見事な推理だったよ、セシリア嬢」
伯爵が言った。
「うむ! 当然じゃ!」
「まさか、扉の下から時計を取り出していたとは」
「ふふん!」
「しかし……」
伯爵は少し言いにくそうに続けた。
「私とリリーが恋仲だという話は、いったいどこから出てきたのだね?」
セシリアは胸を張った。
「そなたが彼女を庇っておったからじゃ!」
「友人の娘だからだと説明しただろう!」
「愛人を庇う男も、同じことを言うものじゃ」
「私は愛人を持ったことがない!」
「経験がないのに、なぜわかるのじゃ?」
「自分のことだからだ!!」
夫人が思わず吹き出した。
エドガーは口元を押さえた。
セシリアは不思議そうに首を傾げた。
「しかし、今回も愛が事件の鍵であったのう」
「……まあ、そうかもしれんな」
伯爵は苦笑した。
「リリーは私たちを祝おうとしてくれたのだから」
「うむ!」
セシリアは満足げに頷いた。
「やはり、わらわの推理は正しかったのじゃ!」
「そこは違うと思うがね」
「細かいことを気にする男は嫌われるぞ、伯爵」
「君に結婚生活を説かれるとは思わなかったよ!」
*
帰りの馬車。
セシリアは窓の外を眺めながら、満足げに微笑んでいた。
「今日もまた、見事に事件を解決したのう」
「左様でございますね」
「密室の仕掛けを暴き、犯人を見つけ、伯爵夫妻の愛まで守ったのじゃ」
「最後の一つは、特に何もなさっておりませんが」
「謙遜するでない」
「私が謙遜する理由はございません」
セシリアは腕を組んだ。
「しかし、ひとつだけ気になることがある」
「何でございましょう?」
「そなた、伯爵と昔から知り合いなのであろう?」
「はい」
「では、やはりこの屋敷には、そなたの昔の恋人が……」
「おりません」
「最後まで言わせるのじゃ!」
「結論がわかっておりますので」
セシリアは頬を膨らませた。
「まったく、そなたは秘密が多いのう」
エドガーは静かに微笑んだ。
「お嬢様ほどではございません」
「わらわに秘密などないぞ?」
「……それは、存じております」
馬車が石畳を進んでいく。
エドガーは懐から小さな封筒を取り出した。
伯爵から、帰り際にそっと渡されたものだった。
封筒には、古い筆跡で短い言葉が記されている。
『あの件について、いずれ話をしたい』
エドガーはしばらく封筒を見つめた。
そして、何事もなかったように懐へ戻した。
「エドガー!」
「はい?」
「次の事件は、いつ来るかのう!」
「できれば、しばらく来ないことを願っております」
「何を言う! 名探偵に休息は不要じゃ!」
「私は必要でございます」
セシリアは楽しそうに笑った。
その隣で、老執事は静かにため息をついた。
こうして、名探偵セシリア・アッシュフォードは、また一つ事件を解決した。
犯人は正解。
密室の仕掛けも正解。
ただし、動機だけは、今回も盛大に間違っていた。
本人は、最後まで気づかなかった。
第三話 完




